第2話 使える、と安全は違う
翌朝、ルアンは鐘が鳴るよりずっと前に目を覚ました。
正確には、右腕の鈍い痛みで目が覚めた。布団の中で腕を伸ばすと、肩から指先にかけて、筋肉痛に似た重さがじわりと走る。昨夜、七番倉庫で何度も魔力を流したせいだろう。
「……痛い」
右手を握り、開き、もう一度握る。動かないわけではないが、腕の内側に細い棒でも差し込まれているような感覚が残っていた。
それでも、昨夜のことを思い出すと口元が緩んだ。
昨日までは、肘を越えるだけでも精一杯だった。それが初めて前腕を通り、手首を越え、人差し指の先まで届いた。ほんの一瞬だったが、確かに自分の魔力で白い光を灯した。
「もう一回やったら……」
そこまで言って、右腕を布団へ戻した。今から試して動かなくなれば仕事に支障が出るし、昨夜は鼻血まで出している。何よりダグに知られた時、何を言われるかはだいたい想像できた。
ルアンは布団から抜け出し、冷たい水で顔を洗ってから着替えた。今日は髪もそれほどひどく跳ねていない。窓の外はまだ薄暗く、アルネスの街もようやく夜から朝へ移り始めたところだった。
階段を下りると、食堂ではマーサが大鍋をかき回していた。
「おや。今日は坊やが自分で起きてきたよ」
「僕だって毎日起こされてるわけじゃないよ」
「昨日は三回起こしたけどね」
「昨日は昨日」
「都合のいいこと言うねえ」
マーサは笑いながら薄いスープを皿へよそい、黒パンと一緒にルアンの前へ置いた。
「これ、頼んでないけど」
「余りものだよ」
「本当に?」
「疑うなら食べなくてもいいよ」
「食べます」
即答すると、マーサが鼻で笑った。
昨夜は帰りが遅く、夕食を食べたあとはほとんどそのまま眠ってしまった。腹はしっかり減っていて、ルアンは黒パンをスープへ浸し、柔らかくなったところから口へ運んだ。
向かいからマーサの視線を感じた。
「坊や」
「何?」
「顔色悪いね」
ルアンはパンを持ったまま、自分の頬へ触れた。
「そうかな」
「昨日、何してた?」
「……ちょっと運動」
「仕事のあとに?」
「少しだけ」
「少しだけやって、そんな顔になるのかい」
ルアンは返事の代わりにパンを口へ入れた。これ以上話すと、どこで何をしていたのかまで聞かれそうだった。
マーサはしばらく疑わしそうに見ていたが、やがて大きく息を吐いた。
「仕事で倒れるんじゃないよ」
「大丈夫」
「若いのは、そう言って倒れるんだよ」
「倒れたことないよ」
「一回目ってのは、誰にでもあるんだよ」
朝から縁起の悪い話をされた。ルアンは残ったスープを飲み干し、食器を重ねてから礼を言って月兎亭を出た。
昨日より早い時間のアルネスには、まだ夜の冷たさが少し残っていた。それでも迷宮大門へ近づくにつれて人の数は増え、武具店では店主が鎧戸を開き、屋台からは肉を焼く匂いが漂い始めている。探索者たちは装備を確かめ、回収士たちは籠や縄を荷車へ積み込んでいた。
大門を通り過ぎる時、ルアンは地下へ続く石段へ目を向けた。壁際には導灯の青白い光が等間隔に続いている。
昨夜、自分の指先に灯った光とは比べものにならない。それでも同じように魔力から生まれた光なのだと思うと、少しだけ見え方が変わった。
「何にやけてんだ」
すぐ隣から声をかけられ、ルアンの肩が小さく跳ねた。
いつの間にかダグが立っている。
「にやけてません」
「にやけてた」
「普通です」
「気持ち悪い普通だな」
「朝からひどくないですか?」
ダグは相手にせず、迷宮管理院へ入っていく。
「今日は十三号から十九号だ。さっさと着替えろ」
「昨日聞きました」
「なら早くしろ」
「まだ始業前ですよ」
ダグが足を止めた。
「昨日、何て言った?」
「……始業鐘が鳴る時には、着替えて工具持って、現場へ出られる状態にしておけ」
「覚えてるじゃねえか」
ルアンは小さく舌を出した。もちろん、ダグには見えない位置で。
今日の点検は順調に進んだ。
十三号は異常なし。十四号は魔石残量七割。十五号では昨日報告した接触抵抗を再確認し、十六号では固定金具にわずかな緩みが見つかった。ルアンが工具で締め直している間、ダグは隣で記録板へ数字を書き込んでいた。
「終わりました」
「見せろ」
ダグがしゃがみ込み、固定した金具を太い指で揺らした。
「締めすぎ」
「緩いよりいいでしょう?」
「よくない。次に外す時、工具が噛んで動かなくなる」
ダグは工具を受け取り、ほんの少しだけ金具を戻した。それでも指で揺らしてみれば、きちんと固定されている。
「ここは一回直して終わりじゃない。次に触る奴が困らないように直せ」
「……はい」
ルアンも同じ金具を指で確かめた。固定されているのに、必要なら外せる。その加減は見ただけでは分からず、実際に触って初めて違いが分かった。
「難しいな」
「だから仕事なんだろ」
「ダグさん、たまにいいこと言いますよね」
「たまに余計だ」
十七号導灯へ向かう途中、三人組の探索者とすれ違った。一人は腕に厚く包帯を巻いていて、残る二人も歩調を合わせるようにゆっくり地上へ向かっている。
ルアンが何となく背中を目で追うと、ダグが前を向いたまま言った。
「怪我が気になるか」
「ちょっと。あれくらいなら、治療したらまた行けそうですけど」
「本人たちが戻ると決めたなら、それでいい」
ダグは歩調を変えなかった。
「迷宮じゃ、欲張った奴から死ぬ」
ルアンは返事をせず、少し先の導灯へ視線を戻した。
無理をするな。深追いするな。帰れるうちに帰れ。似た言葉は何度も聞いているのに、迷宮から戻らない人間は毎月のようにいる。
十八号の点検に取りかかって間もなく、少し離れた通路から声が聞こえた。
「おかあさん!」
ルアンは工具を持つ手を止めた。続けて、同じ声がもう一度響く。
「おかあさん!」
子供の声だった。
ダグも記録板から顔を上げた。二人で声のした脇道へ向かうと、導灯の明かりが続く先に、小さな男の子が一人で立っていた。六歳か七歳くらいで、薄茶色の上着を着ている。頬は涙で濡れ、鼻をすすりながら辺りを見回していた。
ルアンは少し手前で立ち止まり、しゃがんで目線を合わせた。
「どうした?」
「おかあさんが、いない」
少年は鼻をすすりながら周囲を見回した。父親らしい姿も近くにはない。
「お父さんも一緒だった?」
「うん。おとうさんと、おかあさんと……見に来たの」
浅層の一部は、日中なら一般の人間も指定された範囲まで入ることができる。七大迷宮を一目見ようと訪れる者も多く、管理院は見学区域の導灯や巡回を特に多くしていた。それでも、地上の観光地と同じように歩ける場所ではない。
ルアンは周囲を見回した。
「どこで離れたか、覚えてる?」
「わかんない……」
また涙が溜まり始めた。
「大丈夫。怒ってないから。何か覚えてるものある? 大きな岩とか、橋とか」
「……青い、ひかり」
後ろでダグが小さく息を吐いた。
「全部青いな」
ルアンは振り返った。
「いまそれ言います?」
「事実だろ」
「子供相手なんだから、もう少し」
「じゃあお前が訊け」
丸投げされた。
ルアンは男の子へ向き直り、すぐ近くの導灯を指した。
「この灯りの下に番号があるんだけど、見た覚えある?」
「ばんごう?」
男の子は首を振った。
「見てない」
「そうだよね」
六歳くらいの子供が、迷宮見学をしながら管理番号を確かめているはずもない。ルアンは少し考え、別のものを探すことにした。
「お父さんとお母さんと一緒にいた時、何か見なかった?」
「……おおきい剣のひとがいた」
「大きい剣?」
「ここくらいの」
男の子は両手をいっぱいに広げた。
「そんな剣あるかな」
「ある」
ダグが即答した。
「十五号の近くに鉄壁団がいた。昨日から浅層で新人の訓練やってる。馬鹿みたいにでかい両手剣を持ってる奴が一人いる」
「最後の説明、必要でした?」
「分かりやすいだろ」
確かに分かりやすかった。
ルアンは男の子へ手を差し出した。
「じゃあ、十五号の方へ戻ってみよう」
「……おかあさん、いる?」
「探そう。名前は?」
「トーマ」
「僕はルアン」
トーマは少し迷ったあと、小さな手でルアンの指を握った。
その軽さに、ルアンの背筋が少しだけ伸びた。
迷宮の中で子供と手を繋いだだけなのに、さっきまで工具を持っていた時とは足元の見え方が違う。自分が滑れば、自分だけでは済まない。
「ダグさん」
「俺は先に連絡を入れる。お前はトーマを連れて十五号まで戻れ」
「僕一人で?」
「導灯沿いだ。できるな?」
ルアンは一度、握られた手を見た。
「……はい」
ダグは頷き、連絡を取るため別の通路へ向かった。
二人で歩き始めると、トーマは何度も導灯を見上げていた。
「ルアン、たんさくしゃ?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
「灯守。あの灯りを直す仕事」
「強い?」
「……どうかな」
思ってもいなかった質問だった。
「魔物たおせる?」
「小さいのなら……たぶん」
「たぶん?」
「まだ倒したことないから」
正直に答えると、トーマは「ふうん」とだけ言った。ルアンが少し情けなく思ったほどには、気にしていないらしい。
しばらく歩くと、トーマはまた導灯を見上げた。
「このひかり、ルアンがつけたの?」
「僕一人じゃないよ。管理院のみんなで点検して、壊れたら直すんだ」
「消えない?」
「消えることもあるよ」
「こわい」
ルアンは青白い光を見た。
「だから、消えないように見てるんだ」
口にしてから、自分でも少しだけその言葉を聞き直した。
毎日やっていることだった。魔石を調べ、導線を替え、金具を締める。けれど、迷宮を怖がる子供の隣で説明すると、それまでとは少し違って聞こえた。
十五号へ戻る途中で、トーマが突然足を止めた。
「あっち」
脇道を指している。
「おかあさん、あっち行った」
ルアンもそちらを見る。導灯は一本だけ続いていて、その先で通路が二つに分かれていた。一般見学区域から外れてはいないし、危険な魔物が出る場所でもない。
ただ、ダグに言われた十五号とは逆方向だった。
「本当に?」
「うん。こっち」
トーマに手を引かれ、ルアンの足が半歩動いた。
少し見るだけなら問題ないかもしれない。導灯もあるし、ここは管理区域の中だ。もし本当に両親が向こうにいるなら、十五号まで戻るより早く見つかる可能性もある。
けれど、自分の手の中にはトーマの手がある。
昨日、焼けた導線を前にダグから言われたことを思い出した。まだ使えることと、そのまま使い続けていいことは同じではなかった。
ルアンは足を止めた。
「……ごめん。やっぱり、こっちは行かない」
「でも、おかあさん……」
トーマが見上げてくる。
「うん。でも十五号まで戻るって決めたから。そこにいなかったら、ちゃんと人を呼んで探してもらおう」
「ルアンも人じゃないの?」
「そういう意味じゃなくて」
「大人?」
「……一応、働いてるけど」
トーマは少し考えた。
「じゃあ大人じゃん」
「そうなのかな」
自信を持って答えられないまま歩き出すと、トーマも素直についてきた。
十五号導灯が見えるところまで戻った時、前方から大きな声が響いた。
「トーマ!」
女性が走ってくる。
トーマは握っていた手を離し、そのまま駆け出した。
「おかあさん!」
女性はその場へ膝をつき、飛び込んできたトーマを両腕で抱き締めた。少し遅れて父親らしい男と管理院の職員が二人、その後ろからダグも歩いてくる。
「本当に、本当にありがとうございます」
母親が何度も頭を下げた。
「いえ、僕は連れてきただけで……」
父親から事情を聞くと、十五号付近で少し目を離した間に、トーマが探索者の一団を追いかけて歩いていってしまったらしい。両親は十五号より地上側を探していたため、十八号の近くまで進んだトーマとは行き違っていた。
トーマが途中で指した脇道に、両親は行っていなかった。
ルアンはそのことを聞いて、さっきの分かれ道を思い出した。
あのままトーマに引かれて進んでも、すぐ危険な目に遭ったとは限らない。けれど、両親との距離は確実に広がっていた。
「ルアン」
ダグに呼ばれ、顔を上げる。
「戻るぞ」
「あ、はい」
親子を職員へ任せ、二人は十八号へ向かって歩き始めた。しばらくはダグも何も言わず、ルアンも足元の石だけを見て歩いていた。
やがて、前を歩くダグが口を開く。
「途中で寄り道しようとしたな」
「……見てたんですか?」
「見てない」
「じゃあ、なんで分かるんですか」
「お前ならやりそうだから」
ひどい言われようだが、図星なので強くは返せなかった。
「でも、行かなかったんだろ」
「はい」
「なんでだ」
ルアンは少し考えた。
「分からなかったからです。トーマが言ってる方に、本当にお母さんがいるかもしれなかった。でも、違うかもしれなかった」
「それで?」
「僕一人だったら、たぶん少し見に行ってたと思います」
ダグが横目で見る。
「だろうな」
「でも、今日はトーマがいたから」
ダグはしばらく何も言わず歩いた。
青白い導灯が一つ、また一つと横を過ぎていく。
「使える、と安全は違う」
ルアンは顔を上げた。
ダグは前を向いたままだった。
「道がある。灯りもついてる。お前一人なら歩ける。だからって、預かったガキを連れて入っていい道になるわけじゃない」
「……はい」
少し間を置いて、ダグが続けた。
「一人でできることと、一人でやるべきことも違う」
ルアンは返事をせず、その言葉を聞いていた。
昼休み、二人はいつものように通路の壁際へ腰を下ろした。
ルアンは黒パンを食べ、ダグは隣で干し肉を噛んでいる。少し離れたところを探索者たちが通り過ぎ、何人かは灯守の二人へ軽く手を上げてから奥へ進んでいった。
「ダグさん」
「何だ」
「灯守って、けっこう大事な仕事なんですね」
「今さらか」
予想通りの返事だった。
「大事なのは知ってましたよ」
「なら何だ」
「……何というか、今日はちょっと分かった気がして」
導灯を磨く。導線を替える。魔石の残量を測り、緩んだ金具を締める。毎日やっているのは、そういう地味なことばかりだった。
魔物を倒すわけでもなければ、珍しい素材を持ち帰るわけでもない。
それでも、トーマは導灯が消えるのを怖がった。
「僕、もっと強くなりたいんです」
口にしてから、ルアン自身も少し唐突だったと思った。
ダグが干し肉を噛みながらこちらを見る。
「何の話だ」
「迷宮にもっと入りたいし、中層にも行きたいです。その先も見てみたい。でも……それだけじゃなくて」
ルアンは手元の黒パンを見た。
「強くなったら、誰かを守れるのかなって」
ダグはすぐには答えなかった。
干し肉を飲み込み、水筒の水を一口飲んでから、ルアンを見る。
「今日、お前は魔物を倒したか?」
「倒してません」
「短剣抜いたか?」
「抜いてません」
「魔術は?」
「……使ってません」
ダグはそれだけ聞くと、また前を向いた。
「それでも、ガキは親のところに戻った」
「……はい」
「強い方がいい時はある。だが、それだけで何でもできる気になるな」
ルアンはしばらく黒パンを見ていた。
「じゃあ、強くならなくてもいいってことですか?」
「誰がそんなこと言った」
「今の流れだと、ちょっと」
「勝手に諦めるな」
ダグは立ち上がり、腰を伸ばした。
「強くなりたいならなれ。仕事を覚えたいなら覚えろ。一つできるようになったからって、次も全部できるとは思うな」
「……難しいですね」
「だから仕事なんだろ」
また同じ言葉だった。
ルアンは思わず笑った。
「それ、便利ですね」
「何が」
「困った時に『だから仕事なんだろ』って言えば、大体まとまる」
「便利だぞ」
「認めるんだ」
午後の作業を終えて地上へ戻る頃には、足だけでなく右腕も朝より重くなっていた。昨夜の疲れが抜けきっていないらしい。
管理院で工具と点検表を返したあと、ルアンは庁舎を出た。
右へ曲がれば月兎亭。
左へ曲がれば七番倉庫だった。
ルアンは道の真ん中で立ち止まった。
今日は早く寝た方がいい。マーサにも顔色が悪いと言われたし、朝から右腕も痛んでいる。そう考えて右へ一歩進んだところで、昨夜の指先に灯った白い光を思い出した。
足が止まる。左を見ると七番倉庫へ続く道があり、右へ進めばそのまま月兎亭へ帰れる。今日はやめた方がいいと思う一方で、昨夜の指先に灯った白い光が頭から離れなかった。
少しだけなら――そう考えて左へ向きかけたところで、背後から声がした。
「何してんだ、お前」
ルアンは身体ごと振り返った。ダグが呆れた顔で立っている。
「何でもないです」
「道の真ん中で右見たり左見たりしてる奴が?」
「ちょっと考え事を」
「帰れ」
「はい」
ダグの太い手で肩を右へ向けられ、そのまま月兎亭の方へ押し出された。ルアンは素直に歩き始めたが、それは少なくともダグの姿が見えなくなるまでだった。
角を二つ曲がったところで足を止め、後ろを見る。誰もいないことを確かめてから、その場でくるりと向きを変えた。
「少しだけだから」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
七番倉庫の扉を開けると、昨日と同じ冷たい空気と古い油の匂いが迎えた。ルアンは上着を木箱へ置き、右腕をゆっくり回してみる。朝から残っている痛みはまだ消えていなかったが、動かせないほどではない。
だから今日は、本当に少しだけにするつもりだった。
呼吸を整え、身体の奥へ意識を向ける。胸から肩へ魔力を通し、肩から上腕、肘へと細い流れを伸ばしていく。昨日より少し滑らかに進んだものの、手首へ向かわせたところで流れが散った。
「……惜しい」
一度腕を下ろし、少し間を置いてからやり直す。二度目も手首で消え、三度目は掌まで届いたものの、指へ入る直前で熱がほどけた。
「もう一回」
四度目は肘で失敗し、五度目は肩で散った。昨日より下手になっているような気がして、ルアンは眉を寄せる。右腕の重さも少しずつ増していた。
疲れているせいかもしれない。それくらいは分かっている。
それでも、一度できたことが今日はできないというのが、どうにも悔しかった。
「……もう一回」
胸から肩へ、肩から腕へ。肘を越えた流れを前腕から手首へ通し、今度は掌まで届いたところで急がせない。指へ押し込もうとせず、細い熱がそのまま進むのを待つ。
人差し指の先に、白い光が灯った。
ルアンは呼吸を止めないように気をつけながら、指先を見つめた。昨日よりわずかに大きく、揺れながらもすぐには消えない。
ルアンは呼吸を止めないように気をつけながら、指先を見つめた。昨日よりわずかに大きく、揺れながらもすぐには消えない。
心の中で一つ、二つと数えたところで、光がふっと消えた。ルアンは暗くなった指先を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
「……二秒」
導灯なら夜通しでも灯り続ける。それに比べれば何でもないほど短い時間だったが、昨日はほんの一瞬だった。今日は、二秒。
もう一度右手を構えかけたところで、腕の奥に鈍い痛みが走った。朝から残っていた重さがさっきよりもはっきりし、指を握ると前腕にも細かな痺れがある。
“一つできるようになったからって、次も全部できるとは思うな。”
昼間のダグの声が頭に戻ってきた。
続ければ、もう一度くらい光るかもしれない。けれど、明日の朝に腕が動かなければ仕事にならない。ルアンは右手を見たまましばらく迷い、それからゆっくり腕を下ろした。
「……今日は、ここまで」
上着を着て、使ったものを元の位置へ戻す。扉を開ける前に一度だけ倉庫の暗がりを振り返ったが、もう右手を上げることはしなかった。
二秒。
明日は、もう少し長くできるかもしれない。そう思いながら扉を閉め、鍵を掛ける。
「……もう一回は、明日だ」
その夜、月兎亭の食堂へ戻ると、夕食の皿には珍しく卵が一つ乗っていた。ルアンは椅子へ座りながら皿とマーサを交互に見る。
「これ……」
「余りものだよ」
マーサは鍋の方を向いたまま、それだけ言った。
朝にも聞いた言葉だった。ルアンは何も訊かず、まだ少し痛む右腕を膝の上へ置いて、温かい卵をありがたく食べた。




