第1話 朝の迷宮都市
「ルアン坊や! 起きな!」
階下から響いてきた大声に、ルアン・ヴァレンはゆっくりと目を開けた。最初に見えたのは、何年も見慣れた月兎亭の薄暗い天井だった。染みの浮いた板張りをぼんやり眺めているうちに、まだ身体の半分ほどが眠りの中に残っていることに気づき、ルアンは何事もなかったようにもう一度まぶたを閉じた。
「起きたかい!」
「……起きました」
「嘘つけ! いま目ぇ閉じただろ!」
なぜ分かったのだろう。少し考えたところで答えは出そうになく、ルアンは諦めて毛布をはねのけた。
秋も深まりつつあるアルネスの朝は、もうかなり冷える。窓際の水差しから盥へ水を注ぎ、冷たさに顔をしかめながら洗うと、ようやく頭が少しだけ動き始めた。鏡を覗けば、淡い灰銀色の髪が見事な寝癖を作っていて、手ぐしで何度か撫でつけても右側だけが妙に跳ねたままだった。
「……まあ、いいか」
十五歳の少年が仕事へ出るだけで、今日は誰かに会う約束があるわけでもない。そう思って窓の外へ目をやったところで、ルアンの手が止まった。
朝の光が、思っていたよりずっと高いところから差し込んでいる。
「まずい」
上着を引っかけ、仕事用の鞄を掴んで部屋を飛び出した。階段を駆け下りると、古びた木の板が足元でぎしぎしと大げさな音を立てる。
「走るんじゃないよ!」
一階の食堂では、女将のマーサ・ベルネが腰に手を当てて待ち構えていた。五十を過ぎた大柄な女性で、太い腕とよく通る声の持ち主だ。宿泊客の探索者たちは、彼女を怒らせるくらいなら迷宮で魔物に追われた方がまだましだと冗談半分に話しているが、ルアンも半分くらいは同意していた。
「マーサさん、なんでもっと早く起こしてくれなかったの?」
「三回起こしたよ」
「三回?」
「一回目は『起きてます』。二回目は『あと少しだけ』。三回目は返事すらなかった」
ルアンは口を閉じた。反論に使えそうな材料が一つもない。
マーサは呆れたように鼻を鳴らし、紙に包んだ黒パンをルアンの胸元へ押しつけた。
「持ってきな」
「ありがとう」
「代金は?」
「昨日払ったよ」
「覚えてるなら結構」
黒パンを鞄へ入れ、今度こそ入口へ向かう。
「坊や」
呼び止められて振り返ると、マーサはもう食堂のテーブルを片づけ始めていた。
「今日は帰り、いつもくらいかい?」
「たぶん」
「なら夕飯は残しとくよ」
「うん。ありがとう」
扉を開けると、冷えた朝の空気が一気に入り込んできた。ルアンは襟元を押さえ、まだ身体に残る眠気ごと振り切るように通りへ出た。
迷宮都市アルネスの朝は早い。
正確に言えば、街全体が早起きなのではない。迷宮大門へ続く一帯だけが、日の出とともに別の生き物のように動き始める。
荷車を押す商人、武器を背負った探索者、籠を担いだ回収士、薬草箱を運ぶ薬師。迷宮管理院の職員たちも工具箱や書類束を手に大門へ向かっている。屋台では眠そうな男たちが湯気の立つスープをすすり、その隣では、これから迷宮へ入るとは思えないほど楽しそうに笑い合う若い探索者たちがいた。
人も、荷も、声も、ほとんど同じ方向へ流れている。
その先、薄い朝靄の向こうに巨大な石造りの門が姿を現した。
迷宮大門。
アルネスで最も高い建造物というわけではない。それでも初めて訪れた者は、たいていその前で足を止める。何百年もの風雨にさらされた黒灰色の石が巨大な門を形づくり、その向こうには人間が何十人並んでも余るほどの幅を持つ石段が、地下へ向かって緩やかに続いている。
その先にあるのが、七大迷宮の一つ、エルナディア大迷宮だった。
ちょうど大門の前で、旅人らしい親子が立ち止まっていた。十歳にもならない少年が口を開けたまま門を見上げ、その隣では父親らしい男も同じように首を反らしている。
「すごい……」
「これが七大迷宮か」
ルアンは二人の横を急いで抜けた。
「すみません、通ります!」
少年が驚いた顔で振り返る。ルアンにとって迷宮大門は毎日通る場所であり、見上げている余裕があるなら、今はそのぶん足を動かしたかった。
大門の東隣に建つ無骨な石造りの庁舎へ滑り込み、入口脇の時計を見る。針を確かめたルアンは、ようやく息を吐いた。
「間に合った」
「間に合ってない」
背後から低い声が落ちてきた。
ルアンの肩がわずかに跳ねる。振り向くと、作業着姿の大柄な男が立っていた。黒に近い肌に短く刈った頭、厚い肩と腕には長年の仕事でついた細かな傷が残り、大きな手にも硬い胼胝が目立つ。
迷宮管理院・導灯保全部所属、ダグ・ヘルマン。ルアンの直属の先輩である。
「ダグさん。おはようございます」
「二分遅刻」
「でも始業鐘は、まだ――」
カァン、と鐘が鳴った。
庁舎の中へ始業を告げる音が響き、ダグは何も言わずルアンを見る。ルアンも時計を見てから、もう一度ダグを見た。
「……いま鳴りましたね」
「始業鐘が鳴る時には、着替えて工具持って、現場へ出られる状態になってろ」
「はい」
「反論は?」
「ありません」
「よし」
それ以上は叱らず、ダグはさっさと背を向けた。
「今日は十二号から十八号まで見る」
「一人ですか?」
「俺も行く」
どうやら期待したものが顔に出たらしい。ダグが足を止め、肩越しにルアンを見る。
「何だ」
「いえ」
「一人で行きたかったのか」
「……少し」
「十年早い」
「僕、十五なんだけど」
「じゃあ二十五になったら考える」
本気なのか冗談なのか、ダグの場合はよく分からない。ルアンは苦笑しながら更衣室へ向かった。
作業着へ着替え、革製の工具帯を腰へ巻く。小型魔石、交換用の導線、固定金具、細い金属棒、清掃布、予備の火口を順に収め、最後に小ぶりの短剣を差した。武器というより作業道具に近いものだが、迷宮へ入る以上、丸腰で歩くわけにもいかなかった。
二人は迷宮大門をくぐり、広い石段を下りていった。
歩くほどに背後の地上光は遠ざかり、代わりに壁際へ一定間隔で並ぶ青白い灯りが足元を照らし始める。腰ほどの高さの金属柱と、その上部に取り付けられた籠状の装置。内部に収められた魔石が、周囲の石壁を淡く浮かび上がらせている。
導灯は、ただ暗闇を照らすためだけのものではない。人間が安全を確認した経路を示し、小型の魔物を遠ざけ、迷宮内部の魔力変動を記録する。道に迷った探索者が地上へ戻る際にも、この灯りの列が目印になる。
導灯が続いている場所。
そこまでが、少なくとも人間が管理できていると考えている領域だった。
十二号導灯の前で、ルアンは膝をついた。金属製の外殻へ手を当て、亀裂や歪みがないことを確かめてから、上部の籠を開く。
「外殻、異常なし。魔石残量、六割」
接点を確認し、導線を指先でなぞる。途中に黒く焦げた跡を見つけ、ルアンは顔を近づけた。
「導線、少し焼けてます」
「交換」
「まだ使えますよ。この程度なら、次の点検まで――」
「交換」
ルアンは顔を上げた。
ダグはしゃがみ込み、焼けた部分を太い指先で軽く弾いた。
「迷宮の中でこれが切れて、灯りが消れたとする。その時、利用者に『まだ使えると思ったんです』って説明するのか?」
「……できません」
「なら交換」
「はい」
工具箱から新しい導線を取り出し、古いものを外す。固定具を緩めている途中で、数人の探索者が二人の横を通り過ぎていった。
大きな盾を背負った男、弓を持つ女性、その後ろには杖を肩へ担いだ若い少年がいる。三人とも足を止めることなく、青白い灯りの先へ進んでいった。
ルアンの手が、ほんの少しだけ止まる。
「見るな」
「見てません」
「見てた」
「……ちょっとだけ」
「手を動かせ」
「はい」
導線へ視線を戻し、固定具を締める。それでも先ほどの三人の背中は、しばらく頭から離れなかった。
彼らが向かった先には、今のルアンでは仕事でも入ることを許されていない中層がある。そのさらに下へ、エルナディア大迷宮は続いている。
どこまで続いているのかを知る者は、まだ誰もいなかった。
十五号導灯の点検を終えた頃には、昼を回っていた。
二人は通路の壁際へ腰を下ろし、ルアンは朝マーサから渡された黒パンを鞄から取り出した。ひと口かじると、知っていた通りに硬い。隣ではダグが干し肉を噛みながら、点検表へ何か書き込んでいる。
「ダグさん」
「何だ」
「中層勤務って、どれくらいで行けます?」
「またそれか」
「訊くだけならいいでしょう」
「試験に受かれば」
「それは知ってます」
「なら聞くな」
会話はそこで終わった。
ルアンはしばらく黒パンを噛み、どうにか飲み込む。朝ならもう少し柔らかかった気もするが、鞄の中で半日過ごした今は、食事というより顎の訓練に近かった。
「……今度、卵挟もうかな」
「贅沢だな」
「卵一個ですよ」
「見習いの給金なら贅沢だろ」
言われてみれば、その通りだった。ルアンは黒パンを見つめて少し考え、卵については次の給料日まで保留することにした。
午後、十八号導灯の点検を終える頃には、腰も膝も重くなっていた。
灯守と聞くと、迷宮の中を歩き回る仕事を想像する者は多い。実際には歩いている時間より、一つの導灯の前へしゃがみ込み、魔石や導線や固定具を調べている時間の方が長い。汚れを落とし、亀裂を探し、摩耗を確かめ、終わればその一つ一つを記録する。
立ち上がったルアンが腰を伸ばすと、背中の奥で筋が引っ張られた。
「年寄りみたいな顔するな」
「ずっとしゃがんでたんですよ」
「俺もだ」
「ダグさんは慣れてるじゃないですか」
「だからお前も慣れろ」
結局そこへ戻るらしい。ルアンは膝を二度ほど曲げ伸ばししてから、工具箱を持った。
地上へ戻る頃には、空はすっかり橙色へ変わっていた。
管理院へ戻って工具を返却すると、ダグはルアンが提出した点検表を一枚ずつ確認する。大きな指が紙の上を動き、交換した箇所や次回の確認事項で止まった。
「十二号、導線交換」
「はい」
「十五号、接触抵抗高め」
「次回交換推奨です」
「十八号」
「異常なし」
ダグは最後の欄へ印を押し、点検表をまとめた。
「明日は十三から十九」
「今日とほとんど同じじゃないですか」
「導灯は一晩で壊れないとでも思ってるのか」
「……壊れないでほしいです」
「俺もだ」
珍しく意見が一致した。
ダグは書類を棚へ収めると、「じゃ、お疲れ」とだけ言って先に帰っていった。ルアンも「お疲れさまでした」とその背中へ返し、自分の荷物を持って庁舎を出る。
夕方の迷宮大門前は、朝とはまた違う賑わいに満ちていた。
迷宮から戻った探索者たちが酒場へ向かい、素材を積んだ荷車が市場へ運ばれていく。今日の稼ぎを数えて笑う者もいれば、高価な素材を拾ったと声を弾ませる者、何も得られず肩を落として歩く者もいる。怪我人を支えながら急ぐ一団の向こうでは、大門を見つめたまま、まだ戻ってこない誰かを待っている人もいた。
ルアンは歩きながら、その光景を目で追った。
やがて月兎亭へ戻る道との分かれ角に来る。
そこで足を曲げ、反対方向へ進んだ。
管理院の裏手には、使われなくなった資材倉庫がいくつも並んでいる。その一番奥に、小さな石造りの建物があり、木製の扉には半分ほど消えかけた文字が残っていた。
《旧第七導灯資材庫》
職員たちは、単に七番倉庫と呼んでいる。
ルアンが鍵を開けて中へ入ると、冷えた空気と、金属と古い油の匂いが迎えた。壊れた導灯や古い工具箱が壁際へ積み上げられ、空になった木箱が無造作に転がっている。暗く、寒く、埃っぽく、仕事が終わった後にわざわざ長居したがる者はいない。
だからこそ、ルアンには都合がよかった。
作業着の上着を脱いで木箱へ置き、凝った肩を何度か回す。それから右手を前へ出して目を閉じ、ゆっくり呼吸を整えた。
魔力そのものは、ルアンにもある。ただ、それを身体の中で運ぶ道がない。
普通、人の身体には紋脈と呼ばれる魔力の通り道がある。胸から肩へ、腕へ、脚へ、そして指先へ。人はその経路を使って必要な場所へ魔力を送り、術式へ流し込む。
ルアンには、その道がなかった。
だったら、自分で通せないか。
最初にそう考えた時には、身体の中で魔力をほんのわずか動かすことさえできなかった。それでも毎日繰り返すうちに、胸から肩へ、肩から上腕へと、短い距離なら流れを保てるようになってきた。
「……よし」
胸の奥へ意識を集め、そこにある魔力を右肩へ押し出す。肩から上腕へ流れが伸び、腕の内側がじわりと熱を持った。
焦らず、そのまま肘へ送る。
「……っ」
肘の手前で流れが散った。熱が消え、代わりに鈍い痺れが残る。
ルアンは右腕を軽く振ってから、木箱へ腰を下ろした。
「今日もここか……」
しばらく休み、痺れが薄くなるのを待ってから立ち上がる。胸から肩、肩から上腕、そこから肘へ。二度目も途中で散り、三度目は肩へ送るところからやり直した。
失敗しても、最初に戻ればいい。
何度目かの挑戦で、熱が初めて肘の向こうへ抜けた。前腕の内側を細く這うように流れが伸び、ルアンは思わず口元を緩める。
その瞬間、集中が切れた。
「……あ」
せっかく伸びた熱が消えていく。ルアンはしばらく自分の腕を眺めてから、小さく息を吐いた。
「集中、集中……」
もう一度、最初から始めた。
十回を越えたところまでは数えていたが、その後は分からなくなった。腕には重さが残り、頭の奥も少しずつ熱を持っている。それでも先ほど一度だけ肘を越えた感覚が残っていて、ルアンは痺れが強くならないよう間を置きながら繰り返した。
胸から肩へ。肩から上腕へ。
肘のところで、今度は流れを急がせない。
細い熱が前腕へ伸び、そのまま手首を越えた。
ルアンは息を止めた。
流れが掌へ入り、さらに人差し指へ向かう。途中で消えそうになるたびに呼吸を浅くし、押し込むのではなく、その細い道を途切れさせないことだけに意識を向けた。
指先に、小さな白い光が灯った。
蝋燭の火よりもずっと小さく、少し揺れただけで消えてしまいそうな光だった。それでも倉庫の暗がりの中で、ルアンの指先だけが確かに白く浮かんでいる。
次の瞬間、光は消えた。
ルアンは右手を目の前まで持ち上げたまま、しばらく動かなかった。もう何も光ってはいないが、指先にはさっきまでとは違う熱がわずかに残っている。
鼻の下に何か温かいものが触れた。
手の甲で拭うと、赤い血がついた。
「……やりすぎた」
そう呟きながら木箱へ腰を下ろす。身体は重く、頭を動かすと少しくらくらしたが、頬だけはどうしても緩んだ。
肘までだったものが、今日は指先まで届いた。
明日の仕事に響けば、ダグには間違いなく怒られる。ルアンは壁へ背中を預け、まだ熱の残る右手を膝の上へ置いた。
「……明日は、もう少し先まで」
いつの間にか、外では夜を告げる鐘が鳴っていた。ルアンはその音を聞きながらしばらく座り込み、指先に灯った小さな光を何度も思い返していた。




