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第10話 黒い導灯

試験に落ちてから、四日が過ぎた。


ルアンの毎日は、それ以前とほとんど変わっていなかった。朝になれば月兎亭(げっとてい)で黒パンとスープを食べ、迷宮管理院へ出勤し、ダグと導灯(どうとう)を点検する。仕事が終われば七番倉庫へ寄り、荷物を背負って歩いたあと、胸の奥から右腕へ魔力を流す練習をして宿へ戻る。


変わったのは、訓練のやり方だった。以前は一秒でも長く維持することばかり考えていたが、今は短い時間でも同じ強さで流し続けることを優先している。三秒ならかなり安定するようになり、四秒まで保てることも増えた。五秒へ届く日もあるが、まだ毎回とはいかない。


荷重歩行も同じだった。いきなり重い荷物を背負うのではなく、少し軽い状態から姿勢と歩幅を崩さず歩くことを繰り返している。以前なら遠回りに思えただろうが、その方が仕事に疲れを残さず、次の日も同じように訓練できた。


ダグに言わせれば、それでようやく普通らしい。


その朝も、ルアンはいつものように管理院の資材室で工具を確認していた。今日の担当は十四号から二十一号まで。中層へつながる分岐にはまだ届かないが、見習いの灯守(ともり)が入る範囲としては比較的奥になる。


点検表を片手に、ダグが資材室へ入ってきた。


「十五号、今日も見るぞ」

「まだ毎日ですか?」

「異常報告出した導灯は、一週間重点監視だ」

「もう何も起きてませんけど」

「何も起きてねえって記録するのも仕事だ」


ルアンは工具袋を肩へ掛けた。以前なら、正常なら毎日見る必要はないのではないかと思ったかもしれない。けれど第十五導灯の一件以来、その考えは少し変わっていた。異常がないことも、確認しなければ分からない。


迷宮大門をくぐると、朝の浅層はすでに多くの人で賑わっていた。探索者の一団が装備を確かめ、採掘人が空の荷車を押し、管理院の職員たちもそれぞれの担当区域へ向かっている。迷宮の中だというのに、導灯の整備された浅層は、時間帯によっては地上の通りと大して変わらないほど人が多い。


十四号には異常がなく、十五号も正常だった。ルアンは外殻(がいかく)を開いて魔石の出力と導線を確認したあと、以前異変の起きた周囲の石壁にも目を向ける。あの日のように光が途中で失われることはなく、青白い灯りは通路の端まで届いていた。


「やっぱり何もないですね」

「それでいい」


ダグは点検表へ印をつけ、そのまま十六号へ向かった。


十六号、十七号にも問題はなく、十八号では外殻の下部に岩鼠(いわねずみ)の爪痕が残っていたため、内部へ入り込んだ砂を簡単に清掃した。十九号では古くなった固定環を交換し、二十号へ着く頃には午前の予定も半分以上を終えていた。


そこで、ルアンは導灯の下部に妙な黒ずみがあることに気づいた。


最初は煤(すす)だと思った。魔石が過熱した時、内部の部品が焼けて外殻へ煤がつくことはある。けれど少し離れて見ると、何かが表面へ付着しているようには見えなかった。


「ダグさん」


呼ばれたダグが隣へ来る。ルアンは外殻には触れず、黒くなっている箇所を指した。


「ここ、昨日もこうでした?」

「いや」


返事は早かった。昨日の点検記録では、二十号導灯に異常はない。


ダグは工具袋を床へ置き、手袋をはめ直した。


「触るなよ」

「分かってます」

「本当だな」

「今回は本当です」


第十五導灯で勝手に調整環へ触れ、始末書を書かされたことを言っているのだろう。ルアン自身も同じことを思い出していたので、素直に一歩下がった。


ダグが慎重に外殻を開く。内部の魔石は正常に光っており、導線にも焼けた跡はない。それでも外殻の内側には、薄い黒い染みのようなものが広がっていた。焦げているわけでもなく、手袋越しに擦っても何もつかない。石材そのものが、内側からゆっくり色を変えているように見えた。


「変ですね」

「見りゃ分かる」

「出力、測ります?」

「頼む」


ルアンは測定具を取り出し、魔石の横にある確認端子へ接続した。針はすぐに動き、通常値を示す範囲のほぼ中央で止まる。念のため二度測ったが結果は変わらず、光量にも目立った揺らぎはなかった。


導灯そのものは、正常に働いているように見える。


ダグは異常内容を点検表へ書き込み、管理院へ提出するための記録札を取り出した。


「交換します?」

「いや。今すぐ外すほどじゃねえ。先に二十一号を見る」


原因の分からない異常を残したまま進むことに、ルアンは少し引っ掛かった。それでも、だからといって勝手に分解する方が危ないことはもう分かっている。二人は二十号へ警告札を付け、そのまま奥へ向かった。


二十一号には異常がなかった。


点検を終えて戻る途中、ルアンは二十号の前で足を止めた。さっき見た時よりも、黒くなっている範囲がわずかに広がったように見える。


「ダグさん。これ、さっきより黒くなってません?」


ダグも足を止め、しばらく外殻を見た。


「……分からんな」


珍しく曖昧な返事だった。


ルアンは近づきたい気持ちを抑え、その場から動かなかった。本当に広がっているのか。一度気にしたせいで、そう見えるだけなのか。自分でも判断できない。


午前の点検はそこで打ち切られた。ダグが管理院へ戻って異常報告を出し、午後には専門の技師を連れて再確認することになった。


地上へ戻る道すがら、ルアンは二十号について何度も考えた。第十五導灯では、導灯そのものの光量は正常なのに周囲だけが妙に暗くなった。今回は光に異常はなく、外殻だけが黒く変色している。まるで別の現象だ。


それでも、同じ浅層で、短い間に原因の分からない異常が二度続いている。


そこだけが、妙に気になった。


管理院へ戻ると、報告を受けた技師がすぐに準備を始めた。午後に同行することになったのは、六十を過ぎた小柄な男だった。オズ・フェルクという古参の導灯技師で、ルアンも資材室などで何度か顔を見たことはあるが、一緒に仕事をするのは初めてだった。


オズは報告書を一通り読んでから、ルアンへ目を向けた。


「最初に気づいたのはお前か」

「はい」

「触ったか?」

「触ってません」

「偉い」


それだけで褒められた。


ルアンが少し複雑な顔をすると、横からダグが余計な説明を加えた。


「前に勝手に触って、始末書三枚書いてます」

「じゃあ学習しただけか」

「そうです」


褒められた時間は、ずいぶん短かった。


午後、三人は再び二十号導灯へ向かった。道中でオズは第十五導灯の異常についても尋ねたが、ルアンには報告書へ書いた以上のことは答えられない。導灯自体は点灯していたこと。周囲だけ妙に暗く見えたこと。岩鼠に襲われた際、緊急で自分の魔力を直接流し込んだこと。その辺りまで説明すると、オズが少し眉を上げた。


「直接流したのか」

「緊急だったので」

「紋脈(もんみゃく)から?」

「いえ。僕、紋脈がないので」

「ほう」


オズは一度だけルアンの顔を見たが、それ以上は何も訊《き》かなかった。


二十号へ着くと、午前中との違いはすぐに分かった。黒い部分は外殻の下から三分の一ほどまで広がり、薄墨を染み込ませたような色になっている。やはり何かが付着しているのではなく、石材そのものが変色しているように見えた。


「朝は、ここまでじゃなかったです」


ルアンが午前中に見た境目を指すと、ダグも頷いた。


オズはすぐ外殻を開かず、まず導灯の周囲を一周した。近くの石壁や床へ手を当て、足元も確かめてから、ようやく内部へ目を向ける。魔石の出力、温度、導線の状態。どれを調べても異常はなく、黒い変色だけが進んでいた。


しばらく調べたあと、オズは工具袋から小さな測定器を取り出し、導灯の基部へ押し当てた。数値を読み、位置を少し変えてまた測る。さらに別の場所へ移して同じことを繰り返すうち、表情から少しずつ軽さが消えていった。


「何か出てます?」


ダグが尋ねると、オズは測定器から目を離さないまま首を振った。


「逆だな」

「逆?」

「出てないんじゃない。引かれてる」


ルアンには意味が分からなかった。


目の前の導灯は正常に光っている。魔石の出力にも異常はない。それなのに、何が引かれているというのだろう。


「何がですか?」


オズは導灯の基部を指した。


「こいつは魔石だけで光ってるわけじゃない。迷宮の地面には、ごく弱い魔力の流れがある。導灯はそこからも、少しだけ力を拾ってる」


それならルアンも教本で読んだことがあった。迷宮内部には場所によって魔力濃度の偏りがあり、導灯の基部はそれを補助的に利用している。ただし通常の点検では、わざわざ測る必要もないほど微量なものだった。


「それが、なくなってるんですか?」

「なくなっただけなら話は早い」


オズは測定器を持ったまま、もう一度数字を確かめた。


「本来とは逆に、導灯から地面へ魔力が流れてる」


ダグの表情が変わった。


「どこへ?」

「分からん。だが、こいつが地面から力を拾ってる状態じゃないのは確かだ。逆に持っていかれてる」


ルアンは改めて二十号を見た。青白い光は、今も何事もないように通路を照らしている。それなのに、さっきまでとは同じ灯りに見えなかった。


オズはしばらく考えた末、二十号を一度停止することにした。管理区域の導灯を消す時は、隣接する灯りの出力を上げ、携帯灯を設置してから作業する決まりになっている。三人で準備を済ませ、オズの合図で魔石への接続を切った。


二十号の光が消える。


代わりに十九号と二十一号が通路を照らし、完全な暗闇にはならなかった。ダグが固定具を押さえ、オズが魔石を取り外そうとした時、ルアンは十九号の光が一瞬だけ弱くなったことに気づいた。


「今、十九号が揺れませんでした?」


二人が振り向いた直後、今度は二十一号の光量が落ち、すぐに戻った。続いて十九号も再び揺らぎ、さっきより明暗の差が大きくなる。


オズの声が飛んだ。


「二十号を戻せ!」


ダグが魔石を受け取り、元の位置へ差し込む。ルアンも横から固定具を支え、接続が戻ると二十号には再び青白い光が灯った。


しかし、十九号と二十一号の揺れは止まらなかった。


むしろ二十号を戻す前より、不安定になっているように見える。


オズはすぐ十九号へ移動して測定器を当てた。数字を見た途端、道具をしまう。


「戻るぞ」

「原因は?」

「後だ。先に管理院へ知らせる」


三人は必要な道具だけをまとめ、浅層入口へ向かって歩き始めた。二十号を離れ、十九号を通過し、十八号へ近づいたところで、ルアンは通路全体の明るさに違和感を覚えた。


十八号導灯は点いている。


ただ、いつもより明らかに暗い。


「十八号もです」


ダグが足を速めた。続く十七号も同じだった。魔石は点灯しているのに、青白い光にいつもの強さがない。


前方から数人の探索者が歩いてきた。彼らも異変に気づいているらしく、頭上や壁際の灯りを見ながら話している。


「管理院の者です。今日は浅層から出てください」


ダグが声を掛けると、探索者たちは一度だけ周囲を見回し、そのまま大門方向へ歩き始めた。


まだ大きな混乱は起きていない。だが、異常は二十号だけではなくなっていた。


十五号まで戻ったところで、ルアンは思わず足を止めた。以前、周囲だけが妙に暗くなった導灯だった。けれど今日は違う。


あの日は導灯そのものの光量に問題はなかった。今は青白い光自体が弱まり、頼りなく揺れている。


「あの日とは違います」


ルアンが言うと、オズも十五号を一度見ただけで頷いた。


「走るぞ」


三人は浅層入口へ向かって走り始めた。十四号、十三号と戻るにつれて光量の低下はわずかに小さくなったが、それでも普段より暗い。十二号付近まで戻ったところで、管理院側から複数の職員がこちらへ向かってくるのが見えた。


ダグは足を止めるなり状況を説明した。二十号外殻の変色。地面との魔力の流れが通常とは逆になっていたこと。その周囲から導灯の出力低下が広がり始めていること。報告を聞いた職員の一人はすぐ大門方向へ引き返し、浅層への新規入場を止める手配へ向かった。


ルアンはそこで、ほんの少し肩の力を抜いた。これだけ職員が集まれば、あとは経験のある技師や管理責任者が対応する。自分は見習いなのだから、言われた仕事をすればいい。


そう思った直後、近くにある十二号導灯の光がわずかに弱くなった。


周囲にいた者たちが一斉にそちらを見る。光量は一度戻ったが、数秒後には再び揺らぎ、その先にある十一号にも同じ変化が現れた。


二十号から始まった異常が、こちらへ近づいてきている。


「閉鎖を急げ! 中にいる連中を全部戻せ!」


管理院職員の声が通路へ響いた。


そこから浅層は一気に慌ただしくなった。奥から戻ってくる探索者や採掘人を職員たちが大門方向へ誘導し、新たに入ろうとする者は入口で止められる。携帯灯や予備の魔石も次々と運び込まれ、ルアンもダグから帰還者の人数を記録するよう指示された。


作業を続ける間にも、十一号導灯の光量はさらに落ちていった。やがて十号でも同じ現象が始まったという報告が届き、誰の目にも、一つの導灯だけの故障ではないことが明らかになっていく。


ルアンは記録板へ人数を書き込みながら、何度も迷宮の奥へ目を向けた。いつもなら、青白い導灯の列が一定の間隔で奥まで続いている。だが今は一つひとつの光が弱く、遠くなるほど暗闇に溶け込んでいた。


あの灯りを辿れば、帰ってこられる。


ルアンは灯守(ともり)として働き始めてから、ずっとそれを当たり前のものとして見てきた。探索者が迷宮へ入り、採掘人が仕事をし、自分たちが点検へ向かえるのも、そこに光の道が続いているからだ。


奥から三人の採掘人が走ってきた。職員が人数を確認し、そのまま大門側へ誘導する。


「浅層第三班、確認!」


別の場所から声が返る。


「第四班、二名まだ戻ってない!」


周囲の空気が変わった。


ダグがすぐ声のした方へ向く。


「どこだ?」

「十八号から二十三号の間! 素材回収班!」


ルアンは反射的に奥を見た。


二十三号は、今日自分たちが点検した二十一号よりさらに先だ。


ダグとオズが顔を見合わせる。


「救助班を出す」

「導灯が持てばな」


オズがそう言った直後、十一号導灯の光が消えた。火花も音もなかった。さっきまでそこにあった青白い光だけが、誰かに摘み取られたように失われた。


その奥では十二号がまだ灯っている。だが数秒も経たないうちに光量が落ち、そのまま消えた。続いて十三号、十四号と、青白い灯りの列が一本ずつ途切れていく。


ルアンは息を詰めたまま、その様子を見ていた。


十五号が消えた。少し遅れて十六号も暗くなる。これまで当たり前のように奥まで続いていた道が、遠くからこちらへ迫ってくるように、一つずつ闇へ沈んでいく。


「全導灯、出力低下!」


叫び声とほぼ同時に、大門近くの警報鐘が激しく鳴り始めた。職員たちは携帯灯を抱えて走り、探索者たちには大門から離れるよう指示が飛ぶ。救助班を組む声と、戻っていない者の位置を確認する声が重なり、つい数分前まで日常だった浅層の通路が急速に様相を変えていった。


その騒ぎの中で、ルアンは迷宮の奥から目を離せなかった。


十七号、十八号、十九号。導灯は同じ間隔を保ったまま、一つずつ光を失っていく。やがて二十号も暗闇に飲み込まれ、その先に残っていたわずかな灯りまで、ゆっくりと見えなくなった。


青白い光でつながっていた通路には、もう奥へ続く形さえ見えなかった。


迷宮から、《《道》》が消えた。

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