第11話 七十歩
迷宮大門の警報鐘は、鳴り始めてから一度も止まっていなかった。
普段なら探索者や採掘人で賑わう浅層入口には管理院の職員が集まり、次々と運び込まれる携帯灯や予備の魔石を受け取っている。導灯の消えた通路から戻ってきた者たちはそのまま地上へ誘導され、これから迷宮へ入ろうとしていた者は大門の外で足止めされていた。
ルアンは十二号付近の壁際で、帰還者の人数を記録していた。浅層第三班は全員確認され、採掘組合の二班もすでに戻っている。残っているのは素材回収班の二人だけで、最後に姿を確認された場所は十八号から二十三号の間だった。
記録板へ目を落とすたび、ルアンの視線は暗くなった通路の奥へ戻った。少し前まで、そこには青白い導灯が一定の間隔で並んでいた。今は大門側から持ち込まれた携帯灯の光が途切れた先で、石造りの通路がそのまま闇へ沈んでいる。毎日のように仕事で歩いている浅層なのに、灯りが失われただけで、距離も広さもまるで違って見えた。
ダグとオズは、管理責任者のそばで状況を説明している。二十号で確認された外殻の変色。地面へ吸われるように逆流していた魔力。そこから周囲へ広がった出力低下。技師たちは予備の魔石や測定器を並べて原因を探ろうとしていたが、今はそれより先に、取り残された二人を戻さなければならなかった。
救助班の準備も始まっていた。
ルアンは最後の人数を書き込み、近くの職員へ記録板を渡した。
「第四班だけ、まだ二人です」
「分かった。お前はここで携帯灯の残数を見てくれ」
「はい」
指示された通り、運び込まれた灯りを確かめる。大型が六つ、小型が十一。大型は明るい代わりに魔石の消耗が早く、小型は長く使えるものの照らせる範囲が狭い。救助へ持たせるなら両方を組み合わせた方がいいだろうと考えながら仕分けていると、大門側から新たに数人の探索者が入ってきた。
管理院の職員ではない。探索者組合から救助の応援に回された者たちらしく、全員が武器を持ち、胸元には一時救助協力を示す札が下げられている。その中に、ルアンは見覚えのある蜂蜜色の髪を見つけた。
槍を持った少年――セインだった。
向こうもルアンに気づき、少しだけ眉を上げる。
「お前、灯守だったのか」
「そうだけど」
「木剣持ってるところしか見てなかった」
「僕も槍持ってるところしか見てないよ」
セインが何か言い返しかけたところで、救助班の方から名前を呼ばれた。今は話している場合ではない。彼は軽く手を上げてそちらへ向かい、ルアンも携帯灯の確認へ戻った。
救助班は管理院の職員二人、探索者五人の計七人で組まれた。大型の携帯灯を中心に三つ持ち、暗闇になった十八号より先へ入るらしい。
ルアンは装備を渡しながら、責任者たちのやり取りを聞いていた。
「地図はある。十八号までは問題ない」
「そこから先だな。携帯灯だけじゃ分岐を見落とすかもしれん」
「壁標識を拾えば行ける」
「暗闇の中で見つけられればな」
その言葉に、ルアンの手が止まった。
十八号から二十三号。
普段の担当区域より少し奥ではあるが、二十号までは今日も歩いたばかりだ。二十一号も何度か点検しているし、二十二号と二十三号へも先輩職員の荷物運びで入ったことがある。地図を見なくても、ある程度なら通路を思い出せた。
「十八号から十九号までなら、七十歩くらいです」
近くにいた職員が振り返った。
「何?」
ルアン自身、口を挟むつもりはなかった。だが言ってしまった以上、そのまま続けた。
「僕の歩幅で、だいたい七十歩です。十九号の少し手前で右の壁が張り出していて、そこから通路が少し左へ曲がります。十九号から二十号までは、それより短いです」
ダグがこちらを見る。
「覚えてんのか?」
「毎回歩いてるので」
覚えようとしたことはなかった。工具袋を持って導灯から導灯へ何度も歩くうち、次の灯りが見えるまでの距離や、途中にある壁の形、床の傾きが身体のどこかに残っていた。荷物を持っている時と、何も持たない時では自分の歩幅が少し違うことまで、何となく分かる。
管理責任者が地図を広げた。
「二十から先は?」
「二十一までは八十歩くらいです。途中で床が少し下がります。二十一から二十二の間に分岐がありますけど、左は行き止まりなので右です。二十二の先は、僕も何度かしか行ってません」
責任者は地図とルアンを交互に見た。
「こいつ、道は信用できるか?」
「導灯の位置なら、俺より細かく覚えてます」
ダグは即答した。
「戦えるか?」
「岩鼠一匹で死にかけます」
「ダグさん」
余計なところまで正確だった。
責任者はわずかに考えたあと、ルアンを救助班へ加えることを決めた。ただし前には出さず、戦闘もさせない。あくまで導灯の位置と通路を確認するための案内役として、隊の中央に置く。
ダグは出発前のルアンの腕を掴んだ。
「一つ約束しろ。自分で何とかしようとするな」
「はい」
「何かあったら、まず声を出せ」
「はい」
「勝手に導灯いじるな」
「それも?」
「それが一番大事だ」
第十五導灯の一件を、まだ忘れてはいないらしい。
携帯灯を一つ受け取り、ルアンは救助班の中央へ入った。先頭には管理院の職員と探索者が立ち、後方にも武器を持った者たちがつく。事情を聞いたらしいセインは槍を肩へ担ぎながら、少し不思議そうにルアンを見た。
「道、分かるのか?」
「いつも仕事で歩いてるから」
「へえ。剣よりそっちの方が得意なんだな」
「悪かったね」
セインは小さく笑い、そのまま槍を持ち直した。
十二号を越えると、持ち込まれた携帯灯以外の光はほとんどなくなった。
青白い導灯があった時には気にも留めなかった石壁の凹凸が、携帯灯の光を受けて大きな影を作っている。天井から落ちる水滴の音も妙に近く、誰かの靴が砂を踏むたび、その音が暗い通路の奥へ長く響いた。
光が届くのは十数歩先まで。その向こうに何があるのかは見えない。それでも、場所そのものが変わったわけではなかった。
「十三号までは真っ直ぐです。途中で右に細い横道がありますけど、そこは使いません」
先頭の職員が頷いた。
十三号の少し手前には、床を斜めに走る長い亀裂がある。十四号へ向かう途中には左壁に白い筋が三本あり、十五号の前では天井が少し低くなる。普段ならただ通り過ぎていたものが、灯りを失った迷宮ではそのまま道標になった。
十五号を過ぎたところで、後方から石を擦るような小さな音がした。探索者の一人がすぐ剣を抜き、全員が足を止める。携帯灯をそちらへ向けてしばらく耳を澄ませたが、音はやがて遠ざかり、それ以上何かが近づく様子はなかった。
「岩鼠か?」
「分からん。止まるな。今は先へ行く」
救助班は再び進み始めた。
十七号を過ぎ、十八号へ近づく頃には、ルアンの目も少しずつ暗さに慣れていた。それでも携帯灯の外側で何かが動いたように見えるたび、肩には勝手に力が入る。公開訓練で、自分が戦えないことは嫌というほど分かった。怖いからと前へ出るつもりはない。
今やるべきことは、道を間違えないことだった。
十八号の位置を通過すると、ルアンはいつもの点検時と同じくらいの歩幅を意識した。四十歩を越える頃には右側の石壁が内側へ張り出し、六十歩を過ぎると床がわずかに上がり始める。普段なら、その辺りまで来れば十九号の青白い光が正面に見えるはずだった。
「この先です。あと十歩くらい」
先頭の職員が歩調を落とす。
やがて携帯灯の先に、黒い柱のような輪郭が浮かんだ。光を失った十九号導灯だった。
「本当に七十だったな」
後ろからセインの声がした。
「だいたいって言ったでしょう」
「六十九だった」
「数えてたの?」
「暗いし、ほかにやることないから」
「槍持って周り見ててよ」
前を歩いていた探索者が小さく笑った。張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
十九号から二十号までは距離も短く、大きな分岐もない。二十号の外殻は携帯灯に照らされても明らかに黒く変色していたが、今は調べている場合ではなかった。
そのまま二十一号へ向かっている途中で、先頭の職員が急に足を止める。
「待て。何か聞こえる」
全員の足音が消えた。
しばらくすると、暗闇の奥から微かな声が届いた。
「誰かいるか!」
救助班の一人が呼び掛ける。数秒遅れて、「こっちだ!」という声が返ってきた。
生きている。
ルアンは知らず詰めていた息を、ようやく吐いた。
声は二十一号より先から聞こえていた。右の通路へ入り、携帯灯で足元を照らしながら進むと、やがて岩壁に寄り掛かる二人の姿が見えてきた。素材回収班の男女で、男は左脚を布で強く縛り、女が持つ携帯灯も消える寸前まで弱っている。
「よかった……」
こちらの姿を認めると、女は肩から力を抜いた。
話を聞くと、導灯が消えた直後に岩鼠の群れと遭遇し、逃げる途中で男が脚を負傷したらしい。暗闇の中を無理に戻れば道を外す危険があると判断し、壁際で救助を待っていたという。
その判断は正しかった。だが、負傷者を抱えて戻るとなれば、来た時より時間がかかる。
救助班が持ち込んだ携帯灯の一つはすでにかなり魔力を消耗し、回収班の灯りもほとんど残っていない。
「予備の魔石は?」
探索者が尋ねると、女は首を振った。
「逃げる時に袋を落としました。たぶん二十三号の手前です」
取りに戻る案は、すぐに捨てられた。
使える携帯灯を確認した職員は、一度に点ける数を減らすことにした。先頭を照らす灯りだけを使い、後方のものは消して温存する。ルアンが道を覚えていても、魔物に襲われた時に何も見えなければ、武器を持つ者たちでさえ十分には戦えない。
帰り道は、来た時よりずっと遅かった。負傷した男を二人で支え、足場を一つずつ確かめながら進むため、どうしても歩幅が小さくなる。ルアンは先頭に近い位置へ移り、二十二号、二十一号と、暗闇の中に残る導灯の位置を順番に確かめていった。
灯りのない迷宮では、時間だけでなく距離の感覚まで曖昧になる。かなり歩いたつもりでも、まだ二十号を越えたばかりだった。
十九号へ向かう途中、先頭の携帯灯が急に弱くなった。
「交換する」
職員が後ろへ声を掛け、温存していた灯りが前へ運ばれる。そのわずかな間、通路の明るさが大きく落ちた。
同時に、闇の奥から音がした。
一つではない。
小さな爪が、いくつも石を叩いている。
セインが槍を構え、ほかの探索者もすぐに武器を抜いた。新しい携帯灯が点き、通路へ光が戻ると、その端に灰色の小さな影がいくつも浮かんだ。
岩鼠だった。
目に入るだけでも五匹。その背後にも、低い影がいくつか動いている。
「負傷者を壁際へ!」
職員の指示を受け、ルアンは回収班の女と一緒に男を壁へ寄せた。探索者たちが通路を塞ぐように前へ出て、セインも槍を構えてその横に並ぶ。
最初に飛び込んできた岩鼠へ、セインの槍が伸びた。魔物が跳びつくより早く穂先が胸元を捉え、灰色の身体が床へ落ちる。その横を抜けようとした一匹は、別の探索者の剣に弾かれた。
公開訓練で見た時と同じだった。セインの動きは速い。けれど、ただ速いのではない。槍が戻る時にはもう次の一匹を見ており、足も次に立つ位置へ動いている。
それでも、数が多かった。
目の前の魔物を倒している間にも、闇の向こうから新しい爪の音が近づいてくる。携帯灯の光に引かれて、周囲にいた岩鼠まで集まってきているらしい。
「ここでやり続けるのはまずい!」
探索者の声が飛んだ。
倒しても次が来る。負傷者を抱えたまま足を止め続ければ、携帯灯の魔力も減っていく。
ルアンは周囲を見回した。
すぐ後ろに、十九号導灯がある。
光を失ったまま立つその姿を見た瞬間、第十五導灯で岩鼠に襲われた時の感覚が蘇った。あの時は自分の魔力を直接流し込み、一瞬だけ強い光を戻すことができた。
今なら、あの頃より流れを安定させられる。
中層勤務資格試験では、出力が揺れたことに焦り、五秒ほどで失敗した。その後は七番倉庫で、強く押し込むのではなく、同じ量を保つことを何度も繰り返している。
十秒には届かない。だが、十秒必要とは限らなかった。
「ダグさんに、勝手に触るなって言われたんだけどな……」
ルアンは小さく呟きながら十九号へ近づいた。
負傷者のそばにいた女が気づく。
「何するの?」
「少しだけ、灯りを戻します」
外殻を開く。魔石そのものは残っている。地面から得ていた補助魔力が失われているだけなら、補助端子へ直接魔力を送れば一時的に点灯させられるかもしれない。
ルアンは右手を端子へ置き、胸の奥へ意識を向けた。肩から上腕、肘、前腕、手首へ。七番倉庫で何度も確かめてきた通り道を、急がず一つずつつなげていく。
魔力が端子へ流れ込んだ。
十九号導灯に、青白い光が戻った。
それまで携帯灯の狭い範囲に閉じ込められていた通路が、一気に姿を現す。探索者たちの足元も、岩鼠の位置も、その奥で動いている影まで見えるようになった。
「そのまま!」
誰かの声が聞こえた。
ルアンは光を強くしようとはせず、同じ量を送り続けることだけに意識を向けた。三秒を越える頃、右腕の内側で流れがわずかに揺れる。試験の時なら、そこで足りない分を押し込んでいた。
今回は力を足さない。揺れていても、そのまま保つ。
五秒を越えた辺りから肩の奥に痛みが広がった。導灯はまだ灯っていたが、六秒へ届く前に腕の途中で流れが大きく崩れ、青白い光が消えた。
ルアンは端子から手を離し、大きく息を吐いた。鼻の奥に熱いものを感じ、手の甲で触れると血がついた。
「無理するな!」
探索者の一人が叫ぶ。
言われなくても分かっていた。これ以上無理に流せば、右腕が動かなくなるかもしれない。
ただ、数秒の光で状況は変わっていた。
探索者たちは岩鼠の数と位置を把握し、何匹かを倒している。光が消えると残った魔物は闇の縁まで下がったが、その向こうから爪の音はまだ続いていた。
あと少しだけ灯れば、負傷者を十九号の先まで移せる。そこから十八号までは、およそ七十歩。その距離なら、ルアンには分かる。鼻血を袖で拭い、もう一度十九号へ目を向けた。
「もうやめろ」
近くにいた職員が止める。
ルアン自身、無理をしていることは分かっていた。けれど、ただ記録を伸ばそうとしているわけではない。何のために灯すのか、その間に何をすればいいのかも見えている。
強い光はいらない。消えずに続けばいい。
ルアンはもう一度、補助端子へ右手を置いた。
「……もう一回だけ」
胸の奥から、ゆっくり魔力を送る。
今度は最初から力を入れすぎず、肩から腕へ通した流れを、そのままの強さで保った。十九号に青白い光が戻ると同時に、職員たちは負傷者を持ち上げ、探索者たちは周囲を固めながら移動を始めた。
ルアンは時間を数えなかった。
見ていたのは導灯の明るさだけだった。少し弱くなっても慌てて押し込まず、その細さのまま流れをつなぐ。右腕の内側が熱を持ち、肩にも強い痛みが広がっていく。それでも、光はすぐには消えなかった。
負傷者が十九号を越え、救助班の最後尾も通り過ぎる。
そこでルアンは、自分から端子を離した。
青白い光が消える。
今度は、それでよかった。
ルアンは壁へ手をついて立ち上がり、救助班の後を追った。少し戻ってきたセインが肩を貸そうと腕を伸ばしたが、自分で歩ける程度の力は残っている。
「歩ける?」
「歩ける」
「鼻血すごいぞ」
「知ってる」
「格好悪いな」
「今言う?」
セインは笑い、ルアンが歩けることを確かめると再び前へ戻った。
十九号から十八号までの暗闇は、来た時より長く感じられた。負傷者を支えているため速度は遅く、背後からはまだ時折、岩鼠の爪が石を叩く音が聞こえてくる。それでもルアンには、この区間の長さと地形が分かっていた。
四十歩を越えれば、右壁の張り出しが終わる。その先で床がわずかに下がり、さらに二十歩ほど進めば十八号がある。携帯灯の光が弱くても、壁の形と靴底へ伝わる傾きを合わせれば、自分たちがどこにいるのかを見失わずに済む。
「もうすぐ十八号です」
ルアンが告げると、先頭の職員が歩調を保ったまま頷いた。
間もなく携帯灯の先に十八号の黒い輪郭が現れた。そこまで戻れば、あとは来た道をそのまま辿れる。後方から聞こえていた岩鼠の足音も、少しずつ遠ざかっていった。
十七号、十六号と進むうち、前方の闇に別の光が見え始めた。大門側から増援として入ってきた管理院職員の携帯灯だった。
「いたぞ!」
声が届いた瞬間、救助された女が長く息を吐いた。負傷した男も、職員に支えられたまま小さく笑っている。
ルアンはそこで初めて、右腕がほとんど肩より上へ持ち上がらなくなっていることに気づいた。
大門へ戻る頃になっても警報鐘は鳴り続けていたが、浅層内部に残っていた人間は全員確認されていた。救助された男はそのまま担架で白樹療院へ運ばれ、女も付き添っていく。探索者たちは装備を確かめ、管理院の職員も状況報告や封鎖作業へ散っていった。
ルアンは大門近くの壁際へ座り、渡された布で鼻血を拭っていた。少し離れた場所では、セインが探索者組合の職員へ何かを報告している。槍には岩鼠の血がついていたが、本人には大きな怪我はないようだった。
しばらくしてダグが歩いてきた。
顔を見れば、怒っていることくらい分かる。
ルアンは先に口を開いた。
「勝手に触りました」
「見りゃ分かる」
「でも、必要だったので」
「それも聞いた」
ダグはしゃがみ込み、ルアンの右腕を取った。指を動かさせ、感覚が残っているかを確かめる。肩から先には強い痛みがあり、腕を持ち上げるのもつらかったが、指先まで感覚はあり、握ることもできた。
「始末書ですか?」
「あとでな」
やはり書くらしい。
ルアンがわずかに肩を落とすと、ダグは立ち上がった。
「あれがなきゃ、もっと面倒なことになってた」
ルアンが顔を上げた時には、ダグはもう管理院側へ歩き始めていた。
それ以上は何も言わなかった。
しばらくして戻ってきた時、手には一枚の紙があった。
「これ」
渡されたものを見て、ルアンは目を瞬いた。
中層保全勤務資格試験の受験申請書だった。
「一か月後じゃなかったんですか?」
「通常の再受験はな」
「じゃあ、これは?」
「所属責任者の推薦枠だ。次の臨時試験を受けられる」
ルアンは紙とダグを交互に見る。
「合格すると思ってます?」
「魔力は今日ので少し分かった。体力はまだ足りん」
「じゃあ、まだ落ちる?」
「たぶんな」
思わず笑った。
「そこは変わらないんですね」
「数日で変わってたまるか」
ダグはそれだけ言うと、今度こそ仕事へ戻っていった。
その夜、ルアンは七番倉庫へ行かなかった。右腕にはまだ強い疲労が残り、暗闇の中を歩いた緊張も身体から抜けきっていない。
月兎亭へ戻ると、マーサは鼻の下に残った血の跡を一目で見つけた。事情を説明するより先に椅子へ座らされ、しばらくしていつもの煮込みと黒パンが運ばれてくる。
その横には、卵が一つ置かれていた。
「今日は余りもの?」
ルアンが尋ねると、マーサは鍋をかき混ぜながら首を振った。
「今日は違うよ」
それ以上は何も言わなかった。
ルアンも何も聞かず、卵を少しずつ食べた。
暗闇になった迷宮のことが、何度も頭へ戻ってきた。導灯が消えただけで、毎日のように歩いてきた浅層はまるで別の場所になった。それでも壁の形や床の傾き、導灯から次の導灯までの距離は、思っていた以上に身体へ残っていた。
十八号から十九号まで、およそ七十歩。
覚えるつもりで数えたことなど一度もない。ただ工具を持って歩き、導灯を調べ、また次の一基へ向かう。それを毎日繰り返してきただけだった。
魔力も同じだった。試験で失敗したあと、何が駄目だったのかを考え、七番倉庫で同じ操作を何度も繰り返した。今日、十九号を灯せたのは、その積み重ねがあったからだった。
自分が強くなったのかと聞かれれば、まだよく分からない。岩鼠一匹を相手にしても、今のルアンならきっと苦戦する。セインのように槍一本で何匹もの魔物を倒すこともできない。
けれど暗闇の中で、ルアンにしか分からない七十歩があった。
その夜はいつもより早く寝台へ入り、右腕を布団の上へ置いた。指先にはまだわずかな痺れが残っているので、魔力を流すつもりはない。
一か月を待たずに、もう一度試験を受けられる。それも嬉しかった。けれど目を閉じてから何度も浮かんできたのは、申請書ではなかった。
暗闇の中で十九号に青白い光が戻り、その先を負傷した二人が歩いていく光景だった。
その光景をしばらく思い返しているうちに、ルアンはいつの間にか眠っていた。




