第12話 灯りのあと
翌朝、ルアンが目を覚ますと、右腕にはまだ重い疲労が残っていた。昨日ほどの痛みではないものの、肩より上へ持ち上げようとすると腕の内側がじんわりと痺れる。寝台の上で指を一本ずつ動かしてみると、感覚そのものは問題なかった。
昨夜、月兎亭へ戻ってからマーサに散々心配されたことを思い出す。何をしたのか説明しても半分ほどしか理解してもらえなかったが、「迷宮で鼻血を出すようなことをするな」という点だけは妙に強く念を押された。
食堂へ下りると、そのマーサはいつも通り鍋の前に立っていた。ルアンの右腕を見るなり、一度だけ眉を上げる。
「動くのかい?」
「一応」
「一応ってのは動くうちに入らないよ」
「仕事はできると思う」
「それを決めるのはあんたじゃないだろ」
正しいことを言われたので、反論できなかった。
朝食を済ませて迷宮管理院へ向かうと、大門前の様子は昨日とは大きく変わっていた。警報鐘はすでに止まり、探索者や採掘人も通りへ戻っている。ただし迷宮への入場制限はまだ続いており、大門の前には管理院の職員と探索者組合の係員が並んでいた。
掲示板には新しい通知が貼られていた。
《浅層導灯系統 大規模出力障害》
《原因調査中》
《十二号以深 一時立入制限》
大きな文字を読みながら、ルアンは昨日の暗闇を思い出した。十二号から先の導灯は、夜のうちに一部だけ仮復旧したらしい。それでも通常の運用には戻せず、当面は管理院職員と調査担当者以外の立ち入りを禁止するという。
管理院の中も普段より騒がしかった。廊下には他部署の職員が何人も行き来し、技師たちは昨日回収した魔石や外殻を作業台へ並べている。二十号から外された黒く変色した部品も、木箱の中に収められていた。
ルアンはその前で足を止めた。木箱の中に収められた部品は、昨日見た時と変わらず黒い。ただの壊れた部品のはずなのに、あの暗闇を思い出すと、どうしてもそうは見えなかった。
「お前はそっちじゃねえ」
背後から声がして振り向くと、ダグが立っていた。
「今日は調査じゃないんですか?」
「お前はな」
ダグはそう言って、ルアンの右腕へ目をやった。
「上げろ」
「え?」
「腕」
言われた通り持ち上げてみると、肩の高さを少し越えたところで腕の内側に痛みが走った。わずかに顔をしかめたのを見て、ダグはすぐ手を振った。
「今日は浅層に入るな」
「でも、記録とかならできます」
「だから記録やれって言ってる」
「現場じゃなくて?」
「現場じゃなくて」
少し残念だった。
原因調査を間近で見たい気持ちはあったが、無理をして昨日のような状態になる方が困るのも分かっている。
その日のルアンは、管理院の記録室へ回された。
昨日の大消灯に関する報告書をまとめ、救助に参加した職員や探索者から上がってきた情報を時刻順に整理する。地味な作業ではあったが、灯りが消え始めた場所と時間を並べてみると、現場にいた時には気づかなかったことが見えてきた。
最初に異常が確認されたのは二十号。
そこから十九号、二十一号へ広がり、その後は浅層入口へ向かうように十八号、十七号、十六号と出力低下が進んでいる。完全な順番ではないが、少なくとも無作為に消えたわけではないように見えた。
ルアンは記録を見比べながら、昨日オズが言っていたことを思い出した。
導灯から地面へ魔力が流れていた。普段とは逆に。それが何を意味するのかは分からない。ただ、単純な故障とは少し違う気がした。
昼前になると、管理責任者が調査班から戻ってきた。記録室にいた職員たちも呼ばれ、簡単な状況説明を受けることになった。
「現時点で、導灯本体に共通した故障箇所は確認されていない。ただし一部区域で、地脈魔力の流れが不安定になっている。今回の出力障害は、それによって複数の導灯が連鎖的に影響を受けた可能性が高い」
責任者は淡々と説明した。
「原因の特定まではできていない。一般向けには、導灯系統の一時的な魔力供給障害として告知する。十二号以深は安全確認が済むまで閉鎖を継続する」
周囲の職員たちが頷き、それぞれ必要な指示を受け取っていく。ルアンはその中で、「一時的な魔力供給障害」という言葉にわずかな引っ掛かりを覚えた。間違ってはいないのだろう。けれど、それだけでは二十号の外殻が黒く変色した理由までは説明できないし、第十五導灯で周囲だけが暗くなった現象とどうつながるのかも分からない。
考え込んでいると、近くにいたオズと目が合った。古参の技師はルアンの顔を見て、ほんの少し肩をすくめる。
「分からんもんは、分からんまま記録しとけ」
「適当に理由つけちゃ駄目なんですか?」
「一番やっちゃ駄目なやつだ、それは」
小声で返され、ルアンは少し笑った。オズは記録用紙の端を指で叩きながら続ける。
「昨日見たことを、そのまま書け。周りが暗くなった十五号も、黒くなった二十号もな。原因が分からん時ほど、見たことと考えたことを混ぜるな」
ダグがよく言うことと、どこか似ていた。
仕事を始めてから、ルアンは何度も同じことを教えられている気がする。分からないなら、分からないと書く。使えるように見えても、安全とは限らない。できたからといって、次もできるとは限らない。
迷宮では、思い込みの方が故障より危険なのかもしれない。
昼を過ぎた頃、救助された二人の状態について連絡が届いた。脚を負傷した男は骨に異常はなく、数週間休めば問題なく歩けるようになるという。もう一人の女性にも大きな怪我はなかった。
その報告を聞いた時、ルアンは自分でも気づかないうちに息を吐いていた。
昨日は大門まで戻れたことで安心し、そのまま自分も疲れ切ってしまった。けれど、あの二人が本当に無事だったと聞いて、ようやく救助が終わったような気がした。
午後は昨日の始末書を書くことになった。
一枚ではなかった。
《規定外魔力供給》
《許可なき設備操作》
二枚だった。
ルアンは紙を見ながらダグへ抗議した。
「昨日、必要だったって言ってましたよね」
「必要だったのと、始末書がいらないのは別だ」
「助けても書くんですか?」
「助けたからって規則違反が消えるか」
「消えてもよくないですか?」
「よくねえ」
その理屈は、以前にも聞いた気がする。
ルアンは諦めて筆を取った。
ただ、今回は書く内容に迷わなかった。何が起きたか。なぜ導灯へ触れたか。最初の魔力供給が何秒ほど続いたか。二度目に何を変えたか。どの時点で自分から接続を切ったか。
書いている途中で、ルアンは手を止めた。
二度目は、自分から切った。限界まで流し続けて、勝手に途切れたのではない。必要な人間が十九号を越えたことを確認して、自分の判断で止めることができた。
昨日はそのことを深く考えなかったが、試験の時とは明らかに違っていた。
「ダグさん」
「今度は何だ」
「僕、昨日の二回目、途中で自分から止めました」
「見てた」
「前は、止まるまでやってましたよね」
「そうだな」
ダグは書類から目を上げない。ルアンはしばらく自分の右手を見つめてから、少し迷うように口を開いた。
「少し、進んだってことですかね」
そこでようやくダグが顔を上げた。
「自分でそう思うなら、たぶんな」
いつもなら何か一言返されそうなところだったが、今回は否定されなかった。ルアンには、それで十分だった。
夕方になる頃には、十二号までの通常運用を翌朝から再開することが決まり、十三号以深は引き続き閉鎖されることになった。昨日まで当たり前だった浅層の一部が使えないだけで、探索者組合や市場にもかなり影響が出るらしい。
帰り際、ルアンは管理院の入口でセインを見かけた。
救助協力に関する報告を出しに来たようで、昨日と同じ槍を背負っている。ルアンに気づくと、向こうから声を掛けてきた。
「腕、生きてる?」
「生きてるよ」
「昨日、終わったあと全然上がってなかっただろ」
「今日は少し上がる」
「じゃあ治ってるな」
ずいぶん雑な診断だった。
ルアンが大門の方へ歩き出すと、セインも同じ方向だったらしく隣へ並んだ。
「昨日のあれ、すごかったな」
「槍の方がすごかったよ」
「俺はいつも通り」
「嫌な言い方だな」
「褒めたんだけど」
セインは笑った。
しばらく歩いたあと、ふと思い出したように尋ねる。
「でも、お前って探索者じゃないんだよな」
「うん」
「なる気は?」
「まだ分からない」
少し前なら、もっと迷ったかもしれない。今は本当に分からなかった。
迷宮の奥へ行ってみたい気持ちはある。戦えるようにもなりたい。けれど、昨日自分が役に立てたのは剣を振ったからではなく、灯守として毎日歩いていたからだった。
どちらか一つを選ぶ必要があるのかさえ、まだ分からない。セインはそれ以上聞かなかった。
大門前で別れる時も、名前を名乗り合ったわけではない。向こうが自分の名前を知っているかどうかも、ルアンには分からなかった。ただ、昨日までより少しだけ近い人になった気はした。
その日の夜、ルアンは七番倉庫へ行った。
ダグには右腕を休ませろと言われていたので、魔力操作を長く続けるつもりはない。荷重歩行もせず、短剣の練習も最低限にする。それでも、昨日と今日を終えたあとで、一度だけ確かめておきたいことがあった。
倉庫の中央に立ち、右手を前へ出す。胸の奥へ意識を向ける。肩から腕へ、肘から前腕へ、手首から指先へ。昨日ほど大きな力を流さず、いつもの訓練と同じ程度の魔力だけを送り込む。
白い光が灯った。三秒ほど維持したところで、ルアンは自分から流れを止めた。指先から光が消える。右腕に痛みは出なかった。
以前なら、何秒続いたかだけを見ていただろう。しかし今日は、途切れたのではなく、自分で止められたことの方が嬉しかった。
ルアンはしばらく右手を見てから、小さく笑った。
「……進んだ」
ほんの少しだけ。それでいい。
一度腕を休ませてから、もう一度だけ右手を上げる。
「……もう一回」
七番倉庫の暗がりに、小さな白い灯りが浮かんだ。
その頃、アルネスの地下深く。人の手が届く浅層よりも、探索者たちが知る深層よりも、さらに下。導灯も、地図も、誰かが歩いた跡さえない暗闇の中で、昨日までとは違う何かがゆっくりと脈打っていた。
音を聞く者はいない。
光を見る者もいない。
それでも、厚い岩盤のさらに奥で、その動きだけは確かに続いていた。
《《ドクン》》。




