第13話 十秒
大消灯から十二日が過ぎた。
迷宮都市アルネスは、少しずつ以前の姿へ戻りつつあった。浅層の立入制限は段階的に解除され、復旧した区域では探索者や採掘人の姿も増えている。ただし十三号より奥にはまだ点検中の区画が残り、導灯の脇には仮設の携帯灯が置かれたままになっていた。
原因について、管理院から新しい発表は出ていない。一部区域で迷宮内部の魔力の流れが不安定になり、複数の導灯が連鎖的に出力を失った。その説明だけは変わらず、二十号の外殻が黒く変色した理由も、第十五導灯で以前起きた異常との関係も分からないままだった。
ルアンの仕事も、しばらくは十二号より手前が中心になっていた。異常のあった区域へ入りたい気持ちはあったが、見習いの灯守が調査の邪魔をするわけにもいかない。代わりに復旧用の部品を運び、記録を整理し、使い終わった携帯灯を点検する。普段とは少し違う仕事が続いたものの、それも管理院の仕事には違いなかった。
右腕の痛みは数日でほとんど消えた。七番倉庫での訓練も再開していたが、大消灯の前とはやり方を変えている。魔力を何秒流せたかだけを追いかけるのではなく、毎回ほぼ同じ強さで流し、自分で止める。荷重歩行も重さを急に増やさず、まず姿勢を崩さずに歩ける距離を伸ばすことにした。
その結果、劇的に何かが変わったわけではない。
魔力は六秒ほどなら安定する日が増え、調子がよければ八秒近くまで続く。それ以上になると流れが揺らぎ始めた。荷物を背負って歩く時間も少しずつ長くなったが、以前の試験で二分十四秒も基準を超えた事実は、そう簡単に埋まりそうにはなかった。
だから、ダグから臨時試験の日を知らされた時も、ルアンは素直に喜べなかった。
「三日後だ」
「早くないですか?」
「推薦枠はそういうもんだ」
「まだ十秒できません」
「じゃあ落ちるな」
「もうちょっとほかに言い方ないですか」
ダグは点検表から顔も上げなかった。
推薦されたからといって、合格しやすくなるわけではない。大消灯の影響で中層勤務のできる職員を増やす必要が生じ、通常試験とは別に少人数の臨時試験が行われるだけだった。受験資格を早く得られただけで、求められる基準は前回と何も変わらない。
それでも、受けないという選択肢はルアンにはなかった。
試験当日の朝、月兎亭の食堂へ下りると、マーサはいつもの黒パンとスープを用意していた。前回の試験の日には卵がついていたが、今日は見当たらない。
ルアンは皿を見てから、マーサを見る。
「今日は卵ないんだ」
「受かる前から二回も出すかい」
「前回は出してくれたのに」
「一回落ちたからね。次は成果報酬だよ」
「厳しくなってない?」
「世の中そんなもんだ」
妙なところで現実的だった。
管理院へ着くと、臨時試験の受験者は六人だけだった。ルアン以外は全員成人で、そのうち二人は前回の試験でも見かけた顔だった。講義室へ入る前に受験票を確認され、試験内容について簡単な説明を受ける。
前回合格点に達していた科目も含め、試験は最初からすべて受け直すことになっていた。ルアンにとっては筆記、器具判別、導灯応急処置の三つをもう一度受けることになるが、それに不満はなかった。中層へ入るために必要な試験なのだから、一度できたことが今回もできるか確かめられる方がいい。
午前中の試験は、大きな問題なく進んだ。
筆記では前回と一部違う問題が出たものの、日々の仕事で扱っている内容が中心だった。大消灯を受けて追加されたらしい非常時の携帯灯配置についての設問には少し考えたが、自分が実際に経験したことを思い出せば答えられた。
器具判別では、一つだけ見慣れない古い固定具が混じっていた。形だけでは判断できず、実際に持って裏側を確かめると、中層の湿潤区域で使う旧型だと分かった。導灯応急処置では二つの異常が同時に仕込まれていたが、焦らず確認順序を守ったことで制限時間内に復旧できた。
午前の科目を終えた時点では、前回と同じ程度の手応えがあった。
問題は午後だった。
昼食を終え、ルアンは試験室の前で自分の右手を何度か開いたり閉じたりした。中に置かれているのは、前回と同じ訓練用導灯と測定器である。試験官も同じ男だった。
ルアンの順番は四番目だった。
一人目は成功した。二人目も十秒を安定して維持し、三人目は途中で一度出力を落としたものの、規定の範囲内に戻して最後まで持たせた。
名前を呼ばれ、ルアンは訓練用導灯の前へ立つ。
試験官が説明を確認する。
「基準出力を十秒維持。三秒以上基準値を外れた時点で失格。前回と同じだ」
「はい」
分かっている。前回は五秒だった。最初の三秒までは問題なかったが、その先で流れが揺れ、焦って魔力を押し込んだ結果、出力を上げすぎた。戻そうとするうちに、最後には流れそのものを崩した。
大消灯の救助では、それをしなかった。強くする必要はない。同じ強さで、ただ保てばいい。
「始め」
ルアンは右手を導灯の補助端子へ置いた。
胸の奥にある魔力へ意識を向け、肩から腕へ流す。肘を越え、前腕から手首へ進み、そのまま端子へ送り込むと、測定器の針がゆっくり上がった。
最初は少し低かった。そこで一気に足さず、わずかに流れを太くする。針が基準の中央へ入った。
ここからだった。
三秒までは、ほとんど不安を感じなかった。四秒を過ぎても流れは安定している。五秒目に入った時、前回ここで失敗したことが頭をよぎったが、測定器の針から目を逸らさず、余計な力を加えないようにする。
六秒を越えると、右腕の内側に熱が広がり始めた。七秒辺りでは肩の奥がわずかに震え、右腕を通る魔力にも細かな揺れが出てくる。
針が少し下がった。ルアンは魔力を足したくなるのを堪える。流れが細くなったからといって慌てて押し込めば、その瞬間だけ強くなり、そのあと大きく崩れる。
今ある流れを、そのまま保つ。
測定器の針は基準値の下側へ近づいたものの、範囲からは外れなかった。試験官の手元では時間だけが進んでいく。ルアンは今が何秒なのか分からなかったし、数えるつもりもなかった。数字を意識すれば、それだけで流れを乱しそうだった。
右腕の震えが少し強くなった、その直後だった。
「終了」
ルアンはすぐに魔力を止めた。測定器の針が落ち、右手を端子から離す。それでも、しばらく意味が理解できなかった。
「終わり、ですか?」
「十秒だ」
「できた?」
「だから終了と言った」
試験官は記録板へ結果を書き込んだ。
ルアンは自分の右手を見た。少し震えている。余裕はまったくなかったし、もう一度すぐにやれと言われたら成功する自信もない。
それでも、十秒だった。試験官が次の受験者を呼んだので、ルアンは慌てて場所を空ける。壁際へ移動してからも、何度か自分の右手を見た。
十秒できたからといって、何かが急に変わったわけではない。それでも前回は半分しか届かなかったところまで、今度は自分で流れを保ったまま届いた。そのことは素直に嬉しかった。
ただ、試験はまだ終わっていない。最後には荷重歩行が残っている。
管理院裏手の訓練路へ移動すると、前回とほぼ同じ重量の荷物が用意されていた。背負った瞬間、その重さも変わっていないことがよく分かる。ルアンは肩帯の位置を調整しながら、前回の歩き方を思い出した。
最初から少し急ぎ、前を歩く受験者との差が開くと焦って速度を上げた。坂で呼吸を乱し、その疲れを最後まで引きずった。今回は同じことをしない。七番倉庫で何度も繰り返してきた歩幅を、最初から崩さないことにした。
合図と同時に、ルアンは歩き始めた。
平坦な最初の区間では、前の受験者が少しずつ離れていった。追いつこうと思えば、もう少し速度を上げられる。それでもルアンは同じ歩幅を保った。
試験は競走ではない。自分が基準時間内に着けばいい。
長い坂へ入る頃には、肩に荷物の重さを感じ始めた。前回はここで太腿まで重くなっていたが、今日はまだ余裕がある。背中を丸めず、足を前へ投げ出さないようにして、一歩ずつ上っていく。
途中で一人の受験者が横を抜いていった。少し焦ったが、その背中を追わなかった。
坂を越え、階段へ入る。ここからは呼吸が速くなった。荷物そのものより、自分の身体を持ち上げる動作が脚へ響く。半分ほど上がったところで右の太腿が張り始めたが、歩幅を小さくしすぎないよう注意しながら進んだ。
階段を越えた先には、前回苦戦した低い通路がある。ルアンは入口へ入る前に荷物の位置を少し下げ、腰を落とした。背中を丸めすぎると荷物が天井へ当たり、膝だけを曲げれば脚が早く疲れる。倉庫で似た姿勢を何度も試した結果、自分なりに一番楽な形が分かってきていた。
低い通路を抜ける。その先の狭い足場では、前回荷物を壁へぶつけた。
同じ場所が近づくと、その時の感覚まで思い出した。右側へ寄りすぎないよう半歩だけ位置を変え、身体を少し斜めにして通過する。
荷物は当たらなかった。そこからゴールまでは、もう長くない。
ただ、身体には十分な疲労が溜まっていた。肩は痛く、呼吸もかなり速い。脚を止めれば楽になるのは分かっているが、一度止まると、もう一度歩き出す方がつらくなりそうだった。
ルアンは速度を上げなかった。下げもしなかった。倉庫で何度も繰り返してきた歩幅のまま、最後まで歩くことだけを考えた。
やがて前方に終了線が見え、そのまま歩幅を崩さず越えた。試験官が時計を確認する横で、ルアンは荷物を下ろす。肩から重さが消れた瞬間、脚に残っていた力まで抜けそうになり、両手を膝へ置いて呼吸を整えた。
前回は、ここで二分十四秒遅れた。今回はどうだったのか。息を整えながら待っていると、試験官が記録板へ数字を書き込んだ。
「基準より六秒早い」
ルアンは思わず顔を上げた。
「六秒?」
「聞こえなかったか」
「いや、聞こえました」
「なら休め。邪魔だ」
喜ぶ間もなく訓練路の脇へ追いやられ、ルアンは水を飲みながらその場へ座り込んだ。余裕は、たった六秒。途中で荷物を一度ぶつけていたら、階段で足を止めていたら、それだけで間に合わなかったかもしれない。
ぎりぎりだった。それでも今度は、ちゃんと基準のこちら側へ来た。
その日の結果は、全科目が終わってからまとめて告げられた。
六人の受験者が講義室へ集められ、一人ずつ名前を呼ばれていく。ルアンは午前中の三科目には大きな失敗がなく、魔力操作も十秒を維持し、荷重歩行も基準内だった。それでも正式に結果を聞くまでは、どこかで何かを見落としているような気がして落ち着かなかった。
最後から二番目に名前を呼ばれた。
「ルアン」
前へ出ると、試験官が一枚の書類を差し出した。受け取って目を落とすと、そこにははっきりと書かれていた。
《中層保全勤務資格 合格》
ルアンは、その文字をもう一度だけ確かめた。
前回、掲示板で見た《不合格》とは違う。
「合格、ですよね」
「そう書いてある」
「間違いじゃなく?」
「戻したくなってきたな」
「すみません」
慌てて書類を受け取った。
試験官は呆れたような顔をしたあと、少しだけ声を低くした。
「勘違いするなよ。資格は、中層で一人前に働ける証明じゃない。中層で仕事を覚えていい最低限の基準を満たしたってだけだ」
「はい」
その言葉は、以前なら少し残念に感じたかもしれない。けれど今は、最低限で十分だった。まずはそこへ行ける。それが、素直に嬉しかった。
管理院の一階へ戻ると、ダグは資材室で工具を点検していた。ルアンは合格書類を手にしたまま、その前へ立つ。
「受かりました」
ダグは手を止め、一度だけ書類へ目を落とした。
「そうか」
「もう少し何かないんですか?」
「何が」
「おめでとうとか」
「試験に受かっただけだろ」
「その試験に二回も挑戦したんですけど」
「一回落ちてるからだろ」
確かにそうだった。
ダグは工具箱を閉じると、壁に掛けられていた翌日の勤務表を外した。
「明日から中層の補助に入る」
「もう?」
「資格取ったんだろ」
「そうですけど」
ルアンは勤務表を受け取り、担当区域の欄へ目を落とした。
《中層西岸区域 二番系統》
見覚えのない番号だった。その下には、現場名が小さく記されている。
《地下湖西岸》
ルアンはその文字をしばらく見つめた。以前ダグに、中層へ行きたい理由を聞かれた時のことを思い出す。地図では知っている。記録も読んだし、人から話も聞いた。それでも、本物はまだ見たことがない。
だから、自分で見てみたい。
「地下湖……」
声に出すと、ダグが横から勤務表を覗いた。
「浮かれて足滑らせんなよ」
「滑りません」
「毎年一人は落ちる」
「そんなに?」
「嘘だ」
「何で今それ言うんですか」
ダグは少しだけ笑った。
仕事を終えて月兎亭へ戻ると、食堂はまだ夕食前で空いていた。席へ着くと、マーサは何も聞かずにいつもの煮込みと黒パンを置く。その横には、ゆで卵が一つ添えられていた。
ルアンは卵へ目を落とし、それからマーサを見た。
「結果、言ってないけど」
「その顔で落ちてたら驚くよ」
「そんなに分かりやすい?」
「坊やは昔から分かりやすいよ」
昔からと言っても、月兎亭に住み始めてからのことだろう。ルアンは少し笑い、卵の殻を丁寧に剥いた。
食べながら何度か勤務表を見た。
中層西岸区域。
地下湖西岸。
文字だけなら、何度も目にした場所だった。
明日は、その場所へ自分の足で行く。
その夜、七番倉庫には寄らなかった。試験で身体を使ったこともあるが、今日は何かをできるようにするより、明日の仕事へ疲れを残さない方が大切だと思えた。
部屋へ戻ると、机の上に合格書類と勤務表を並べた。十秒の魔力操作も、基準より六秒だけ早かった荷重歩行も、決して余裕のある合格ではない。中層へ行けば、知らないことも、できないことも、またいくらでも見つかるのだろう。
それでも構わなかった。
ルアンは窓の外へ目を向けた。夜のアルネスの向こうに迷宮大門の灯りが見え、その下には、まだ一度も自分の目で見たことのない景色が広がっている。
明日、その続きを見に行ける。
そう思うと、なかなか眠れそうになかった。




