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第14話 地下湖

翌朝、ルアンはいつもよりかなり早く目を覚ました。


窓の外はまだ薄暗く、月兎亭(げっとてい)の一階からも物音はほとんど聞こえない。もう一度眠ろうと思えば眠れそうだったが、枕元に置いてある勤務表を見た途端、その気はなくなった。


《中層西岸区域 二番系統》

《地下湖西岸》


昨夜から何度も読んでいる文字だった。


起き上がると、ルアンはいつもより丁寧に仕事着を整えた。工具は管理院で受け取るので、特別な準備が必要なわけではない。それでも靴紐を結び直し、腰袋の留め具まで確かめてから部屋を出た。


食堂へ下りると、マーサはまだ朝食の仕込みをしていた。こんな時間にルアンが現れたことが意外だったのか、鍋をかき混ぜる手を止める。


「今日はずいぶん早いね」

「中層、初日だから」

「ああ、昨日のやつかい」

「地下湖に行く」

「泳ぐなよ」

「仕事だよ」


マーサは「分かってるよ」と言いながら黒パンを切った。いつもより少し厚い気がしたが、指摘すると減らされそうなので黙って受け取ることにした。


朝食を食べながらも、ルアンの頭には地下湖のことがあった。管理院の記録では何度も読んでいる。中層西岸区域に広がる巨大な地下湖で、対岸までの距離は場所によって数百歩からそれ以上。水深は正確に測れていない場所もあり、湖岸には発光苔(はっこうごけ)や水生魔物が多い。


地図も見た。導灯(どうとう)の配置図も覚えている。


それでも、本物がどんな場所なのかは想像するしかなかった。


迷宮管理院へ着くと、資材室の前にダグが待っていた。今日はいつもの工具袋だけでなく、腰まで覆う防水布と、靴底へ取り付ける滑り止めまで用意されている。


「着けろ」

「これ全部?」

「地下湖沿いは湿ってる。滑って落ちたら面倒だ」

「昨日、毎年一人落ちるって嘘つきましたよね」

「落ちる奴がいないとは言ってねえ」


微妙に嫌な言い方だった。


ルアンは防水布を腰へ巻き、滑り止めを靴へ取り付けた。工具袋も浅層用とは少し中身が違う。外殻(がいかく)を固定するための太い金具や、防湿用の封止材が追加されている。


「重いですね」

「中層はこういうもんだ」

「昨日の試験より重くない?」

「それで歩けなきゃ意味ないだろ」


合格した翌朝から、早速資格のありがたみが薄れてきた。


この日の担当はダグだけではなく、もう一人、中層勤務の経験が長い職員が同行することになっていた。四十代ほどの女性で、名前はリサ・ベルク。短く切った黒髪に細身の体格で、ルアンが挨拶すると工具袋を一度見てから頷いた。


「初日?」

「はい」

「湖見ても走らないでね」

「走りません」

「だいたい最初の子は走るから」

「そんなに?」


横でダグが鼻を鳴らした。


「こいつは走る」

「走りませんって」


二人とも信用していないらしい。


迷宮大門をくぐり、三人は浅層を進んだ。大消灯の影響が残っている区域には仮設の携帯灯が置かれ、導灯の一部にも新しい部品が使われている。二十号周辺はまだ調査区域になっており、通常の点検経路から少し迂回する必要があった。


それでも、二十数号を越えた辺りからは、以前とほとんど変わらない迷宮の姿が戻ってきた。青白い光が一定の間隔で続き、探索者や運搬人とも何度かすれ違う。ルアンもここまでは過去に何度か荷物運びで来たことがあった。


中層への分岐は、そのさらに先にある。


通路の途中に管理院の小さな詰所(つめしょ)があり、そこで勤務資格証を確認された。以前ならここから先へ進む人たちを見送るだけだったが、今日は自分の名前が記録簿に書かれる。


ルアンは少しだけその文字を見た。


《ルアン 灯守見習い》


肩書きは何も変わっていない。それでも、その横には中層入域の印が押された。


「何見てんだ」

「いや、別に」


ダグに急かされ、ルアンは詰所を離れた。


中層へ続く通路は、最初のうちは浅層とあまり変わらなかった。石壁が続き、導灯も同じ青白い光を放っている。ただ、進むにつれて少しずつ空気が変わっていく。


まず、湿っていた。


頬に触れる空気が冷たく、石壁の表面には薄く水滴がついている。足元も浅層より滑りやすく、ところどころに細い水の流れができていた。


さらに進むと、天井が少しずつ高くなっていく。


通路の幅も広がり、これまで近くに感じていた左右の壁が次第に遠ざかっていった。導灯の配置も変わり、壁へ直接取り付けるのではなく、低い石柱の上に据えられたものが増えてくる。


ルアンは何度も周囲を見ていた。


「前見ろ」


ダグに言われる。


「見てます」

「横しか見てねえ」

「だって、浅層と全然違う」

「これでも入口だぞ」


その言葉に、ルアンは少し驚いた。


すでに十分、中層へ来た気がしていた。


それからさらに三十分ほど歩いた。


途中で一度だけ休憩を取り、工具袋の位置を直す。試験の荷重歩行ほど苦しくはないが、この荷物を持ったまま毎日点検するとなれば、それなりに体力が必要なのはよく分かった。


やがて前方の通路が大きく開き始め、その先からこれまでとは違う音が聞こえてきた。低く、一定の間隔で響く音だった。


最初は風かと思った。しかし近づくにつれて、それが水の音だと分かった。


ルアンの歩調が少し速くなる。


「走るなよ」


後ろからリサに言われた。


「走ってません」

「速くなった」

「少しだけです」


結局、ばれていた。


最後の曲がり角を越えた瞬間、ルアンは足を止めた。目の前から、それまで続いていた壁が消えている。


その先には、巨大な空間が広がっていた。


天井がどこまで高いのか、すぐには分からない。遠くへ目を凝らすと、黒い岩盤が大きな弧を描いているのがかろうじて見える。その天井や壁の一部には淡い青緑色の発光苔が群生し、星のような小さな光を無数に浮かべていた。


その下には、黒に近い水面をたたえた湖が、視界の奥まで広がっていた。


岸辺に並ぶ導灯の光と天井の発光苔が水面へ映り込み、わずかな波が起こるたびに、その光が細かく揺れていた。対岸らしき場所にも小さな灯りは見えるが、距離がありすぎて点のようにしか見えない。


ルアンは何も言えなかった。


記録に書かれていた。地図でも見た。地下湖という名前も知っていた。それでも、想像していたものとはまるで違った。


迷宮の地下に湖があると聞けば、大きな水溜まりのようなものを思い浮かべていたのかもしれない。目の前にあるのは、そんな大きさではなかった。


地上の夜を、そのまま地下へ閉じ込めたようだった。


しばらく見ていると、湖のどこかで水面がゆっくり盛り上がった。大きな波紋が広がり、何かの背中らしき黒いものが一瞬だけ見えて、再び水中へ沈んでいく。


ルアンは思わず半歩下がった。


「今の何ですか?」

「湖背魚(こせぎょ)」

「大きくないですか?」

「小さい方だな」


リサが平然と答えるのを聞いて、ルアンはさらに水辺から距離を取った。すると横でダグがこちらを見る。


「泳ぐか?」

「泳ぎません」


今度は、さっきより少し強く答えた。


西岸の点検経路は、湖に沿って続いていた。岸辺から数歩離れたところに導灯が並び、場所によっては自然の岩盤へ直接固定されている。浅層とは違い、足元から湿気が上がるため、外殻の接合部には厚い封止材が使われていた。


最初の導灯で、ダグが外殻を開く。


「見るだけじゃなく仕事しろ」

「分かってます」


ルアンは工具袋を下ろし、中身を確認した。


点検手順そのものは浅層と同じだった。魔石の出力を測り、導線を確認し、固定具の緩みを見る。ただし、水分が入り込んでいないかを調べる項目が多く、外殻の底には浅層用にはない排水溝までついている。


ルアンが一つずつ確認していると、リサが横から指を差した。


「そこ」

「え?」

「封止材の端。少し浮いてる」


言われて初めて気づいた。ほんの爪の先ほどの隙間だった。


「これでも交換ですか?」

「中に水入ったら魔石ごと駄目になる。ここじゃ『少しくらい』が一番面倒だから」


ルアンは工具を取り出し、古い封止材を剥(は)がした。浅層で使うものより硬く、取り除くだけでも時間がかかる。


「中層って、導灯も大変なんですね」

「導灯が大変なんじゃない」

「違うんですか?」

「場所が面倒なの」


リサは湖を指した。


「湿気、塩分、魔物、地形。導灯は同じでも、置く場所で壊れ方が変わる。だから現場見ないと分からない」


ルアンはその言葉を聞きながら、新しい封止材を押し込んだ。地図や記録だけでは分からないことがある。その感覚は、自分が中層へ来てみたいと思った理由と、どこか似ていた。


次の導灯へ向かう途中、湖岸の一部が細くなっている場所があった。左側は岩壁、右側はすぐ水面で、人が二人並んで歩くのがぎりぎりの幅しかない。


ルアンは慎重に足を置いた。靴底の滑り止めが石へ噛む感触を確かめながら進む。ほんの数歩の区間だったが、水面がすぐ横にあるだけで妙に緊張した。


中央辺りまで来た時、水の中で何かが動いた。


ルアンの足が止まる。


「止まるな」


前を歩くダグが言った。


「何かいました」

「いる」

「見ないんですか?」

「見ると落ちる」


説得力があった。


ルアンは水面を見ないようにして進んだ。


狭い場所を抜けると、湖岸は再び広くなった。そこには発光苔が大きく群生しており、岩壁の一部が淡い緑色に照らされている。浅層の導灯とは違う柔らかな光で、近づくと葉のような小さな部分が一つずつ発光しているのが分かった。


「これ、触っていいんですか?」


ルアンが尋ねると、リサは少し考えた。


「見るだけなら」

「触るのは?」

「種類による」

「これは?」

「触ると三日くらい手が臭くなる」

「やめます」


即決だった。


点検を続けるうちに、ルアンは少しずつ地下湖の景色に慣れてきた。最初は何を見るにも立ち止まりそうになったが、仕事をしていると自然に導灯へ意識が戻る。


魔石の出力。外殻の湿り。封止材。固定金具。湖面から吹く冷たい風で揺れる携帯札。


見るものは多かった。


昼休みは、湖から少し離れた岩棚で取ることになった。三人で腰を下ろし、持ってきた黒パンと干し肉を食べる。


ルアンは食べながら、また湖を見ていた。遠くの水面を何かがゆっくり横切っていく。距離があるため姿は分からず、長い波だけが残った。


「楽しいか?」


ダグに聞かれた。


ルアンは少し考えてから頷いた。


「はい」

「仕事だぞ」

「分かってます。でも、見たかったから」


前も同じことを言った。あの時は、十七号導灯の先を見ながらだった。


地図では知っている。でも、本物を見たことがない。だから見てみたい。


実際に来てみれば、知らなかったことばかりだった。湖の匂い。湿った空気。靴の裏へ伝わる滑りやすさ。遠くで聞こえる水の音。導灯の外殻が浅層より厚い理由も、封止材を少しでも放置できない理由も、ここへ来ればすぐに分かる。


ダグはそれ以上何も言わず、干し肉を食べ続けた。


午後の点検では、一か所だけ導灯の固定具を丸ごと交換することになった。湖岸の岩盤が湿気で脆(もろ)くなり、金具の一つが浮き始めていたためだ。


三人で導灯を支えながら、古い金具を外す。思っていた以上に重かった。


「こっち持て」

「持ってます」

「落とすなよ」

「分かってますって」


腕が震える。試験の荷重歩行とは違う疲れ方だった。


新しい金具を固定し終わった時には、ルアンの背中に汗が滲んでいた。冷たい地下湖の空気の中で汗をかくとは思っていなかった。


リサが固定具を確認し、軽く揺らす。


「大丈夫そうね」


ダグも一度確認してから頷いた。


ルアンは自分が取り付けた金具を見た。浅層で同じことをしても、たぶん何とも思わなかっただろう。


今日は少し違った。


自分が初めて入った中層に、自分が直した導灯が一つ残る。それが妙に嬉しかった。


帰路につく頃には、地下湖の発光苔が少し明るく見えるようになっていた。実際に光量が変わっているのか、それとも目が暗さに慣れただけなのかは分からない。


湖を離れる前、ルアンは一度だけ振り返った。


広い水面の向こうに、導灯の列が小さな点となって続いている。まだ今日歩いたのは、西岸のほんの一部だけだ。その先にも道があり、さらに奥へ進めば、地下湖とはまるで違う景色もあるという。


以前なら、その事実を考えるだけで早く先へ行きたくなっていたかもしれない。今は少し違った。


まず、この場所のことをもっと知りたい。導灯がどう壊れるのか。どこが滑りやすいのか。どんな魔物がいるのか。今日見落としたものがないか。


知らない場所へ行くことと、その場所を知ることは、同じではないのかもしれない。


浅層へ戻る頃には、工具袋が朝よりずっと重く感じられた。歩数そのものは試験ほど多くないはずなのに、足場へ気を配りながら長時間歩いたせいで、脚にも疲労が溜まっている。


管理院へ帰ると、ルアンは点検記録を書いた。


《西岸二番系統・第三導灯 封止材交換》

《第五導灯 固定金具一式交換》

《その他異常なし》


たった三行だった。


地下湖を初めて見たことも、水面から大きな魚が出たことも、発光苔が思っていたより綺麗だったことも、記録には書かれない。仕事として残るのは、それだけだった。


ルアンは少し面白く感じた。


「何笑ってんだ」


横を通ったダグに言われる。


「今日一日、三行だなって」

「仕事ってそんなもんだ」

「地下湖、すごかったのに」

「それは報告書にいらねえ」

「分かってます」


記録を提出し、工具を片付けた。


月兎亭へ帰る途中、ルアンはいつものように大門市場の前を通った。今日は七番倉庫へ行くつもりはない。中層勤務初日で身体にはかなり疲れが残っており、明日も同じ区域へ入る予定だった。


市場を歩いていると、素材を積んだ籠(かご)を背負った少女が前を横切った。


赤茶色の髪。見覚えがある。


ミレーナだった。


彼女もルアンに気づき、一度だけ足を止めた。


「銀貨十二枚」

「まだそれなの?」


ルアンは苦笑した。


ミレーナの籠には、浅層では見たことのない植物や、青黒い甲殻のようなものがいくつも入っていた。仕事帰りらしく、靴や膝の辺りには泥がついている。


ルアンはその籠を見た。


「今日、中層にいた?」

「いたけど」

「地下湖?」

「今日は東岸」

「東岸もあるんだ」

「湖なんだからあるでしょ」


確かにそうだった。


ミレーナは不思議そうにルアンの服を見る。


「中層勤務、取ったの?」

「今日から」

「へえ」


それだけだった。


もう少し驚くかと思ったが、特に興味はないらしい。


「地下湖、初めて見た」

「そう」

「すごかった」

「そう」

「もうちょっと何かない?」

「毎週見てるから」


そう言われると何も返せない。


ミレーナは籠を背負い直し、市場の方へ歩き始めた。


「じゃあね、銀貨十二枚」

「だから名前で呼んでよ」


彼女は振り返らなかった。


ルアンはその背中を少しだけ見送った。


毎週見ている。


その言葉が妙に残った。自分が今日ようやく足を踏み入れた場所で、ミレーナは普通に働いている。市場でバッカスと一枚二枚を争っていた時には、そんなことを考えもしなかった。


月兎亭へ戻ると、マーサに地下湖のことを聞かれた。


ルアンは大きかったこと、水が黒く見えたこと、発光苔が天井に広がっていたことを説明した。話し始めると、自分でも思っていた以上に言葉が出てきた。


マーサは料理をしながら聞いていたが、途中で一度だけ笑った。


「楽しそうだね」

「仕事だよ」

「朝も同じこと言ってたよ」

「仕事だけど、楽しかった」


今度は素直に認めた。


夕食を食べ終え、部屋へ戻る。今日は七番倉庫には行かなかった。


寝台へ横になると、脚の疲れが一気に出てきた。明日も朝から中層へ入ると思えば、今夜はよく休んだ方がいい。


目を閉じると、地下湖の景色が浮かんだ。


暗い水面。天井の発光苔。岸辺に続く青白い導灯。


そのうちの一つには、今日自分が取り付けた金具がついている。


地図でしか知らなかった場所に、自分の仕事が一つ残った。


ルアンは少しだけ笑った。


明日は、今日よりもう少し先まで見られるかもしれない。


そう思いながら、前夜のように寝つけず困ることもなく、すぐに眠りへ落ちていった。

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