第15話 一瞬だけ強い
中層勤務二日目の朝、ルアンは前日より少し遅く目を覚ました。
昨日は地下湖を初めて見た興奮で疲れを忘れていたが、寝台から身体を起こすと、脚と肩にしっかり疲労が残っている。浅層勤務では感じなかった種類の重さだった。工具袋を持ったまま長時間歩き、滑りやすい湖岸で姿勢を崩さないようにしていたせいだろう。
月兎亭の食堂へ下りると、マーサはルアンの歩き方を見てすぐに笑った。
「昨日は楽しそうだったのに、今日は年寄りみたいだね」
「中層って思ったより疲れるんだよ」
「じゃあ行かなきゃいい」
「それは嫌」
「なら黙って食べな」
いつもの黒パンとスープを受け取り、ルアンは素直に席へ座った。身体は重い。それでも、今日も地下湖へ行けると思うと気分は悪くなかった。
管理院へ着くと、今日もダグとリサが同行することになっていた。昨日と同じ西岸区域だが、担当するのはさらに奥の三番系統。地図で見れば大した距離には見えないものの、中層では一本の通路を進むだけでも浅層ほど簡単ではない。
工具を確認していると、ダグがルアンの歩き方に気づいた。
「筋肉痛か」
「少し」
「昨日、あれだけ湖見てただけなのにな」
「ちゃんと仕事してましたよ」
「景色見るのに使った体力だろ」
「そんな体力あるんですか?」
リサが横で笑っていた。
三人は迷宮大門をくぐり、昨日と同じ経路で中層へ向かった。浅層を抜け、中層詰所で記録を済ませ、湿った通路を進む。昨日初めて見た景色も、二度目になると少し違って見えた。どこで床が滑りやすくなるのか、どの辺りから湿気が強くなるのか、前日には気づかなかった細かな変化まで目に入る。
地下湖へ出ると、ルアンはやはり一度足を止めた。黒い水面の向こうに発光苔の淡い光が揺れ、岸辺には導灯が一定の間隔で並んでいる。昨日ほど圧倒されはしなかったが、見慣れたとも思えなかった。
「今日は止まったな」
ダグが言う。
「何がですか?」
「昨日は口開けてた」
「開けてません」
「開いてたよ」
リサまで加わった。覚えがなかったので、反論することにした。
今日の点検区域は、西岸のさらに奥だった。昨日より湖岸が起伏に富み、途中には水辺から大きく離れて岩場を回り込む区間もある。導灯の設置場所も一定ではなく、湿気の少ない高所へ取り付けられたものや、岩盤を削って埋め込まれたものまであった。
一つ目の導灯を点検している途中、ルアンは外殻の下に細かな傷を見つけた。
「これ、何ですか?」
リサが覗き込む。
「爪痕ね」
「岩鼠?」
「もっと大きい」
ダグが傷の幅を確認した。
「針尾蜥蜴だな」
聞いたことはあった。中層の湖岸周辺に棲む小型の魔物で、四本足の蜥蜴に似た姿をしている。体長は大きな個体でも人の腰ほどだが、名前の通り尾の先に硬い棘があり、危険を感じると振り回してくる。中層では特別強い魔物ではなく、探索者なら初心者でも単独で対処できる程度だという。
ルアンは外殻についた傷を改めて見た。浅くはない。
「これで小型なんですか?」
「中層じゃな」
ダグの返事に、あまり安心できなかった。
点検を続けながら、ルアンは周囲にも目を向けるようになった。昨日は地下湖の景色ばかり見ていたが、今日は岩の隙間や水辺の草むらまで気になる。何か動いたように見えるたびに目を凝らしてしまう。
三つ目の導灯を終え、次の地点へ向かう頃には湖岸の幅がかなり広くなっていた。右手には地下湖、左側には高さのある岩壁が続き、その間に細かな岩が転がっている。ダグが先頭を歩き、ルアンが中央、リサが後ろについた。
その途中、前方の岩陰で石が一つ転がった。ダグが足を止め、ルアンもその場で動きを止める。しばらく何も起こらなかったが、次の瞬間、岩陰から灰褐色の身体が姿を現した。
針尾蜥蜴だった。
想像していたより大きい。四本の脚は低く開き、背中には細かな鱗が並んでいる。長い尾の先には黒い棘があり、地面へ擦れるたびに乾いた音を立てた。
針尾蜥蜴は三人を見た。三人もその場から動かず、しばらく魔物の様子を窺った。
「距離取れ」
ダグが低い声で言い、ルアンは素直に一歩下がった。
針尾蜥蜴は本来、人間を積極的に襲う魔物ではない。縄張りへ入った者を威嚇し、それでも近づけば攻撃する。相手が一匹なら、横を大きく迂回して通り過ぎる方が安全だと教本にも書いてあった。
三人は湖側へ少し距離を取ろうとした。ところが、針尾蜥蜴も同じ方向へ動く。ダグが止まると魔物も止まり、反対へ動けば、今度も進路を塞ぐように横へ移動した。
「巣でもあるのか」
リサが周囲を見回すと、岩陰の奥に白い殻のようなものがいくつか見えた。卵らしい。
「迂回するぞ」
ダグはそれを確認すると、迷わず進路を変えた。
三人は来た道を少し戻り、湖岸から離れた岩場を大きく回ることにした。戦えるからといって戦う必要はない。以前なら少し物足りなく思ったかもしれないが、ゴードやダグから何度も言われてきたことを考えれば、その判断が正しいのは分かる。
ところが岩場へ入りかけたところで、背後から鋭い音がした。振り向くと、針尾蜥蜴が低い姿勢のままこちらへ走ってきている。距離を取れば終わると思っていたのに、魔物はそのまま急速に間を詰めてきた。
「下がれ!」
ダグの声にルアンは動いた。しかし足元の小石を踏み、身体がわずかに傾く。その一瞬で、針尾蜥蜴は目の前まで迫っていた。
長い尾が動く。
初めて岩鼠に襲われたあの時なら、そこで身体が止まっていたかもしれない。今回は違った。
尾だけを見ない。四本の脚、身体の向き、頭。その全部を見る。セインに言われたことを思い出すより先に、身体が少しだけ反応した。
尾が右から来る。
ルアンは左へ踏み込み、胸の奥から魔力を流した。いつもは右腕へ通している流れを、今日は右脚へ向ける。準備していたわけではない。ただ避けたいと思い、そのために脚へ力が必要だった。
足裏に力が入った瞬間、景色が横へ流れた。尾の棘が仕事着を掠めて空を切り、ルアンはそのまま左へ抜ける。
避けられた。
自分でも驚くほど、身体が速く動いていた。
針尾蜥蜴が勢いのまま身体を旋回させる。ルアンは短剣へ手を伸ばした。以前のように鞘へ引っ掛かることもなく、刃が抜ける。
右脚へ流していた魔力を止め、今度は右腕へ送った。胸から肩へ、肘から前腕へと、これまで何度も作ってきた通り道をつなげていく。
針尾蜥蜴が再びこちらへ向いた時、ルアンは一歩踏み込み、短剣を振った。
刃が魔物の肩口へ当たり、硬い感触が手へ返ってくる。深くは入らなかったが、針尾蜥蜴の身体は大きく横へ流れ、そのまま岩へぶつかった。
ルアンは短剣を握ったまま、その場に立っていた。
岩鼠の時とは違う。偶然飛び込んできた相手へ刃が当たったのではない。相手を見て、避け、自分から踏み込み、短剣を当てた。
胸の奥が一気に熱くなる。
いける。
針尾蜥蜴が岩の前で身体を起こす。まだ倒れてはいない。それでも、今ならもう一度できるような気がした。
ルアンが短剣を構え直した、その瞬間だった。右脚から急に力が抜け、膝が折れそうになる。慌てて踏ん張ると、今度は右腕まで一気に重くなった。
「え?」
呼吸もおかしかった。ほんの数秒前まで何ともなかったのに、胸が激しく上下し、息を吸っても足りないような感覚がある。脚へ魔力を流し、その直後に腕へ切り替えたことで、思っていた以上に身体へ負担が掛かっていたらしい。
針尾蜥蜴が低く鳴いた。今度はさっきより速く感じる。
ルアンは避けようとしたが、右脚が思うように動かなかった。後ろへ下がったところで足がもつれ、そのまま尻から地面へ落ちる。
長い尾が持ち上がった。
その前に、ダグが間へ入った。
手にしていた長い工具棒で尾を受け、軌道を逸らす。横からリサが携帯用の短槍を突き出し、針尾蜥蜴の鼻先を牽制した。
「立てるか!」
ダグに言われ、ルアンは地面へ手をついた。立てるとは思ったが、力を込めた途端に脚が笑った。
「ちょっと待ってください」
「待てる状況に見えるか!」
言われて周囲を見る。確かに、そんな状況ではなかった。
ルアンは短剣を握ったまま、どうにか立ち上がった。戦える状態ではないので、二人の後ろへ下がる。針尾蜥蜴は肩を傷つけられたことで興奮しているのか、逃げる様子がなかった。
リサが短槍で距離を保ち、ダグが工具棒を構える。
「俺が押す。左へ抜けるぞ」
三人でさらに岩場側へ移動する。針尾蜥蜴が一度飛び込んできたが、ダグは正面から押し返した。倒そうとしているのではなく、距離を取るための動きだった。
ルアンも遅れないよう歩いたが、身体が重い。さっきまであれほど速く動けた右脚が、自分の脚ではないように感じる。
ようやく十分な距離を取ると、針尾蜥蜴はそれ以上追ってこなかった。卵のある岩陰へ戻り、こちらを警戒しながら低く身体を伏せる。
三人もそこで足を止めた。
ルアンは近くの岩へ手をつき、しばらく呼吸を整えた。胸の奥が痛いわけではない。ただ、全力で走った直後のように息が上がっている。
ダグが近づいてくる。
「怪我は?」
「たぶん、ないです」
仕事着を見ると、尾の棘がかすめたところに細い裂け目ができていた。それ以外に血は出ていない。
リサも確認し、問題がないと分かると少し離れた場所へ腰を下ろした。
「びっくりした。今の動き」
「僕もです」
本当に自分でも驚いていた。
ダグはルアンの前へ立つ。
「何した」
「脚に魔力を流しました。そのあと腕に」
「普段からやってんのか?」
「腕は。脚は少し練習したことありますけど、あんなに動いたのは初めてです」
ダグはルアンの脚を見る。
「今は?」
「重いです」
「腕は?」
「それも」
答えているうちに、さっき感じた嬉しさが少しずつ小さくなっていった。一度は避け、一度は当てた。それでも次の攻撃では、ほとんど動けなかった。
ダグはしばらく黙ってから口を開いた。
「勘違いすんなよ」
ルアンが顔を上げる。
「お前は強くなったんじゃない。一瞬だけ強くなれるようになったんだ」
少し痛い言葉だった。でも、反論できなかった。
「さっきの動きを十回続けられるなら話は別だ。今は一回やったらこれだろ」
ダグがルアンの脚を指す。まだわずかに震えている。
「はい」
「それを強くなったと思って前に出たら、二発目で死ぬ」
「はい」
以前ゴードに言われたことを思い出した。
“一つできるようになったからって、次も全部できるとは思うな。”
そして、もう一つ。
“弱いのに、自分が弱いと知らないのが一番危ねえ。”
あの頃よりできることは増えた。でも、できることが増えれば、その分だけ新しい勘違いも増えるらしい。
しばらく休憩を取ったあと、三人は予定していた点検へ戻った。ルアンの身体も歩く程度なら問題なくなったが、ダグから今日はもう魔力を使った身体強化をするなと言われたので、素直に従うことにした。
さっきまでの出来事が嘘のように、導灯の点検はいつも通り進んだ。外殻を開き、魔石を測り、導線を確認する。湿気を見て、固定具を調べる。その一つひとつを続けているうちに、乱れていた呼吸も完全に戻った。
午後には湖岸の狭い場所を通る区間もあったが、今度は周囲の魔物ばかり気にせず、足元をしっかり見るようにした。身体強化が使えることより、滑って湖へ落ちないことの方が大事だった。
昼を過ぎた頃、リサが何気なく尋ねた。
「さっきの、怖かった?」
「怖かったです」
「でも一回避けたじゃない」
「そのあと転びました」
「そこは練習ね」
ルアンは少し笑った。
前に岩鼠に襲われた時とは違った。あの時は短剣を二度落とし、何をすればいいのか分からず、ほとんど導灯に助けられた。
今日は短剣を落とさなかった。相手を見ることもできた。一度は自分の判断で避け、攻撃も当てた。最後には助けてもらったが、それでも全部が同じではない。
自分が弱いということと、少し成長したということは、両方一緒に存在できるのかもしれない。
午後の点検を終え、三人は浅層へ戻った。中層詰所で退出記録を済ませたところで、ルアンは壁際へ置かれた長椅子に腰を下ろした。
思っていた以上に疲れている。
ダグが横を通る。
「帰れるか?」
「帰れます」
「七番倉庫行くなよ」
「今日は行きません」
「珍しく素直だな」
「脚がもう嫌だって言ってるので」
ダグは少し笑った。
管理院へ戻り、点検記録を書く。導灯については大きな異常がなかったので、記録そのものは短かった。
問題は、途中で遭遇した針尾蜥蜴だった。
《西岸三番系統付近にて針尾蜥蜴一体を確認。営巣中と推定。迂回対応》
そこまで書いてから、ルアンは少し考えた。自分が戦ったことも書くべきだろうか。
ダグに聞くと、当然のように頷かれた。
「書け」
「怒られません?」
「だから書くんだろ」
「嫌な仕組みですね」
「仕事ってそういうもんだ」
第十五導灯の時から何も変わっていなかった。
結局、魔物が接近したため一度交戦し、魔力による身体強化を使用したことまで記録した。そこだけ読むと、少し格好よく見える気がする。
その直後に、
《使用後、一時的に歩行能力低下》
と書くことになったので、すぐに格好よくなくなった。
月兎亭へ戻る頃には、右脚の重さもかなり抜けていた。食堂へ入ると、マーサは昨日直したばかりの仕事着に新しい裂け目があることへすぐ気づいた。
「何した」
「蜥蜴」
「また魔物かい」
「でも今回は短剣落とさなかったよ」
「そういう問題じゃない」
銅貨五枚では済まないかもしれない。
夕食を食べながら、ルアンは今日の出来事を思い返した。
あの瞬間は、本当に強くなったと思った。針尾蜥蜴の尾を避け、自分から踏み込み、短剣を当てた時には、公開訓練で何度も負けた自分とは別人になったような気さえした。
けれど、それはほんの一瞬だった。
脚へ魔力を流し、次に腕へ切り替えただけで、身体はあっという間に動かなくなった。今のやり方では、必要な場所へ魔力を送ることはできても、それを長く使い続けることまではできない。
強くなったんじゃない。一瞬だけ強くなれるようになった。
ダグの言葉が、妙に分かりやすかった。
それでもルアンは、その一瞬を悪いものだとは思わなかった。以前は、その一瞬すらなかった。短剣を落とし、避けることもできず、魔力を指先へ流すだけで精一杯だった。
できる時間が短いなら、少しずつ長くすればいい。ただし、今度は一日で何とかしようとは思わない。
ルアンは食後に部屋へ戻ると、七番倉庫へ向かう代わりに寝台へ横になった。右脚にはまだ軽い疲労が残っているので、今日は何もせず休むことにする。
天井を眺めながら、今日の動きを頭の中でもう一度思い返した。右脚へ魔力を流した時、確かにそこまで魔力を通すことができた。腕だけではなく、脚にも流せるのなら、身体の別の場所にも同じように道を作れるのかもしれない。
そんなことを考えかけて、ルアンは目を閉じた。
考えるのは明日でいい。今日はもう十分だった。




