第16話 回収士
針尾蜥蜴に襲われてから三日が過ぎた。
仕事着についた裂け目はマーサが直してくれたが、前より少し目立つ色の糸が使われている。本人によれば「同じ色がなかっただけ」らしいが、ルアンには魔物に襲われた場所へ印をつけられたように見えた。
右脚の疲労は翌日にはほとんど消えていた。それでも七番倉庫での訓練は、以前より慎重に進めている。
右腕へ魔力を流したあと脚へ切り替える。脚へ流したあと、一度完全に止めてから腕へ戻す。二つを連続して使うと、身体の疲れが急に大きくなることも分かってきた。
まだ全身へ巡らせるようなことはできない。今できるのは、必要な場所へ一本ずつ道をつくることだけだった。
その日の仕事は、地下湖西岸から少し離れた中層南側の点検だった。ダグとルアンの二人で、二番系統から枝分かれする補助導灯を確認していく。
地下湖そのものは見えないが、空気にはまだ湿気が残っている。足元には浅い水溜まりが点々と続き、岩壁には発光苔とは違う灰緑色の苔が広がっていた。
ダグがその苔を避けて歩いたので、ルアンも同じように少し距離を取る。
「それ、危ないんですか?」
「知らん」
「知らないんですか?」
「知らんから踏まねえんだよ」
言われてみれば、その通りだった。
灯守は迷宮の中で働いているが、迷宮にあるものを何でも知っているわけではない。魔物、鉱石、植物、菌類、素材。仕事に必要な範囲の知識は教わるものの、専門外のものまで全部見分けられるほど簡単な場所ではなかった。
少し進むと、前方から金属のぶつかる音が聞こえた。探索者かと思ったが、声は複数ではない。さらに近づくと、岩壁の前にしゃがんでいる人影が見えた。赤茶色の髪を後ろでまとめている。
ルアンはすぐに気づいた。
「ミレーナ?」
呼ばれた少女が振り返る。
「銀貨十二枚」
挨拶より先にそれだった。
「僕の名前、もう知ってるよね?」
「知ってる」
「じゃあ使ってよ」
「気が向いたら」
その日は一人で仕事をしているらしい。市場で見る時と同じ使い込まれた上着を着ているが、腰には短い刃物や細い金属棒、小瓶、紐などがいくつも下げられていた。背中の籠も空ではなく、小さな布袋や木箱がすでにいくつか入っている。
ダグが足を止めた。
「回収か」
「はい。灰灯茸と、水晶蟻の殻です」
「南側は昨日、岩崩れあったぞ」
「聞いてます。旧三番路には入りません」
返事が早かった。ダグはそれ以上何も言わず、ルアンへ歩くよう促した。
ところが数歩進んだところで、ミレーナが後ろから声を掛けてきた。
「そっち行くの?」
「点検だから」
「二番補助路?」
「うん」
「じゃあ、右側歩いた方がいいよ」
ルアンは足元を見る。右も左も同じような岩床に見えた。
「何で?」
「左、薄皮石だから」
聞いたことのない名前だった。
ダグは一度足を止め、左側の地面を見たあと、工具棒の先で軽く叩いた。乾いた音がする。次に右側を叩くと、こちらは鈍い音が返ってきた。
「なるほどな」
ダグは何事もなかったように右へ移動し、ルアンもついていく。
「何ですか、薄皮石って」
「下が空洞になってる岩。上だけ残ってると普通の床みたいに見える」
「踏むと?」
「割れることがある」
「それ先に教えてくださいよ」
「俺も今気づいた」
少し後ろでミレーナがため息をついた。
「灯守って、よく迷宮で仕事できるね」
「そっちに言われたくない」
ルアンはそう返しながらも、足元を見る目が少し変わった。今までなら、水溜まりがある、苔がある、岩がある。その程度にしか見ていなかった場所にも、それぞれ意味があるらしい。
点検する導灯は、その先にあった。
外殻を開き、魔石の出力を確認する。ダグが配線を見ている間、ルアンは固定具の状態を調べた。
その横を、ミレーナが通り過ぎていく。彼女も同じ方向へ仕事があるらしい。数歩先で突然立ち止まり、岩壁へ顔を近づけた。しばらく見たあと、腰から細い金属棒を取り出す。
ルアンはついそちらを見てしまった。
「手止まってんぞ」
「すみません」
ダグに言われ、慌てて固定具へ戻る。
点検を終えた頃には、ミレーナはまだ同じ場所にいた。岩壁に張りついている灰色のものを、細い棒で少しずつ剥がしている。
ルアンには、ただの汚れにしか見えなかった。
「何取ってるの?」
近づいて尋ねると、ミレーナは手を止めずに答えた。
「灰灯茸」
「それが?」
「そう」
「茸に見えないけど」
「乾くとこうなるの」
岩壁に貼りついているのは、薄い皮のようなものだった。色も石とほとんど変わらず、知らなければ見過ごしてしまう。
ミレーナは根元へ金属棒を差し込み、力を入れずに少しずつ持ち上げていく。ルアンはその手元を見た。
「普通に剥がしちゃ駄目なの?」
「やる?」
棒を差し出され、ルアンは少し迷った。
「やっていいの?」
「失敗したら銀貨三枚」
「やめとく」
即座に断ると、ミレーナは小さく笑った。
「根元が残ると値段落ちるの。表面も割れやすいし、乾いて見えても中に水分残ってるから、強く曲げると裂ける」
そう説明しながら、最後の部分を丁寧に剥がす。薄い灰色の茸が、一枚の布のような形で岩壁から外れた。
ミレーナは裏側を確認し、欠けがないことを見ると、布で包んで木箱へ収めた。一連の動きに迷いがなかった。市場でバッカスを相手に値段を一枚ずつ削っている姿とは、少し違って見えた。
その先ではダグが次の導灯を開けていたので、ルアンも仕事へ戻る。
二つ目の点検を終え、三つ目へ向かう途中で、再びミレーナと進路が重なった。彼女は岩壁よりも地面をよく見ている。時々立ち止まり、しゃがみ込み、何かを確認してから進んでいく。
「何見てるの?」
ルアンが尋ねると、ミレーナは地面を指した。
「足跡」
「魔物?」
「たぶん赤爪猿」
「どれ?」
ルアンには何も見えなかった。
ミレーナは少し呆れたような顔をしてから、砂の薄く積もった部分を指す。そこに、確かに小さな窪みがあった。
「これ?」
「それ」
「よく分かるね」
「指が三本で、外側に重心寄ってるから」
「いつ通ったかも分かる?」
「だいたいなら」
ミレーナは跡の端を指で触った。
「まだ崩れてないから今日。水滴も入ってないから、そんなに前じゃない」
「近くにいる?」
「一匹ならね」
ルアンが周囲を見ると、ミレーナは続けた。
「でもこっちにもある」
少し離れたところにも同じ足跡があった。さらにその先にも続いている。
「三匹以上」
「それは危ない?」
「赤爪猿だけなら別に。でも群れでいるなら近くに餌があるか、巣があるかもしれないから、そっちへ行かない方がいい」
彼女は迷うことなく、予定していたらしい左側の通路を捨てた。腰袋から小さな紙を取り出し、簡単な印を書き込む。
「予定変えるの?」
「変える。素材より帰る方が大事だから」
その言葉は、ダグやゴードから何度も聞いた考え方と同じだった。ただ、ミレーナが言うと少し違って聞こえた。
彼女は探索者のように魔物を倒すために迷宮へ入るわけではない。価値のあるものを見つけ、壊さず回収し、持ち帰って初めて仕事になる。そのためには、素材そのものだけでなく、そこへ行く道や周囲の危険まで知らなければならないらしい。
次の分岐で、ルアンたちとは進路が分かれるはずだった。ところがミレーナはそこで足を止めた。
「ねえ」
「何?」
「今日、蒼背甲虫いるかも」
「え?」
その名前には覚えがある。
最初にミレーナと出会った日。自分が壊した、青みがかった薄い翅殻。銀貨十二枚。
「どこ?」
「見たいの?」
「ちょっと」
ミレーナはルアンの顔を見る。
「仕事は?」
「あります」
後ろからダグの声がした。
「終わってからなら五分だけな」
「いいんですか?」
「どうせすぐそこだろ」
「よく分かりましたね」
「お前が毎回あっち見てるからだ」
見られていたらしい。
三つ目の導灯を点検し終えたあと、休憩を兼ねてミレーナについていくことになった。分岐から百歩ほど進んだ場所で、通路の天井が少し低くなり、壁際に背の低い植物が増えてくる。
ミレーナはそこで声を落とした。
「踏まないで」
「何を?」
「その白い粉」
足元を見ると、岩の隙間に薄い白色の粉が積もっている。ルアンは慌てて足を引いた。
「毒?」
「違う。警戒臭」
「警戒臭?」
「蒼背甲虫が危険を感じた時に出すの。踏んで舞い上げると、近くの個体が逃げる」
ルアンは白い粉を避ける。
「そんなのまで分かるんだ」
「回収するんだから、分からないと仕事にならないでしょ」
ミレーナは当然のように言った。
少し進むと、彼女が急に止まり、指を口元へ当てた。ルアンも黙る。
岩壁のくぼみに、青いものが見えた。最初は鉱石かと思ったが、ゆっくり動いている。
甲虫だった。
大きさはルアンの手のひらより少し大きく、背中に半透明の青い翅が折り重なっている。光を受けるたびに色が変わり、角度によっては銀色にも見えた。
ルアンは息を呑んだ。
「あれが……」
「蒼背甲虫」
ミレーナは小声で答える。
市場で見た翅殻だけでは分からなかった。生きている時は、もっと綺麗だった。
ミレーナは籠を下ろし、細い網と小さな布袋を取り出す。
「捕まえるの?」
「殺さないよ」
「じゃあ翅殻は?」
「脱皮したのを拾う」
ルアンは少し驚いた。てっきり甲虫を捕まえて翅を取るのだと思っていた。
ミレーナは周囲の岩を調べ始めた。甲虫そのものには近づかず、少し離れた岩陰へ手を伸ばし、そこから青く薄いものを取り出す。
翅殻だった。
「あった」
ミレーナはその場ですぐに持ち上げず、まず周囲を確認した。次に手袋をつけ、翅殻の端を二本の指でつまむ。もう片方の手を下へ添え、折れないようにゆっくり持ち上げる。
ルアンは前に自分がしたことを思い出した。籠が倒れそうになったので、反射的に素手で掴んだ。そして割った。
今見ると、よく十二枚で済んだ気がしてくる。
ミレーナは翅殻を光へかざした。
「端が少し欠けてる」
「駄目なの?」
「売れるけど安くなる」
彼女はそれを薄い布で挟み、平たい箱へしまった。
「これ一枚でいくら?」
「状態次第。今日は銀貨七枚くらいかな」
「十二枚じゃないんだ」
「あんたが壊したのは大きかったから」
「まだ言う?」
ミレーナは箱を閉じる。
「忘れるわけないでしょ。銀貨十二枚だよ」
「僕の中ではもう名前みたいになってるよ」
小声で話している間にも、蒼背甲虫は岩壁をゆっくり登っていった。ルアンはその姿を眺める。
「こういう仕事なんだね」
「何が?」
「回収士」
ミレーナが振り向き、ルアンは言葉を探した。
「市場で見てた時は、素材を持って帰って売る仕事なのかなって思ってた」
一瞬、嫌な言い方になったかもしれないと思った。しかしミレーナは怒らなかった。
「間違ってないよ」
「でも、持って帰るまでにこんなに見るんだなって」
足跡を見る。地面を見る。岩を見る。魔物を見る。素材を傷つけない方法を選び、危ないと思えば予定を変える。
ルアンが導灯を見る時と同じように、ミレーナにはミレーナが見ているものがある。
「ミレーナって、すごいんだね」
素直に言った。
ミレーナはしばらく黙り、それから眉を寄せる。
「何だと思ってたの?」
「市場ですごくふっかける人」
「最悪」
即答だった。ダグが後ろで笑いを堪えている。
「でも、今日見て分かった」
「何が」
「銀貨一枚にうるさい理由」
「そこ?」
ルアンとしてはかなり納得したつもりだったが、ミレーナはため息をついた。
「一枚取るのに、半日探すこともあるの。見つけても割れてたら売れないし、魔物がいたら諦めることもあるし、帰り道で壊したら全部無駄。だから一枚でも安くされたら嫌なの」
「なるほど」
「分かった?」
「ちょっと」
「じゃあ次からバッカス側につかないで」
「ついたことないよ」
むしろ巻き込まれているだけだった。
休憩時間が終わり、三人は元の分岐へ戻った。ミレーナとはそこで別れることになった。彼女は赤爪猿の足跡があった道を避け、別の回収地点へ向かうという。
「一人で大丈夫?」
ルアンが何気なく聞くと、ミレーナは怪訝そうな顔をした。
「いつも一人だけど」
「そうなんだ」
「危なかったら帰るし」
「魔物が出たら?」
「逃げる」
「倒さないの?」
「倒せるなら倒す。でも倒すのが仕事じゃないから」
それも、妙に分かりやすかった。ルアンは少し考えてから頷く。
「じゃあ気をつけて」
「そっちも。薄皮石踏まないようにね」
「もう覚えたよ」
「本当に?」
「たぶん」
ミレーナは信用していない顔をした。それから歩き出しかけ、途中で振り返る。
「ルアン」
「え?」
初めて名前で呼ばれた。
ルアンが少し驚いていると、ミレーナは続けた。
「さっきのところ、帰りに白い粉踏まないでよ。明日また見に来るから」
「そっち?」
名前で呼んだ意味は特になかったらしい。ミレーナは手を軽く振り、そのまま通路の奥へ消えていった。
ルアンはしばらく後ろ姿を見ていた。
ダグが横から歩き出す。
「行くぞ、銀貨十二枚」
「ダグさんまでやめてください」
午後の点検は、特に大きな異常もなく終わった。ただ、ルアンは朝より足元を見るようになっていた。
苔の色、砂の窪み、岩の割れ方。もちろん見ても意味までは分からないものばかりだったが、今まで自分がどれほど何も見ずに歩いていたのかは分かる。
導灯の状態なら、自分にも少しずつ違いが見えるようになってきた。けれど迷宮全体を見れば、知らないことの方が圧倒的に多い。それを少し面白いと思った。
管理院へ戻り、点検記録を書き終える。今日は導灯に異常なし。
薄皮石の位置についてはダグが別の安全情報として報告し、赤爪猿の足跡についても回収士からの情報として記録された。
「ミレーナが見つけなかったら、薄皮石踏んでたんですかね」
帰り支度をしながらルアンが尋ねると、ダグは工具を棚へ戻した。
「俺一人なら途中で気づいたかもしれん」
「僕は?」
「踏んでたな」
「即答しないでくださいよ」
ただ、自分でもたぶんそうだと思った。
月兎亭へ帰る途中、ルアンは大門市場を通った。いつものバッカスの店の前では、ミレーナがちょうど今日の素材を並べているところだった。
平たい箱が開かれ、中には昼間見つけた蒼背甲虫の翅殻が入っていた。バッカスが手に取らず、顔を近づけて状態を見る。
「端欠けてんな。銀貨五枚」
「七枚」
「六」
「七」
「六枚と銅貨五枚」
「七枚」
「お前なあ」
いつもの光景だった。
ルアンは少し離れたところから見た。以前なら、また始まったと思っただけだっただろう。
今は違った。
あの翅殻を見つけるまでに、ミレーナは足跡を見て道を変え、危険を知らせる粉を避け、蒼背甲虫を驚かせないよう近づき、壊れやすい殻を丁寧に回収した。
銀貨一枚。その一枚の中に、思っていたよりずっと多くのものが入っている。
「……ったく、しょうがねえな。七枚だ」
バッカスが折れ、ミレーナは満足そうに翅殻を渡した。そこでルアンに気づく。
「何見てるの?」
「いや」
「変なの」
「今日は七枚なんだなって」
「聞いてたの?」
ミレーナが少し嫌そうな顔をする。
ルアンは笑った。
「七枚取れてよかったね」
「何それ」
自分でも少し変だと思った。でも、昼に見た仕事を思い出すと、本当にそう感じた。
ミレーナは首を傾げたあと、またバッカスとの精算へ戻った。ルアンも月兎亭へ向かう。
歩きながら、ふと自分の仕事のことを考えた。導灯一つを点検しても、記録に残るのはたった一行かもしれない。ミレーナが半日かけて探した翅殻も、店へ持ち込めば銀貨七枚という数字になる。
外から見れば、それだけだ。
けれど、その一行や一枚の中に何があるのかは、実際にその仕事をしている人にしか分からない。ルアンは今まで、ミレーナのことを少ししか知らなかった。
たぶん、今もまだ少ししか知らない。それでも今日、銀貨十二枚の人ではない彼女を、ほんの少しだけ知った気がした。




