第72話 四人の答え
「四人を、ソルヴェンへ?」
ダグは机の上の書類から顔を上げた。迷宮管理院の執務室では、リサがソルヴェン王国から届いた文書を確認し、オズも傍らで報告書に目を通していた。ネブラディス大迷宮で起きている異変について、先日の報告に続き、正式な調査協力の要請が届いたところだった。
「向こうが求めているのは、似た異変を調べた経験のある人材よ。四人を指名してきたわけではないけれど、候補として考えているの」
リサはそう説明すると、先日の救助活動についてまとめた記録を引き寄せた。そこには、四人が変化する通路の中で何を確かめ、どのように判断したのかが、聞き取りをもとに詳しく記されている。
「今回の件で、あの子たちがそれぞれ何を見ていたのかも分かったでしょう。現地の調査でも、役に立てることがあると思うの」
ダグはしばらく黙っていた。アルネスでは今も通路の異変が続き、保全作業も調査も終わっていない。経験のある技師を何人も国外へ送り出せる状況ではなく、古い図面や補修記録を調べる仕事も山積みだった。
「俺は残る。こっちの調査も、まだ途中だからな」
「ええ。それは分かっているわ」
リサは頷き、派遣計画の書類を開いた。
「もちろん、四人だけで向こうの調査を任せるつもりはないわ。こちらから調査責任者を同行させるし、現地では王国の調査員と協力してもらうことになる」
オズが書類へ目を落とした。
「それなら、あいつらに任せられる仕事もあるだろうな」
「そう思う?」
「ああ。古い図面と今の通路を照らし合わせてきたし、実際に地形が変わる中でも動いている。何より、四人がそれぞれ見たことを持ち寄って、自分たちで判断できるようになってきた」
オズは救助活動の記録を指で軽く叩いた。「帰路を確保した」という一文が訂正された箇所に目を止め、少しだけ口元を緩めた。
「ただ、ネブラディスは俺たちも知らない迷宮だ。アルネスでできたことが、そのまま通用するとは限らんぞ」
「ええ。そこは本人たちにも、きちんと伝えるつもりよ」
リサは書類を閉じ、少し考えた。
四人とも普段の仕事を持っている。ルアンは導灯保全部、ミレーナは回収士、セインは探索者、フィナは白樹療院で働いている。国外への派遣となれば、それぞれの仕事の調整に加え、報酬や滞在中の待遇についても取り決めが必要になる。
「まずは、本人たちに話してみましょう」
ダグが頷いた。
「ああ。行くかどうかは、あいつらが決めることだ」
数日後、四人は迷宮管理院の応接室に呼ばれた。
先日の聞き取りとは違い、机にはアルネスの通路図ではなく、別の大迷宮についての資料が並べられていた。リサの隣には、ダグも席に着いていた。 ルアンたちが席に着くと、リサはその中から一枚の報告書を取り上げた。
「今日は、あなたたちに相談したいことがあるの」
四人は顔を見合わせた。救助活動については、すでに聞き取りを終えたはずだった。
「ソルヴェン王国のネブラディス大迷宮で、アルネスとよく似た異変が報告されているの。現在の地形の一部が、古い図面と一致する場所も見つかったそうよ」
最初に反応したのはミレーナだった。
「……ほかの大迷宮でも?」
「ええ。二つの異変に関係があるかどうかは、まだ分かっていないわ。ただ、向こうでも通路の変化が確認されているそうなの」
セインが身を乗り出した。
「それって、俺たちが調べてきたのと同じじゃないですか」
「報告されている現象はよく似ているわ。だから、詳しく調べる必要があるの」
ルアンは机に置かれた通路図へ目を落とした。細い線で描かれた道は、アルネスで見慣れたものとは形が違う。古い図面との比較によって変化が確認された場所には、小さな印が付けられていた。
「古い図面は、どれくらい前のものなんでしょうか。アルネスと同じくらい古い記録なのかも、気になります」
リサは報告書の該当箇所を確かめた。
「年代については、まだ十分な資料が届いていないの。詳しい記録は、現地で確認することになると思うわ」
「分かりました。そこも比べられるといいですね」
ルアンが頷くと、リサは別の書類を取り上げた。
「そこで、ソルヴェン王国の迷宮管理機関から、調査協力の要請が届いているの。アルネスで似た異変を調べてきた人材を、現地へ派遣してほしいそうよ」
セインが少し首を傾げた。
「……それで、俺たちが呼ばれたんですか?」
「ええ。あなたたち四人にも、参加を考えてもらいたいと思っているの」
セインは驚いた顔で三人を見た。
「俺たちが、ソルヴェン王国へ?」
「そうよ。もっとも、向こうがあなたたちを指名したわけではないわ。派遣する人員はこちらで選ぶことになっているの」
リサは現地での調査内容について、分かっている範囲を説明した。古い記録と現在の地形の照合、異変が確認された通路の調査、現地の調査員との情報交換。立ち入る場所や作業の手順については、王国側と協議したうえで決めることになる。
「現地では調査責任者の指示に従ってもらうわ。知らない大迷宮だからこそ、向こうの人たちの経験も必要になるの」
フィナが少し緊張した様子で尋ねた。
「私たちにも、できることがあるでしょうか?」
「もちろん、何でもできるとは思っていないわ。ただ、あなたたちには、それぞれ違う経験があるでしょう」
リサは四人を見渡した。
「保全、回収、探索、治癒。先日の救助活動でも、それぞれ違う立場から状況を確かめていたわね。現地の調査でも、そうした経験を生かしてほしいの」
セインはまだ驚いた顔をしていたが、やがて口元を緩めた。
「……すげえ話だな」
「遊びに行くわけじゃないのよ」
「分かってるって。でも、外国の大迷宮だぞ?」
ミレーナは小さく息をついたが、それ以上は言い返さず、リサへ向き直った。
「あの、確認したいことがあります」
「ええ、何かしら」
「向こうへ行っている間、私たちは普段の仕事ができなくなりますよね。報酬や滞在中の費用は、どうなるんですか?」
セインが隣で小さく笑った。
「やっぱり、そこからか」
「大事なことでしょ。みんな、それぞれ仕事があるんだから」
ミレーナが真顔で返すと、リサも頷いた。
「もちろん、正式な調査業務として報酬を支払うわ。旅費や滞在中の経費は王国側が負担する予定だし、任務に対する報酬も用意される。こちらの管理院から支払う手当も含めて、具体的な条件はこれから詰めていくことになるわ」
ミレーナは少し考え、手元の書類を見た。
「それなら、引き受ける前に詳しい条件を確認させていただけますか。現地での仕事の範囲や、予定より滞在が長くなった場合のことも気になります」
「ええ。必要なことは、きちんと取り決めましょう。正式な条件については、参加する意思を確認したあとで、改めて相談するつもりよ」
ミレーナは頷いた。報酬が用意されることは分かったが、まだ確認しておきたいことはいくつもある。もっとも、今は条件を細かく詰めるより先に、そもそも引き受けたいかどうかを考える必要があった。
今度はルアンが口を開いた。
「僕が行くとしたら、導灯保全部の仕事はどうなるんでしょうか」
リサがダグへ目を向けると、ダグは頷いた。
「もし行くと決めたら、お前の持ち場はこっちで引き継ぐ。作業記録や道具の整理も、出発までに済ませればいい」
「……僕がいなくても、大丈夫でしょうか」
「俺たちがいる。保全部の仕事は止まらない。仕事のことだけで答えを決めるな」
ルアンはダグの顔を見た。いつも通りの口調で言われたことに、少しだけ肩の力が抜けたが、異変の続くアルネスを離れることについては、まだ考えなければならなかった。
「……分かりました。ありがとうございます」
フィナも白樹療院での仕事について確認した。リサは、派遣が決まれば導灯保全部と白樹療院には管理院からも連絡すると説明した。ミレーナとセインについても、それぞれの仕事を整理できるよう、出発までには十分な準備期間を設けるという。
「ただ、その前に、あなたたち自身の気持ちを聞いておきたいの」
リサは四人に向き直った。
「これは命令ではないわ。危険もあるし、しばらくアルネスを離れることになる。だから、引き受けるかどうかは、一人ずつ自分の意思で決めてもらいたいの」
セインが何か言いかけると、ミレーナが横から肘で軽くつついた。
「まだ返事しないの」
「……分かってるよ」
リサは少し笑った。
「急いで答える必要はないわ。四人で相談してもいいし、それぞれで考えてもいい。決まったら、改めて知らせてちょうだい」
四人は書類の写しを受け取り、管理院を後にした。
その日の夕方、七番倉庫には四人の姿があった。
古い石壁に囲まれた室内には、中央に一台の木製の卓があり、その周囲には椅子代わりの木箱が置かれている。高窓から差し込む光は弱くなり始めていたが、まだ卓の上の文字を読むには十分だった。
ミレーナは管理院から渡された書類を広げ、内容をもう一度確かめていた。セインは木箱に腰を下ろし、両手を頭の後ろで組んでいる。フィナは卓の向かい側に座り、ルアンはアルネスの通路図を広げていた。
「で、どうする?」
最初に口を開いたのはセインだった。
「俺は、行ってみたいけどな」
「早いわね」
ミレーナが書類から顔を上げた。
「だって、ネブラディス大迷宮だぞ。名前くらいは知ってても、実際に行ったことなんかないしさ」
「知らない場所だからこそ、危ないんじゃないの」
「それは分かってる。でも、知らない場所をずっと知らないままにしておくのも、もったいないだろ」
セインはそう言って、少し笑った。
「それに、向こうでも道が変わってるんなら、放っておけないしな」
ミレーナは書類を揃え、卓の端へ寄せた。
「私は、まだ考えてる」
「報酬は出るんだろ? 悪い話じゃなさそうだけどな」
「報酬だけで決めるわけじゃないわよ」
ミレーナはセインを見た。
「回収の仕事を休むことになるし、知らない大迷宮なら、地図の読み方も危ない場所の見分け方も、最初から覚え直しになるかもしれないでしょ。仕事の条件だって、まだ全部決まったわけじゃないし」
「そりゃそうか」
セインが頷くと、ミレーナは卓の上の通路図へ目を向けた。
「でも、向こうの地形や記録の残し方には興味があるのよね。アルネスとは違うやり方を知れたら、戻ってきてからの仕事にも役立つかもしれないし」
ミレーナは書類の端を指で揃えた。
「行くなら、ちゃんと仕事として引き受けたい。それだけよ」
フィナが小さく頷いた。
「私も、行ってみたいと思っています」
「フィナも?」
ミレーナが顔を上げた。
「はい。でも、少し怖いです」
フィナは膝の上で手を重ね、少し考えてから続けた。
「知らない場所ですし、どんな怪我をする人がいるのかも分かりません。私にできることがどれくらいあるのかも、まだ分からないです」
フィナは卓の上の報告書を見た。
「でも、向こうでも同じような異変が起きているなら、困っている人がいるかもしれません。実際に何が起きているのか、私も見てみたいんです」
セインが頷いた。
「向こうにも治癒術師はいるだろうけど、フィナが気づけることもあるかもしれねえしな」
「はい。ただ、白樹療院にもきちんと相談してからになりますけど」
フィナは少し笑った。
「それに、皆さんが無茶をしないかも心配ですし」
「俺はそんなに無茶しねえぞ」
「……本当ですか?」
フィナが尋ねると、ミレーナが横から口を挟んだ。
「そこは、あんまり信用しない方がいいわよ」
「おい」
ミレーナとフィナが笑うと、ルアンもつられて少し笑った。セインはなおも言い返しかけたが、三人の顔を見ると、結局は肩をすくめるだけにした。
「ルアンは、どう思う?」
ミレーナに尋ねられ、ルアンは通路図から顔を上げた。
「僕は、行きたいと思ってる」
セインがルアンへ向き直った。
「もう決めてたのか?」
「うん。ただ、アルネスの仕事が気にならないわけじゃないんだ。こっちの異変も、まだ調べている途中だから」
ルアンはそう言って、卓の上に広げた図面へ目を落とした。古い記録と現在の地形を照らし合わせ、何度も確かめてきた場所がある。まだ調べかけの印も残っていて、すぐに答えが出そうなものばかりではなかった。
「でも、向こうの記録も見てみたいんだ。ネブラディスで本当に同じようなことが起きているなら、アルネスのことを考えるうえでも、大事な手掛かりになると思う」
ルアンは三人へ目を向け、言葉を続けた。
「似ているところだけじゃなくて、違うところも調べてみたい。ここに残っているだけじゃ分からないことが、向こうへ行けば分かるかもしれない。それを持ち帰れたら、アルネスの調査にも役立つと思うんだ」
「お、……そうだな」
セインは頷き、卓の上の通路図へ目を落とした。ミレーナは黙ってルアンの話を聞いていたが、やがて書類を一枚手に取った。
「私も、そこは気になってたのよね。向こうの古い図面がどんなものなのかも知りたいし、アルネスと同じ方法で調べられるかどうかも試してみたいわ」
ルアンが頷くと、ミレーナは書類へ目を戻した。彼女の指先は、先ほどから報酬や調査期間について記された箇所を行き来している。
「……じゃあ、私も行く」
セインが顔を上げた。
「決めたのか?」
「ええ。仕事の条件は、まだ確認しなきゃいけないことがあるけどね。それがきちんと決められるなら、引き受けたいと思う」
ミレーナはルアンを見た。
「向こうで何が起きてるかは、私も自分の目で確かめたいから」
フィナも頷いた。
「私も、行きたいです」
「俺は最初からそのつもりだぜ」
セインが笑うと、ルアンも三人の顔を順に見た。
「じゃあ、四人とも同じだね」
「そうね。ただし、向こうへ行っても、何でも自分たちだけで決めていいわけじゃないからね。現地の調査員もいるし、知らない場所なんだから」
ミレーナが言うと、セインは頷いた。
「分かってるって。今度は、こっちが教えてもらうことも多いだろうしな」
ルアンも頷いた。
「うん。最初は向こうの人たちに、いろいろ聞いてみたい。アルネスのことも、必要なら僕たちから説明できるようにしておこう」
「それなら、今までの記録も整理しておいた方がよさそうね」
ミレーナが言うと、フィナも頷いた。四人は改めて書類に目を通し、管理院へ確認しておくことを整理した。出発の日程も、現地での詳しい調査範囲もまだ決まっていないが、それぞれの仕事をどう引き継ぐかについては、今から考えておけることもあった。
「じゃあ、明日、返事に行く?」
ミレーナが尋ねた。
「うん。四人で行こう」
「そうだな。リサさんにも、早く知らせた方がいいだろうし」
セインはそう言って木箱から立ち上がった。フィナも書類を揃え、ルアンは卓の上に広げていた通路図を丁寧に畳んだ。
「……それにしても、外国か」
セインが天井を見上げた。
「俺たち、本当に行くんだな」
「まだ出発日も決まってないでしょ。向こうとの調整もあるんだから」
ミレーナが言うと、セインは笑った。
「分かってるよ。でも、行くって決めたんだろ?」
「それは、そうだけど」
ミレーナは少し笑い、書類を鞄へしまった。
翌日、四人は再び迷宮管理院を訪れた。
リサは応接室で書類を確認していたが、四人がそろって入ってくると、手を止めて顔を上げた。机の上には、前日に見せられたものとは別に、派遣に向けた調整事項がまとめられていた。
「答えは決まった?」
ルアンは隣の三人へ目を向けた。セインが頷き、フィナも小さく頷いた。ミレーナは書類を抱えたまま、ルアンへ静かに頷いた。
「はい。四人で話し合って決めました」
ルアンはリサへ向き直った。
「僕たち、ネブラディスへ行きたいです。向こうの人たちと協力して、調査をさせてください」
リサは四人の顔を順に見渡した。
「四人とも、同じ答えなのね」
「はい」
ミレーナが答えると、セインとフィナも頷いた。リサはその様子を確かめてから、静かに微笑んだ。
「分かったわ。では、あなたたち四人を派遣する方向で、正式な手続きを進めましょう」
リサは机の上の書類を開き、今後の予定を説明した。同行する調査責任者の決定、それぞれの仕事の調整、王国側との受け入れ条件の確認。出発までには、まだいくつもの準備が必要だった。
「それから、報酬や滞在中の待遇についても、改めて詳しく確認しましょう。全員が納得できる条件にしてから、正式に契約を結ぶことになるわ」
その言葉に、ミレーナがすぐに頷いた。
「ありがとうございます。確認しておきたいことが、いくつかありますので」
「ええ。その時に聞かせてちょうだい」
リサはそう答えると、改めて四人を見渡した。
「現地では調査責任者の指示に従ってもらうわ。危険だと判断された場所へ独断で入らないこと。分からないことを、分かったつもりで進めないこと」
四人が頷くと、リサは言葉を続けた。
「あなたたちだけで異変の答えを出す必要はないわ。確かめたことをきちんと伝えて、現地の人たちと一緒に調べてきてほしいの」
ルアンは、先日の聞き取りでリサから言われたことを思い出していた。あの時も、全員が帰れたという結果だけで、判断が正しかったとは言えないと教えられた。何を確かめ、どこまで分かっていて、どんな条件で行動したのか。今度はその考え方を、知らない大迷宮でも生かしていかなければならないのだろう。
「はい。僕たちも、そうしたいと思っています」
ルアンが答えると、リサは頷いた。
「それなら、よろしくお願いするわ」
四人は必要な書類を受け取り、これから進める手続きについて説明を聞いた。派遣そのものは、条件の最終確認とそれぞれの仕事の調整を終えてから正式に決定することになる。それでも、四人が参加する意思を伝えたことで、ソルヴェン王国へ向かう準備は具体的に動き始めた。
管理院を出ると、空には薄い雲が広がっていた。
通りには荷車が行き交い、商人たちの声が聞こえてくる。少し離れた場所では、職人が店先に積んだ木箱を運んでいた。迷宮都市アルネスは、いつもと変わらない一日を続けていた。
「……ソルヴェン王国か」
セインが歩きながら呟いた。
「なんか、急に本当の話になってきたな」
「昨日、自分で行くって言ったばかりでしょ」
ミレーナが言うと、セインは笑った。
「分かってるよ。でも、こうやって準備が始まると違うだろ」
「それは、まあ……そうね」
フィナは手元の書類を大事そうに抱えていた。
「白樹療院にも、早めに相談しないといけませんね」
「俺も、しばらく受けられなくなる仕事を整理しねえとな」
セインが言うと、ミレーナも頷いた。
「私は、引き受けてる回収の仕事を片づけなきゃ。あとは、出発までに必要なものを揃えて……」
そこまで言って、セインを見た。
「あんたも、今から少しずつ準備しなさいよ」
「分かってるって」
「本当に?」
「本当だよ。まずは、向こうの食い物を調べるところからだな」
ミレーナが足を緩めた。
「……それ、最初にやること?」
「大事だろ。何週間も向こうで過ごすかもしれねえんだぞ」
セインが真顔で答えると、フィナが小さく笑った。
「おいしいものがあるといいですね」
「だろ? フィナは分かってるな」
ミレーナは呆れたように息をついた。
「……まあ、食事も大事だけど」
ルアンも少し笑った。
これからしばらく、準備で忙しくなるのだろう。アルネスで続けてきた仕事もあるし、まだ調べなければならないことも残っている。知らない国へ向かうことになったからといって、明日から急に何もかもが変わるわけではなかった。
「ルアンは、何か調べたいものあるか?」
セインが尋ねた。
「向こうの通路図かな。それと、古い調査記録も見ておきたい。出発する前に分かることは、できるだけ調べておきたいんだ」
「……お前、もう仕事する気満々だな」
「うん。仕事で行くんだから」
ルアンが当たり前のように答えると、セインは声を立てて笑った。ミレーナも笑いながら頷き、フィナは二人のやり取りを楽しそうに聞いていた。
「ほら、ルアンはちゃんと準備を考えてるじゃない」
「分かった、分かった。俺もちゃんとやるって」
セインが両手を上げると、ミレーナは満足そうに頷いた。
「それならいいわ」
「……で、今日の夕飯は何だろうな」
「もう食べることに戻ってる!」
ミレーナの声に、フィナが笑った。
通りの先には、いつもの迷宮大門が見えていた。巨大な門へ向かって探索者たちが歩き、荷物を積んだ荷車がその脇を通っていく。ルアンも明日になれば、いつも通り道具を持って保全作業へ向かうことになる。
ルアンは仕立て直した外套の前を合わせ、隣を歩く三人へ目を向けた。セインはまだ食べ物の話を続けていて、ミレーナが何か言い返している。フィナは二人のやり取りを聞きながら、ときどき楽しそうに言葉を添えていた。
夕方の風が、通りを抜けていった。ルアンは一度だけ迷宮大門を振り返り、明日の作業で確かめるつもりだった場所を思い出した。調べかけの記録も、直さなければならない設備も、まだたくさん残っている。
それでも、いつか荷物をまとめてこの街を出る日が来る。その先にあるのは、まだ一度も見たことのない国と、知らない大迷宮だった。
「ルアン、置いてくぞ!」
少し先でセインが振り返った。ミレーナとフィナも足を止め、ルアンが追いつくのを待っていた。
「うん。今行くよ」
ルアンは三人のもとへ歩み寄った。夕暮れの通りには、仕事を終えた人々の声が行き交い、月兎亭のある方角からは夕食を支度する匂いが漂ってくる。セインがまた何を食べるか話し始めると、ミレーナがすぐに言い返し、フィナも笑いながらその輪に加わった。
四人は、いつもの歩幅で帰り道を歩いていった。




