第71話 記録にない判断
「帰路を確保し、救助対象者七名を救出した」
リサが報告書の一文を読み上げたところで、ミレーナが顔を上げた。
「……すみません。そこ、違います」
「違う?」
「帰路は確保していません」
仕立て直した外套を受け取った翌朝、ルアンたちは迷宮管理院の小会議室に集まっていた。救助活動から六日が過ぎ、現場での出来事を正式な記録にまとめるため、関係者への聞き取りが行われている。
机の向こうにはリサとダグ、そしてオズが座っていた。壁際には記録係の職員が一人控え、話の内容を書き留めている。ルアンの隣にはミレーナ、その向こうにセインとフィナが並んでいた。
今回の聞き取りは、救助が成功したことを確認するだけのものではなかった。なぜあの場所へ向かったのか、どのような状況で救助を進め、どうやって帰還したのか。今後の調査に役立てるため、当事者の記憶を照らし合わせておく必要があった。
リサは手元の報告書へ目を落とした。
「救助直後の速報をもとにまとめたものだから、まだ確定ではないわ。どこが違うのか、説明してもらえる?」
「はい。あの時、帰り道が安全だと確認できたわけじゃありません。今なら戻れると判断しただけです」
ミレーナは机に広げられた通路の略図を指差した。
「通れなくなった場所もあれば、形が変わって通れるようになった場所もありました。でも、それがいつまで続くかは分かりませんでした」
「つまり、通行できる状態が保たれる保証はなかったのね」
「そうです。戻れるうちに戻ろうとしただけで、道そのものを確保したわけではありません」
リサが頷くと、記録係の職員が筆を止めた。
「では、『帰路の通行が可能と判断し、救助対象者七名を救出した』という表現でしょうか」
ミレーナは少し考えた。
「それだと、まだ足りない気がします」
「何が?」
「引き返す条件を先に決めていたことです」
その言葉に、リサがルアンたちへ視線を移した。
「引き返す条件?」
「後ろの通路が動き始めたら、救助の途中でも戻る。そう決めていました」
ミレーナが答えると、セインも頷いた。
「助ける相手が残っていても、だ。そうしないと、こっちまで帰れなくなるかもしれなかったからな」
「それは誰が決めたの?」
「最後に決めたのはルアンです」
リサがルアンを見た。
ルアンは少し背筋を伸ばした。呼ばれた理由は聞いていたが、自分の判断を一つずつ説明することになるとは思っていなかった。
「……はい。僕が決めました」
「その時、何を根拠にしたの?」
ルアンはすぐには答えなかった。
あの場所で考えていたことを、どこから説明すればいいのか分からなかった。道が変わり続けることも、助けを待つ人たちがいたことも、誰かが動かなければならなかったことも、すべて同じくらい切実だった。
「……僕一人では、決められませんでした」
少し考えてから、ルアンはそう答えた。
「ミレーナが、今なら戻れるかもしれないって教えてくれました。セインは、負傷した人たちを連れて移動できるかを考えてくれて、フィナは、みんなの身体の状態を見てくれました」
「それを聞いて、あなたが進むと決めた?」
「はい。でも、ずっと進み続けていいとは思っていませんでした」
リサは頷き、今度はセインへ目を向けた。
「セイン。あなたは何を確かめていたの?」
「負傷者をどうやって動かすかです。自分で歩けるか、誰かが支えなきゃいけないか。それで、あの道を通るのにかかる時間も変わるんで」
セインは略図の上に視線を落とした。
「俺がどれだけ力を出せても、奥にいた四人をまとめて抱えて走れるわけじゃないですからね。道が狭けりゃ、通す順番も考えなきゃいけない」
「その順番は、あなた一人で決めたの?」
「いや。フィナに、誰がどれくらい動けるか聞いたし、ミレーナには道の状態を聞きました。俺だけじゃ分かんないことも多かったんで」
続いて、リサはフィナへ尋ねた。
「フィナ。負傷者の状態はどうだった?」
「すぐに動ける方ばかりではありませんでした。手当てをすべて終えてから移動する余裕もなかったので、帰るために必要な処置を優先しました」
フィナは膝の上で手を重ね、慎重に言葉を選んだ。
「それから、ルアンさんの状態も気になっていました。救助のために力を使いすぎてしまうと、その後の移動に影響が出るかもしれなかったので」
「本人にも伝えた?」
「はい。何度か」
ルアンが小さく頷いた。
「……言われました」
「ちゃんと聞いてくれましたけど、少し心配でした」
フィナがそう付け加えると、セインがルアンの方を見た。
「少し、だったか?」
「……結構、心配でした」
フィナが言い直し、ミレーナが小さく笑った。
張り詰めていた室内の空気が、ほんの少し和らいだ。リサもわずかに表情を緩めたが、記録係の筆が動き始めると、再び話を戻した。
「それぞれが見ていたものは違う。でも、一人の判断では救助を進められなかった、ということね」
ダグが机の上の略図を引き寄せた。
「普段の保全作業でも、通路の状態と作業員の状況は分けて考える。ただ、今回のように地形そのものが変化する場合は、通れるかどうかだけでなく、いつまで通れるかも判断しなければならない」
ダグは図面の一部を指で押さえた。
「しかも、救助対象者を連れている。往路で通れた道が、そのまま帰路に使えるとは限らない。通常の作業計画とは、前提が違う」
「だから、あの一文じゃ困るのよ」
ミレーナがもう一度、報告書へ目を向けた。
「『帰路を確保した』って書かれたら、安全な道を見つけてから救助したように読めます。でも実際には、帰れるうちに帰ろうとしていたんです」
「その違いは、次に同じような場所へ向かう人間にとって重要ね」
リサは記録係へ向き直った。
「今の説明を踏まえて、修正してちょうだい。帰路が継続して使える保証はなかったことと、撤退する条件を決めていたことも残して」
「分かりました」
職員は報告書の一文を線で消し、余白へ新しい記述を書き込み始めた。
ルアンは、その手元をぼんやりと見つめていた。
帰ってきた時には、全員が助かったことに安堵するだけで精一杯だった。自分たちがどんな順番で考え、何を決めていたのかを、こうして一つずつ振り返るのは初めてだった。
「もう一つ、聞かせて」
リサの声に、ルアンが顔を上げた。
「もし、救助を終える前に後ろの通路が動き始めていたら、あなたはどうしたつもりだった?」
ルアンは少しだけ息を詰めた。
「……引き返すつもりでした」
「まだ助けられていない人がいても?」
「はい」
答えるまでに、少し間があった。
リサはその間を急かさなかった。
「そうすると決めていたのね」
「はい。でも……」
ルアンはそこで言葉を止めた。
あの時、後ろの通路が動き始めていたら。助けを求める人が目の前に残っているのに、本当に背を向けられただろうか。そう考えると、決めていたという言葉だけでは足りない気がした。
「実際にそうなった時、ちゃんと引き返せたかは分かりません」
ルアンは正直に答えた。
「でも、先に決めておかないと、迷ってしまうと思ったので」
室内が静かになった。
記録係も筆を止めていた。リサはルアンの顔を見ていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「そうね。決めていたことと、その通りにできたかどうかは別の話だわ」
そこでオズが口を開いた。
「その約束は、確かに聞いていたよ」
オズは椅子の背に身体を預け、四人の説明を黙って聞いていた。救助活動の現場にもいた彼は、その時の様子を思い返すように言葉を続けた。
「引き返す条件を決めていたのは本当だ。あの場所では、少し考えているうちに通路の状態が変わるかもしれなかった。だから、迷う時間を減らすために先に決めたんだろう」
ルアンは頷いた。
「はい」
「それが正しい判断だったかどうかは、結果だけでは決められない。たまたま全員が帰れた可能性だってある」
オズはそこで一度言葉を切った。
「ただ、あの四人が何も考えずに飛び込んだわけじゃないことは、記録に残しておいた方がいい」
リサは報告書を見下ろした。
救助活動の結果は、すでに記録されている。七人の救助対象者が戻り、対応に当たった者たちも帰還した。それは変わらない事実だった。
けれど、そこに至るまでに何を見て、何を諦める覚悟をし、どんな条件で行動したのか。速報をもとにまとめられた数行の記述には、まだそれが含まれていなかった。
「ダグ、どう思う?」
リサが尋ねると、ダグは少し考えてから答えた。
「今回の判断を、そのまま別の現場で使えるとは思わない。地形も、救助対象者の状態も、毎回違うからな」
「そうね」
「ただ、何を確かめてから判断したのかは参考になるはずだ。今後、同じような異変が起きた時に、何を見落としてはいけないのかを考える材料になる」
ダグは四人を見た。
「ルアンたちは、それぞれ違う仕事をしている。保全、回収、戦闘、治癒。普段から見ているものが違うから、今回も違うことに気づけたんだと思う」
セインが少し意外そうな顔をした。
「俺たち、そんなに難しいことしてました?」
「難しいことをしようと思っていたわけじゃないだろう」
「そりゃ、まあ……助けなきゃって思ってただけですけど」
ダグは小さく笑った。
「それでも、実際にはいくつもの判断を重ねている。自分たちでは当たり前だと思っていたことも、ほかの人には当たり前じゃないかもしれない」
ミレーナは腕を組み、しばらく考えていた。
「でも、私たちが四人でいたから何とかなった、っていう話でもないと思います」
「どういうこと?」
「その時の状況に合っていたんです。別の場所だったら、もっと詳しい人や、もっと力のある人が必要だったかもしれません」
リサは頷いた。
「その通りね。四人がそろえば何でもできる、という記録にしてはいけないわ」
それから、机の上の書類を揃えた。
「今回残すべきなのは、成功したという結果だけじゃない。どんな条件で判断し、その判断にどんな危険があったのかということよ。そこが分からなければ、次に生かすこともできない」
記録係が新しい紙を取り出し、四人の名前を書き始めた。
これまでも、救助活動に参加した者として名前は記録されていた。だが今回は、それぞれが何を確かめ、どんな意見を出したのかが、判断の経緯とともに残されることになった。
ルアンはその様子を見ていた。
自分の名前が書かれること自体は、特別なことではない。導灯保全部でも、作業記録に名前を残すことは日常的にあった。ただ、今回の記録には、自分一人では気づかなかったことも、決められなかったことも、きちんと書かれている。
ミレーナが見つけた帰路の可能性。セインが考えた移動の方法。フィナが確かめた負傷者と仲間の状態。
それが一つでも欠けていたら、あの時と同じ判断はできなかった。
「ルアン」
ダグに呼ばれ、ルアンは顔を上げた。
「どうした?」
「いえ……」
ルアンは少し考えた。
「みんながいて、よかったなと思って」
セインが笑った。
「今さらかよ」
「……うん」
「まあ、俺もそう思うけどな」
ミレーナは呆れたように二人を見たが、何も言わなかった。フィナは小さく微笑み、膝の上で重ねていた手をほどいた。
リサが記録係へ最後の確認を頼み、聞き取りは終わった。四人がリサたちに礼を言って会議室を出ると、廊下でセインが大きく息を吐いた。
「いやあ、疲れた」
「座って話してただけでしょ」
ミレーナが言うと、セインは首を振った。
「それが疲れるんだって。何を考えてたかなんて、後から一つずつ聞かれても、すぐには思い出せねえよ」
「だから記録に残すんじゃない」
「分かってるけどさ」
フィナが二人のやり取りを聞きながら笑った。
「でも、ちゃんと聞いてもらえてよかったです」
「そうね。あのまま『帰路を確保した』って残されるよりは、ずっといいわ」
ミレーナはそう言ってから、ルアンを見た。
「それに、最後の判断があんた一人の手柄みたいに書かれなくてよかった」
「……僕も、そう思う」
ルアンが答えると、セインが大きく頷いた。
「だよな。四人で行ったんだから、四人で帰ってきたってことにしてほしいよな」
その言葉に、フィナも頷いた。
廊下の先では、管理院の職員たちがいつも通り忙しそうに行き来していた。救助活動が終わっても、迷宮の異変がなくなったわけではない。ルアンもこの後は導灯保全部へ戻り、いつもの仕事を続けることになっている。
「じゃ、俺はそろそろ飯にするかな」
セインが言った。
「まだ昼には少し早いわよ」
「今から行けば、ちょうどいいだろ」
「どういう計算よ、それ」
ミレーナの呆れた声にセインが笑うと、ルアンとフィナも顔を見合わせて笑った。四人はそのまま廊下で別れ、それぞれの行き先へ向かった。
記録係が退室すると、会議室にはリサとダグ、オズの三人が残った。リサは修正された報告書にもう一度目を通した。
「ひとまず、これでいいでしょう」
リサは書類を揃え、端を軽く叩いた。
「結果だけでなく、途中の判断も残せたわ。今後の調査で必要になれば、もう一度詳しく聞くこともできる」
「ああ」
ダグが頷いた。
「あの四人だから助かった、という結論にするのは早いと思う」
「分かっているわ。ほかの調査員にも同じ判断ができたかもしれないし、条件が一つ違えば失敗していたかもしれない」
リサは報告書の表紙へ目を落とした。
「それでも、四人がそれぞれ違うことを見て、一つの判断を出したことは事実よ。その価値まで消してしまう必要はないでしょう」
オズが静かに頷いた。
「若い連中だけど、あいつらは自分たちに何ができて、何ができないかを考え始めている。そこは見てやってもいいと思う」
リサは書類を脇へ寄せた。
「……ところで、もう一件、見てもらいたいものがあるの」
そう言って、机の端に置いてあった別の封書を取り出した。
封はすでに切られていた。中から現れたのは、数枚の報告書と、細かな線が引かれた通路図の写しだった。
「他国の迷宮管理機関から届いた報告よ」
ダグが顔を上げた。
「他国から?」
「ええ。ソルヴェン王国のネブラディス大迷宮で、通路の形が記録と合わなくなっているそうなの」
「……向こうでもか」
ダグの表情が変わった。オズも椅子の背から身を起こし、リサの手元にある報告書へ目を向けた。
「おいおい。そっちでも道が変わってるってのか?」
「ええ。最初は測量の誤りか、地図が古くなっていたせいだと考えられていたそうよ」
リサは報告書の一部を指で示した。
「でも、調べ直したところ、現在の地形が古い記録と一致する場所が見つかったらしいの」
「……そこまで、アルネスと同じなのか」
ダグはリサから差し出された報告書を受け取り、すぐに目を走らせた。オズも横から通路図を覗き込み、低い声で言った。
「現行の地図にはない形が、昔の図面には残っていたってことだな」
「ええ。少なくとも、報告されている現象はよく似ているわ。ただ、向こうの測量記録はまだ十分に確認できていない。アルネスの異変と関係があるのかも、今は分からないわ」
リサは別の紙を取り出した。
「だから、まずは何を確かめて、何を根拠にそう判断したのか、詳しく知る必要があると思っているの」
「現場を見ないと分からないことも多そうだ」
ダグは通路図へ目を落とした。
そこに描かれていたのは、ソルヴェン王国のネブラディス大迷宮の一角だった。通路の幅も曲がり方も、エルナディア大迷宮で確認したものとは異なる。だが、添えられた報告書には、現在の地形の一部が古い図面と一致すると記されていた。ダグはその一文を読み返し、しばらく黙っていた。
アルネスで最初に古い地図と現在の通路を照らし合わせた時も、そこに何が起きているのか、すぐには分からなかった。記録の誤りなのか、後年の工事なのか、それとも別の何かなのか。調べるほど、確かめなければならないことが増えていった。
「……まず、向こうの記録を詳しく見たい」
ダグが言うと、リサは頷いた。
「ええ。まだ分からないことが多すぎるわ」
机の上には、アルネスで書き直された救助活動の記録と、遠い国から届いた大迷宮の報告書が並んでいた。
リサはどちらも片づけず、もう一度、他国の通路図へ目を落とした。




