第70話 少し合わない
救助活動から二日後の朝、ルアンは月兎亭の自室で、古い外套を寝台に広げていた。
以前イネスに直してもらった脇から背中にかけての縫い目は、今もきちんと残っている。ただ、左肩から背中にかけての布が何か所か擦れ、表面の糸が毛羽立っていた。先日の救助活動で、どこかの石に擦れたものらしい。よく見ると、小さな裂け目もできている。
そのまま着られないことはなかったが、前に修理してもらった時、イネスから傷み始めたら早めに持ってくるように言われていた。ルアンは外套を持ち上げ、確かめるように袖へ腕を通した。
「……あれ」
左腕を前へ伸ばすと、肩の後ろが少し引っかかった。以前はこんな感じではなかった気がするが、布が傷んだせいなのか、外套そのものが合わなくなったのかは分からない。何度か腕を動かしてみても、窮屈さは変わらなかった。ルアンは外套を脱ぎ、腕に掛けた。
階下へ降りると、マーサが食堂の椅子を並べていた。窓から入る朝の光はまだ弱く、厨房の火がいつもより明るく見える。
「今日は仕事かい?」
「午後から。午前中に寄るところがある」
「どこへ?」
「仕立て屋。外套を直してもらおうと思って」
ルアンが腕に掛けた外套を見せると、マーサは手を止めた。
「この前直したばっかりじゃないか」
「今度は別のところ」
「どうしたらそんなに傷むんだい」
「石に擦った」
「石の方から寄ってきたわけじゃないだろうに」
それはそうなのだが、詳しく説明しようとすると救助活動の話になってしまう。ルアンが返事を迷っている間に、マーサは食堂の奥からパンを一つ持ってきた。
「まあ、直せるうちに直しといで。ほら、食べてから行きな」
「ありがとう」
ルアンはパンを受け取り、空いている椅子へ腰を下ろした。ここ数日で朝の冷え込みがずいぶん強くなり、食堂の窓にも薄く曇りが残っている。迷宮の中では季節を忘れることもあるが、外へ出れば冬が近づいているのが分かった。
こんな時期に外套を預けるのは少し困る。それでも、また大きく破れてしまうよりはいいだろうと考え、食事を終えると外套を畳んで仕立て屋へ向かった。
仕立て屋へ向かう道は、市場を通って職人街へ続いている。以前ミレーナに案内してもらった時は道を覚える余裕もなかったが、今回は迷わず行けそうだった。ルアンは朝の市場をゆっくり歩きながら、店のある通りへ向かった。
露店には冬物の布や手袋が並び始め、食料品を扱う店先には根菜や干した果物が積まれている。焼きたてのパンを売る店の前を通り過ぎたところで、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
匂いのする方を見ると、小さな菓子屋の店先で、店主が焼き上がったばかりの菓子を木箱へ並べていた。
薄い生地を何層にも重ね、小さく四角く焼き上げた菓子だった。表面は濃い黄金色で、ところどころから刻んだ胡桃が覗いている。焼きたてらしく、まだかすかに湯気が立っていた。
「胡桃の蜜包み、焼きたてだよ。今朝のは蜜がよく馴染んでるよ」
店主が声を掛けてきた。
ルアンは足を止め、並べられた菓子を眺めた。そういえば、前に外套を修理してもらった時、イネスには何度も世話になっていた。貸し外套まで用意してもらったのに、きちんと礼を言っただけで、何かを渡したことはない。
仕立て屋へ行く途中に菓子を買っていくのも、悪くないかもしれない。
「これ、いくらですか?」
値段を聞くと、思っていたほど高くはなかった。ルアンは少し考えてから四つ買い、薄い紙で包んでもらった。店主は崩れやすいから気をつけるように言い、さらに一枚紙を重ねて袋へ入れてくれた。
受け取った包みはまだ温かく、胡桃と蜂蜜の匂いがする。
イネスが甘いものを好きなのかどうかは知らなかった。それでも、何も持たずに行くよりはいいだろうと思い、ルアンは袋を落とさないように持ち直して歩き始めた。
職人街の一角にある仕立て屋、銀針舎は、以前と変わらず落ち着いた佇まいだった。店先の木製看板には細い銀色の縫い針が描かれ、窓越しには丁寧に仕立てられた上着が飾られている。
ルアンが扉を開けると、布と糸の匂いがした。
店の奥ではイネス・ローデが作業台に向かっていた。髪を後ろでまとめ、眼鏡を掛けている。生成りのシャツに濃い色のジャケットという服装は以前と変わらず、袖を少しまくって細かな縫い目を確かめているところだった。
「こんにちは」
声を掛けると、イネスは顔を上げ、眼鏡を外して手元の針を置いた。
「あら、ルアン。いらっしゃい。今日はどうしたの?」
ルアンが抱えていた外套を差し出すと、イネスはそれを見て少し笑った。
「また、この子?」
「はい」
「ずいぶん早い再会ね」
イネスは外套を作業台へ広げ、以前直した場所を指で確かめてから、左肩の擦れた部分へ目を移した。布の端を持ち上げて裏側まで確認すると、小さな裂け目を指先で押さえる。
「ここね。かなり強く擦ったみたい」
「石に擦ってしまって」
「前に直したところは大丈夫よ。こっちもまだ傷が浅いから、今ならきれいに直せるわ」
「よかった」
「今回は早めに持ってきてくれたのね」
「前に、そう言われたので」
イネスは少し意外そうにルアンを見た。
「ちゃんと覚えていたの?」
「覚えてますよ」
「そう。じゃあ、言った甲斐があったわね」
イネスが外套を畳み始めたところで、ルアンは手に持っていた紙袋へ目を落とした。店に入ってから渡す機会を探していたものの、修理の話が始まると、なかなか切り出せなくなっていた。
「あの、これも……」
ルアンが紙袋を差し出すと、イネスは少し不思議そうな顔をした。
「何かしら?」
「市場で買ってきたんです。前に外套を貸してもらったので」
「まあ。そんなこと、気にしなくていいのに」
イネスは紙袋を受け取り、中を覗いた。すると、その手が一瞬止まった。
「あら……」
顔を上げたイネスは、先ほどよりも少し大きく目を開いていた。
「胡桃の蜜包みじゃない」
「はい。さっき焼いていたので」
「これ、私の大好きなお菓子なのよ」
ルアンは思わず紙袋を見た。
「そうなんですか?」
「ええ。ありがとう、ルアン。嬉しいわ」
イネスは包みをもう一度覗き、今度は楽しそうに笑った。ルアンはまさか好物だったとは思わず、少し驚いていた。
「たまたま見つけただけなんですけど」
「そういう偶然もあるのね」
イネスは袋を作業台の端へ置き、壁に掛かった時計を見た。
「ねえ、少し時間ある?」
「はい。仕事は午後からなので」
「じゃあ、お茶でも飲んでいかない? せっかくいただいたんだもの」
「でも、お仕事は?」
「ちょうど一区切りついたところよ。少しくらい休んでも大丈夫」
そう言ってイネスは作業台の奥にある小さな丸机を片づけ始めた。ルアンも手伝おうとしたが、どれを動かしていいのか分からず、結局、勧められた椅子に座ることになった。
イネスは奥から茶器を持って戻り、二つのカップへ温かいお茶を注いだ。湯気とともに柔らかな香りが立ち上り、菓子の甘い匂いと混ざり合う。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
向かいに腰を下ろしたイネスが、紙袋から菓子を一つ取り出した。
「いただきます」
薄い生地が小さな音を立てて割れた。イネスは一口食べると、しばらく味わうように口を閉じ、それからルアンへ微笑んだ。
「おいしい。やっぱり好きだわ、これ」
「よかったです」
ルアンも一つ手に取った。
思っていた以上に生地が薄く、噛むとぱりぱりと軽い音がした。中には細かく刻んだ胡桃が詰まり、蜂蜜の甘さが生地の香ばしさによく合っている。見た目よりも食べ応えがあり、もう一口食べると、小さな欠片がぽろぽろと皿へ落ちた。
「これ、おいしいですね」
「でしょう?」
「初めて食べました」
「そうなの? 市場には時々出てるのよ」
「いつも食べ物の店はあまり見ないので」
「あら、もったいない」
イネスはそう言って笑った。
ルアンがもう一口食べようとすると、向かいのイネスが小さく吹き出した。
「……ルアン」
「はい?」
「ほっぺについてるわよ」
「え?」
ルアンは慌てて右の頬を擦った。
「反対」
「あ、こっちですか?」
今度は左の頬を擦ったが、イネスはまだ笑っていた。
「もう少し上。……あ、まだ残ってる」
ルアンが手を止めると、イネスは自分のハンカチを取り出した。
「ちょっとじっとしてて」
身を乗り出したイネスが、頬についていた生地の欠片をハンカチの端でそっと拭った。ルアンは思わず背筋を伸ばしたが、イネスは何事もない様子で小さな欠片を取り除いている。
「はい、取れた」
「……ありがとうございます」
「そんなに固くならなくても大丈夫よ」
イネスが笑いながら椅子へ戻った。
ルアンはカップへ手を伸ばしたが、少し熱かったので一度戻した。何となく頬が温かい気がして、今度はゆっくり持ち上げる。
「迷宮では、もっと器用に動くんでしょう?」
「……お菓子を食べるのとは違いますから」
「それはそうね」
イネスは楽しそうに笑い、残っていた菓子をもう一口食べた。
それからしばらく、二人はお茶を飲みながら他愛のない話をした。市場の店が冬支度を始めていることや、最近は厚手の服の仕立て直しが増えていること。イネスは忙しい時ほど休憩を忘れてしまうらしく、気づけば夕方になっていることもあるという。
「好きな仕事でも、ずっと続けてたら疲れませんか?」
ルアンが尋ねると、イネスはカップを置いて頷いた。
「疲れるわよ。だから、こうして休むの」
「でも、僕が来なかったら休んでなかったんじゃないですか?」
「あら。よく分かったわね」
イネスは悪びれる様子もなく笑った。
「ルアンはどうなの? ちゃんと休んでる?」
「休んでますよ」
「本当に?」
「……最近は、気をつけてます」
先日の救助活動でフィナに注意されたことを思い出し、ルアンは少し言葉を濁した。イネスはそれ以上追及せず、空になったカップへお茶を足してくれた。
菓子を食べ終え、二人で使った皿を片づける頃には、ルアンもすっかり落ち着いていた。以前この店へ来た時は、イネスに話しかけられるたびに何を答えればいいのか迷っていたが、今日はそれほど気にならない。
イネスは作業台へ戻り、預かった外套をもう一度広げた。
「さて。そろそろ、こっちも見ておきましょうか」
「お願いします」
イネスは傷んだ部分を確かめてから、外套の肩を左右に広げた。しばらく布の形を見ていたが、何か気になるところがあったらしく、手を止める。
「……ルアン、一回着てみてくれる?」
「はい」
ルアンが外套へ袖を通すと、イネスは背後へ回り、肩の位置を確かめた。右肩の布を軽く引き、今度は左側へ手を移す。
「腕、前に伸ばしてみて」
「こうですか?」
「そう。今度は上に」
言われた通りに両腕を上げると、背中の布が引っ張られた。左肩に感じていた窮屈さが、今朝よりもはっきり分かる。
「痛い?」
「いえ。ただ、少し動かしづらいです」
「やっぱり。前に直した時は、もう少し余裕があったはずなんだけど」
「縮んだんですか?」
「洗い方によっては縮むこともあるけど、今回は違うみたいね」
イネスは作業台から採寸用の紐を取り、肩と背中の寸法を確かめ始めた。ルアンは言われた通りに立っていたが、先ほどまで向かい合ってお茶を飲んでいたこともあって、以前ほど緊張せずにいられた。
それでも、イネスがすぐ近くで肩を押さえると、少しだけ背筋が伸びてしまう。
「もう少し力を抜いて」
「抜いてます」
「まだ入ってるわよ」
言われて肩を落とすと、イネスが小さく笑った。
「そう、それでいいの」
採寸を終えたイネスは、以前の寸法を書いた紙を取り出した。二つの記録を見比べ、外套をもう一度ルアンの肩へ合わせると、背中の布を指先で軽く摘まんだ。
「……少し変わったわね」
「何がですか?」
「身体の使い方。肩の動きが前と少し違うわ」
ルアンは自分の肩を見ようとした。
「大きくなったんですか?」
「寸法はそこまで変わってないわ。でも、腕を前へ伸ばした時の肩の位置が違うの。前より自然に動かせるようになったんじゃない?」
「……そうかもしれません」
イネスはルアンを横から見て、もう一度肩の位置を確かめた。
「それに、前より立ち方も少し変わった気がする」
「立ち方?」
「うん。前に来た時は、肩に余計な力が入ってたから」
「今も入ってるって言われましたけど」
「今は言われたら抜けるでしょ」
イネスはそう言って笑い、外套を作業台へ戻した。
ルアンには、その違いがよく分からなかった。
ただ、最近になって身体の動きが以前とは違うと感じることはあった。走る時も、重いものを持つ時も、前なら無理をしていたところで、思ったより自然に動けることがある。その一方で、力を使いすぎれば腕が重くなり、身体が思うように動かなくなることもあった。
先日の救助活動でも、フィナに何度か注意されている。身体の状態を自分で確かめながら動くことの難しさは、まだ十分に分かっていなかった。
けれど、外套の着心地まで変わっていたとは思わなかった。
「直せますか?」
ルアンが尋ねると、イネスは少し考えてから答えた。
「直せるわ。ただ、前とまったく同じ形には戻さない方がいいと思う」
「どうしてですか?」
「今のまま傷んだところだけ補強しても、腕を動かすたびに同じ場所へ負担がかかるの。そうすると、またすぐ傷むわ」
イネスは外套の肩を広げ、縫い目の位置を示した。
「ここを一度ほどいて、肩から背中の形を少し変えたいの。動かした時に布が引っ張られないようにしておけば、もっと着やすくなるはずよ」
「そうなんですね」
「ただ、少し手間はかかるわ。布自体も古くなっているから、買い替えるという方法もあるけど……」
イネスはそこで言葉を止め、ルアンを見た。
「あなたはどうしたい?」
ルアンは作業台に広げられた外套へ目を落とした。
三年ほど着続けてきた服だった。初めの頃は少し大きかった袖も、今ではすっかり馴染んでいる。あちこち傷み、何度も泥で汚れたが、修理してもらいながら使い続けてきた。
新しい外套を買えば、きっともっと軽くて丈夫なものもあるのだろう。
それでも、まだこれを着ていたかった。
「……これを直してほしいです」
「そう」
イネスは短く頷いた。
「じゃあ、今のあなたに合う形に直しましょう」
イネスは外套をもう一度広げ、縫い目の位置を確かめながら採寸用の紙へ何かを書き込んだ。肩から背中にかけて印をつけ、裏側の傷んだ布を確認していく。
「肩まわりを一度ほどいて仕立て直すから、三日ほど預からせてね」
「はい。お願いします」
「それまでは、貸し外套を使ってね」
棚から取り出されたのは、以前も借りた外套だった。
「これ、前にも貸していただいた外套ですね」
「ええ。覚えてた?」
「はい。今回もありがとうございます」
「どういたしまして」
ルアンは貸し外套を受け取り、少し考えてから尋ねた。
「あの、修理代は……」
「前より少し手間がかかるけど、新しいものを買うよりはずっと安いわよ」
「そうですか」
安心したルアンを見て、イネスが笑った。
「そこは前と変わらないのね」
「何がですか?」
「代金を聞いた時の顔」
「……そんなに分かります?」
「分かるわよ。さっきもお菓子を買う時、値段を確かめたんじゃない?」
ルアンは少し驚いた。
「……確かめました」
「でしょうね」
イネスは楽しそうに笑い、仕立て直しの札に名前を書き込んだ。
「じゃあ、三日後の夕方に。忘れないでね」
「はい。お願いします」
ルアンが礼を言って店を出ると、冷たい風が通りを抜けていった。借りた外套は少し大きく、袖口にも余裕がある。以前は気にならなかったが、今度は肩の辺りが妙に軽く感じられた。
歩きながら一度だけ腕を上げてみると、布はどこにも引っかからなかった。
三日後の夕方、ルアンは仕事を終えてから銀針舎へ立ち寄った。
店へ入ると、イネスはちょうど作業台の上を片づけているところだった。ルアンの姿に気づくと、棚から畳んであった外套を取り出した。
「あら、いらっしゃい。できてるわよ」
受け取った外套は、見たところ以前とほとんど変わらなかった。左肩の擦れた部分はきれいに補強され、裏側には新しい布が当てられている。肩から背中にかけての縫い目も直されていたが、外からでは分からないほど自然だった。
「着てみて」
ルアンは借りていた外套を脱ぎ、修理の終わったものへ袖を通した。肩を合わせ、前を留めてから腕を動かしてみる。
「……あ」
前へ伸ばしても、上へ上げても、預ける前のような引っかかりがない。肩の後ろにあった窮屈さがなくなり、腕を動かすたびに背中の布が自然についてきた。
「どう?」
「動かしやすいです」
「よかった。背中の方も少し余裕を作ったから、前より楽なはずよ」
イネスはルアンの後ろへ回り、肩の縫い目を確かめた。しばらく左右の収まりを見比べてから、満足したように頷く。
「これなら、もう少し身体つきが変わっても大丈夫だと思う。ただ、布自体はだいぶ古くなってるから、次は買い替えも考えた方がいいかもしれないわね」
「まだ着られますよね?」
「ええ。今すぐ駄目になるわけじゃないわ」
ルアンが安心した様子を見せると、イネスは少し首を傾げた。
「ずいぶん気に入ってるのね、その外套」
「三年くらい着てるので」
「それは知ってるけど」
イネスは修理した肩を指で軽く叩いた。
「着慣れているから?」
「それもあります。でも……」
ルアンは少し考えてから答えた。
「仕事をする時、これがあると落ち着くんです」
口にしてみると、少し変な答えだったかもしれないと思った。外套が仕事をしてくれるわけではない。それでも、迷宮へ入る時にはいつも着ていたし、雨や泥に汚れながら何度も一緒に帰ってきた服だった。
イネスは笑わずに聞いていた。ルアンが言葉を探している間も急かすことはなく、外套の袖口を軽く整えてから、静かに頷いた。
「そう。なら、できるだけ長く着られるようにしましょう」
それだけ言って、作業台から修理代を書いた小さな札を取り出した。
ルアンは財布を開き、金額を確かめてから代金を支払った。前回より少し高くなっていたが、外套がこれだけ動きやすくなったのなら、十分に納得できる金額だった。
イネスは受け取った硬貨を小箱へ収め、もう一度ルアンの姿を確かめた。
「うん。今度はちゃんと合ってる」
ルアンも自分の肩へ目を落とした。
見た目には何かが大きく変わったわけではない。外套は相変わらず古く、袖口も少し擦れている。それでも、預ける前に感じていた窮屈さはなくなり、着慣れた服が今の身体に馴染んでいるのが分かった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
ルアンが扉へ向かうと、背後からイネスの声がした。
「ルアン」
振り返ると、イネスは作業台のそばに立っていた。
「この前のお菓子、本当にありがとう。おいしかったわ」
「いえ。喜んでもらえてよかったです」
「また市場で見かけたら、買ってしまいそう」
イネスはそう言って笑った。
ルアンも少し笑い、扉へ向き直ろうとした。すると、イネスがもう一度声を掛けてきた。
「それと、もう一つ」
ルアンが振り返る。
「次も、直せるくらいで帰ってきてくださいね」
ルアンは少しだけ目を瞬かせた。
イネスはいつもの落ち着いた表情で、手元の布を畳んでいる。何か特別なことを言おうとした様子ではなく、仕事の続きを始める前に、ふと思いついたことを口にしたようだった。
「……はい」
ルアンが答えると、イネスは小さく頷いた。
「じゃあ、またね」
「はい。また来ます」
店を出る頃には、通りはすっかり夕方の色になっていた。建物の影が石畳へ長く伸び、店先では次々に明かりが点き始めている。昼間より冷え込んだ空気の中で、ルアンは外套の前を合わせ、歩きながら肩を動かしてみた。
前に直してもらった時も、同じ外套なのにずいぶん着やすくなったと思った。今回も、ほんの少し縫い目や布の位置を変えただけで、身体の動きが楽になっている。外套そのものはほとんど変わっていないのに、着心地は預ける前とははっきり違っていた。
ルアンは左腕を一度だけ前へ伸ばした。肩から背中にかけての布が自然についてきて、預ける前に感じていた引っかかりはもうなかった。
次も、直せるくらいで。
外套の傷みなら、また持ってくればいい。けれど、そのためには自分もちゃんと帰ってこなければならない。そう考えると、何気なく掛けられた言葉が、少しだけ違う意味を持つように思えた。
市場の向こうには、いつもの帰り道が続いている。明日も仕事があり、迷宮の異変もまだ終わっていない。分からないことはたくさん残っているが、今は直してもらった外套を着て、いつも通り月兎亭へ帰るところだった。




