第68話 聞こえる方へ
四日後も、迷宮の封鎖は解かれていなかった。管理院ではその間、前回の調査で得られた記録の整理が続けられ、六十二年前の地図と現在図、鳴り返しが聞こえた位置、その後に構造が動いた範囲が何度も照合された。少なくとも「戻る先」と「次に動く場所」については、以前より先を読めるようになっている。
ただ、それは封鎖を解く理由にはならなかった。途中の形が旧図の範囲を越えることまで分かった以上、一般の探索者を入れるにはまだ危険が大きい。今日迷宮へ入るのも、管理院の調査班と、正式に協力を依頼された探索者だけだった。
その朝、ルアンが管理院の会議室へ入ると、ダグが壁際で工具帯を腰へ巻いていた。右肩にはまだ固定具が残っている。
「ダグさん、行くんですか?」
「そのつもりだ」
「何その装備」
「現場に行くからだ」
「行かないわよ」
「まだ何も言ってないぞ」
「今言ったでしょ」
机の向こうから返したリサの声に、セインが横を向いて笑いを堪えた。ダグは不満そうに右肩を見てから、近づいてきたフィナへ視線を移す。
「右腕、上まで上がりますか?」
「上がる」
「痛みは?」
「……少し」
「駄目です」
「お前ら最近、俺に厳しくないか」
フィナは答えず、固定具がずれていないかだけ確認した。結局ダグは管理院に残ることになり、今回の現場はオズが任されることになった。
六十一歳の導灯技師は、机に広げられた二枚の地図をしばらく見比べてから、東側の一角を指でなぞった。第九区画から第十一区画にかけて、旧図と現在図で形の違う場所がいくつもまとまっている。
「前回みたいに、一か所ずつ確認するんですか?」
「今日は少し広く見る。鳴り返しがした場所と、そのあと動いた場所を全部取る。前に見つけた傾向が、別の区画でも使えるか確かめるんだ」
調査にはルアンたち四人のほか、測量担当が二人つく。さらに別の経路には、対象区画を何度も歩いた経験のある探索者が三人組と四人組に分かれて入り、指定された外縁経路を歩いて地図との差や退避にかかる時間を確認することになっていた。
もちろん自由探索ではない。異変が起きればその場で調査を中止し、決められた集合地点へ戻る手順まで事前に決められている。
「前回、少し分かったからって安全になったわけじゃないわ。むしろ、分からないことが増えたと思って動いて」
リサが全員を見回したあと、最後にダグへ目を向ける。
「それと、勝手についていかない」
「俺に言ってるのか」
「他に誰がいるのよ」
ダグは何も言わなかった。
迷宮へ入ってからしばらくは、拍子抜けするほど静かだった。封鎖中の通路には人の声がなく、普段なら探索者や荷運びと何度もすれ違う場所でも、聞こえるのは靴底が石を踏む音と、道具が触れ合う小さな音ばかりだった。
第九区画へ入ってから、最初の鳴り返しが聞こえた。
――カン。
全員が足を止め、オズが手を上げる。測量担当が位置を記録し、旧図を確かめると、音がした場所から少し先には、現在より壁が張り出して描かれている場所があった。
しばらく待つと、石が擦れる低い音が通路へ響いた。壁がゆっくりと前へせり出し、動きが収まってから測ると、その位置は旧図とほとんど重なっていた。
「当たってるな」
「一回だ」
セインの声にも、オズは地図から目を上げなかった。
二度目は、第十区画へ入って間もなく起きた。今度は鳴り返しから少し離れた床の継ぎ目が沈み、なだらかだった通路に二段の段差が生まれた。測量担当が寸法を取ると、それも六十二年前の形と一致している。
「二回目」
「二回だ」
「さっきより増えたじゃん」
「十回当たったら喜べ」
ミレーナが小さく笑い、ルアンはもう一度二枚の地図へ目を落とした。前回までは迷宮が動いてから追いかけるしかなかったが、今は鳴り返しが聞こえた時点で、どこが変わる可能性があるのかを先に見ることができる。
迷宮が何をしているのかは、まだ分からない。それでも、起きたことだけを追い続けていた頃よりは、ほんの少し前へ出られている。
三度目の鳴り返しは、そのすぐあとだった。
――カン。
オズが顔を上げた直後、さらに奥から同じ音が返った。
――カン。
全員の視線がそちらへ向く。少し間を置いて、今度は左手の通路から三度目の音が響き、セインの手が槍へ移った。
「……今、三つ鳴ったよな」
「ああ」
オズが地図を見る。三か所は、これまでのように一つの変化として考えるには離れすぎていた。
最初に動いたのは右側の壁だった。その奥で床が沈み、さらに別の脇道では石壁の一部が横へずれ始める。一つが止まる前に次が動き、石の擦れる音が区画のあちこちから重なった。
「下がれ!」
オズの声で全員が広い場所まで退く。ルアンは動いている場所と地図を交互に見ながら、旧図の上を目で追った。
右側の壁は古い位置へ戻っている。その先で沈んだ床も旧図にあり、左で開き始めた脇道も六十二年前には存在していた。ただ、三つの場所は離れている。
もう一度、旧図を見る。
「……つながってる」
「何がだ?」
「動いてる場所。全部、この道につながってる」
ルアンが指先でなぞった先には、現在図では途中で途切れている一本の通路があった。いま動いている三か所は、それぞれ別の場所に見えて、その古い道をつなぎ直す位置に並んでいる。
オズは地図を引き寄せ、しばらく線を追った。
「……区画ごとか」
少し離れた場所で、また石が動き始めた。一点ずつばらばらに戻っているのではなく、古い道筋に沿うように、区画そのものが形を変え始めている。
「今日はここまでだ」
オズの判断は早かった。予定では第十一区画まで調べるはずだったが、その場で調査を打ち切り、測量担当も記録をまとめて集合地点へ戻ることになった。
別経路に入っている探索者二組も、鳴り返しや構造変化を確認した時点で調査を中止し、集合地点へ戻る手順になっていた。ところが予定時刻を過ぎても、三人組も四人組も姿を見せなかった。
オズは現在図を床へ広げ、その上に旧図を重ねる。三人組と四人組は反対側から別々の経路へ入っていたが、どちらの退避路も構造変化の範囲にかかっている。
現在図では通路になっている場所が、旧図では壁になっていた。その逆に、古い地図にある道が現在図では塞がれている場所もある。今の迷宮は、そのどちらでもない途中の形になっている。
「探すぞ」
オズが地図を畳んで立ち上がった。ルアンたちはそれぞれ装備を確かめ、まず三人組が入った経路へ向かった。
人のいない通路には、遠くで水が落ちる音と、時折どこかで石が擦れる音だけが響いている。ルアンはセインの少し後ろを歩きながら周囲へ耳を向けていたが、その中に、聞き慣れない小さな音が混じった。
――キン。
足が止まった。前を歩いていたセインもすぐに振り返る。
「どうした?」
「今、音がした」
「鳴り返しか?」
「違うと思う」
オズの声に答えてから、ルアンは耳を澄ませた。全員が黙ると迷宮の静けさが急に近くなり、しばらくして、さっきと同じ音が遠くから届いた。
――キン。
金属が石へ触れたような音だった。ルアンには、さっきより少し右から聞こえたように感じられた。
「あっち」
右奥の通路を指すと、セインが槍を持ち直した。
「じゃあ行こうぜ」
「聞こえた?」
「聞こえてねえ」
「じゃあ、なんで」
「お前には聞こえたんだろ」
それだけ言って、セインはルアンが示した先を見た。オズも地図を確認し、現在の通路から回り込めることを確かめる。
「行ってみる。ただし勝手に走るな」
歩き始めようとしたところで、フィナがルアンを呼び止めた。手首に指を添え、脈を確かめながら顔を見る。
「今、耳は痛くありませんか?」
「痛くないよ」
「頭は? 耳鳴りや、音が響く感じはありませんか?」
「ない」
「今、自脈に力を通しましたか?」
「通してないよ」
フィナの指が一瞬止まった。何もしていないのに、セインたちには聞こえない音を拾った。そのことを確かめるように、もう一度ルアンの脈を取る。
「じゃあ、今聞こえている範囲だけで探してください」
「今聞こえてる範囲?」
「はい。聞こえなくなっても、もっと聞こうとして力を強く通さないでください。一度そこで止めます」
「でも、まだ聞こえるかもしれないよ」
「聞こえるなら、そのままで大丈夫です。聞こえなくなったものを追いかけないでください」
今までなら、フィナはもっと早く休むよう言ったかもしれない。今日は止めるのではなく、どこまでなら使ってよいのかを先に決めようとしている。
「それと、耳や頭が平気でも、手が震える、脚に力が入りにくくなる、鼻血が出る。そのどれかがあったら教えてください」
「まだ動けても?」
「『まだ動ける』は判断に使いません」
「なんで?」
「それで何度も倒れているからです」
「……はい」
横でセインが笑う。
「学習されてんな」
「セインもだからね」
「なんで俺まで入るんだよ」
フィナは二人のやり取りには答えず、ルアンの手を離した。それから少し考えるように視線を落とし、これまでとは違うことを尋ねた。
「ルアンさん、昔から魔力が多いと言われたことはありますか?」
「うん。人より多いとは言われてた」
「どのくらいかは?」
「知らない。小さい頃に調べたことはあると思うけど、覚えてない」
フィナは小さく頷いたが、それだけで納得した様子ではなかった。ルアンが何かあるのかと尋ねると、少し迷ってから口を開く。
「まだ分かりません。でも、ルアンさんは魔力がなくなって倒れているんじゃない気がします」
「じゃあ?」
「身体の方が、先に耐えられなくなっているのかもしれません」
ルアンは自分の手を見た。以前より力を使える時間は伸びているし、前回は脚だけではなく、腰や背中、肩、腕まで意識して力を通すことができた。だから身体も少しずつ強くなっているのだと思っていた。
「でも、前より使えるようになってるよ」
「はい。だから気になるんです」
フィナは、白樹療院に魔力と身体の関係を長く研究している先生がいて、以前その人から聞いた話だと前置きした。魔力を使って動けなくなる人のすべてが、力そのものを使い果たしているとは限らないという。
「まだ力が残っていても、身体や自脈の方が先に耐えられなくなることがあるそうです。ルアンさんも、そっちなんじゃないかと思っています」
「僕の身体が弱いってこと?」
「そういう意味ではありません」
フィナは首を振った。
「魔力が増えているんじゃなくて、前から持っていたものを、身体が少しずつ通せるようになっているのかもしれません」
前から持っていたもの。
言われても、ルアンにはまだ実感がなかった。自分は人より魔力が多いらしいと昔から聞いていたが、それを自在に使えたことなどないし、その量がどの程度なのかも知らない。
フィナも、まだ自分の考えに確信があるわけではないようだった。
「もしそうなら、使えるようになったから安全になった、とは限りません。さっき決めたところまでにしてください」
「うん」
「本当に?」
「分かったよ」
今度はフィナも頷いた。少し先で待っていたオズに呼ばれ、四人は再び歩き出した。
金属音はまだ聞こえている。
――キン。
歩くうちに、さっきより近くなったように感じられた。ルアンは耳を澄ませすぎないよう気をつけながら、音の来る方向を確かめる。
「こっち」
「右じゃないのか?」
「右じゃない。もう少し左」
セインに答えてから、ルアン自身も少し不思議に思った。以前なら遠くの音を拾えても、方向まではここまではっきり分からなかったはずなのに、今は音の位置が前より狭い範囲に絞れる。
さらに進むと、その感覚は少しずつ明瞭になった。
「少し下から聞こえる」
「下?」
ミレーナが足元を見た。オズが旧図を開くと、この先は六十二年前には緩い下りになっている。
「今は平らだな」
二つ目の角を曲がったところで、また鳴り返しが響いた。
――カン。
オズが手を上げ、全員が足を止める。ルアンも音がした方向へ顔を向けたが、その時、視界の端でごく小さな動きが引っかかった。
床の継ぎ目に溜まった石の粉が、わずかに震えている。風が通っている様子はなく、その先の壁を見れば、細い亀裂がほんの少しずつ横へ伸びていた。
ルアンは目を凝らした。見間違いかと思ったが、石粉はまだ動き、亀裂の先端も止まっていない。
「そこ、動く」
「どこだ?」
「床。あの継ぎ目。その先の壁も」
オズが振り返り、セインとミレーナもルアンの指先を追った。
「何も動いてねえぞ」
「動いてるよ」
「どこが?」
「粉。あと、壁の線」
ミレーナも目を細めたが、しばらく見てから首を振った。
「……私にも分からない」
数秒後、床の奥から低い音が響いた。石粉が一斉に跳ね、継ぎ目の一部が沈む。同時にルアンが見ていた亀裂が太くなり、その壁もゆっくり横へ動き始めた。
オズは動いた床とルアンを交互に見た。
「いつから見えてた?」
「動く前」
「俺には見えなかったぞ」
「……見えたから」
答えてから、ルアン自身も少し変な返事だと思った。フィナはすぐ近くまで来たが、今度は先ほどのように長く問いかけず、力を通したか、目に痛みや眩しさがないかだけを確認した。
どちらもなかった。
「あとで詳しく聞きます」
「うん」
オズも地図を畳む。
「今は先だ。行くぞ」
壁の動きが収まるのを待ち、別の通路から回り込んだ。金属音はさらに近くなり、しばらく進むと、今度はセインも足を止めた。
――キン。
「今のは俺にも聞こえた」
「うん」
そこから少し先で、道は石壁に塞がれていた。新しく生まれた壁ではなく、もともとそこにあった石壁が通路へ張り出すように戻っており、旧図を見ると、その位置には確かに壁が描かれている。
ルアンが近づくと、金属音とは違う響きが返ってきた。
――コン。
何か硬いものが、壁の向こうから石を叩いている。少し間を置いて、今度は二度続いた。
――コン、コン。
セインが壁へ耳を寄せた。
「……いるな」
オズも近づき、向こうへ声を張る。
「聞こえるか!」
しばらくして、壁越しにかすかな声が返ってきた。
「誰か……いるのか!」
ルアンはそこで初めて、自分の肩に力が入っていたことに気づいた。息を吐いてから壁へもう一度耳を向けると、三人とも無事だという返事が途切れ途切れに聞こえてきた。
測量担当が壁の厚さと周囲の構造を調べ始める。救出経路を探すため、オズも旧図と現在図を広げ直した。
その時、さらに迷宮の奥から鳴り返しが届いた。
――カン。
少し遅れて、別の場所からもう一度響く。
――カン。
「まだ動くぞ」
オズが顔を上げた。壁の向こうでは三人組が何かを話しているが、ルアンの耳には、それとは別の小さな音が混じっていた。
さっきまで追っていたものよりずっと遠く、石の擦れる音に紛れれば聞き落としそうなほど小さい。それでも耳を向けると、迷宮の奥から硬いものが石へ触れる音が、もう一度だけ届いた。
――キン。
セインがルアンの視線を追った。
「どうした?」
「……もう一組」
「聞こえるのか?」
「たぶん。もっと奥にいる」
確信できるほど大きな音ではない。それでも、どちらから聞こえたのかだけは分かった。
目の前の壁の向こうには、ようやく一組見つかった。けれど、さらに奥にも誰かがいる。
一組見つけても、まだ終わっていない。




