第67話 湯気の向こう
翌日、ルアンは特に約束もしていなかったが、昼前になると七番倉庫へ向かった。
扉を開けると、セインが机の端に座り、両肩をゆっくり回している。ミレーナは向かいの椅子で帳面を開いていたが、仕事をしているというより、暇つぶしに眺めているだけのようだった。
「まだ痛いの?」
ルアンが聞くと、セインは顔をしかめながら今度は首を左右へ倒した。
「痛いっていうか、重い。肩も背中も全部」
「トウリさんを運んだから?」
「それもあるし、昨日はダグ引っ張っただろ。俺、ここ数日ずっと人間運んでる気がする」
「昨日、ダグを引っ張ったのはルアンもでしょ」
「俺は一番前でぶら下がってたんだよ。あれ地味にきついんだぞ」
ミレーナが帳面から顔を上げる。
「じゃあ今日は寝てれば?」
「寝てても治らねえよ」
ルアンはいつもの椅子を引いて座った。
「今日、調査ないんだよね」
「ないわよ」
「なのになんで全員ここにいるんだ?」
セインが言うと、ミレーナが眉を上げた。
「あんたもでしょ」
「俺はなんとなく来ただけだ」
「私もよ」
「僕も」
三人が顔を見合わせたところで、倉庫の扉が開いた。
「おはようございます」
フィナが入ってくる。セインがすぐにそちらを見た。
「ほら、四人になった」
「何がですか?」
「いや、休みなのに結局全員ここに来るんだなって」
「セインさんも来ていますよね」
「それ今ミレーナにも言われた」
フィナは少しだけ笑い、空いていた椅子へ座った。
しばらく四人で話していたが、特にすることはなかった。調査の予定もなければ、管理院へ顔を出す必要もない。セインはそのあいだにも何度か肩を回し、ついには両手を背中へ回そうとして顔をしかめた。
「湯に行くか」
突然そう言ったので、ミレーナが顔を上げた。
「急ね」
「こういう日は湯だろ。東通りの大きいとこ。蒸し湯もある」
「そこなら私も行ったことあるわ」
ルアンも場所は知っていた。
「僕はそこは行ったことない」
「共同浴場は?」
「あるよ。ダグさんに何回か連れていってもらった」
「じゃあ問題ねえな」
フィナが少しだけ首を傾げる。
「私はそこは初めてです」
「決まりだな」
セインが勝手にまとめる。フィナは一度ルアンを見た。
「今日は本当に休むんですよね?」
「休むよ」
「何もしませんね?」
「湯に入る」
「そういう意味ではありません」
ミレーナが小さく笑った。
昼を少し過ぎた頃、四人は七番倉庫を出て、東通りの共同浴場へ向かった。
迷宮帰りの探索者や職人が多く使う大きな浴場で、石造りの建物の中には熱い湯とぬるい湯、それに身体を冷やすための水槽まであるらしい。奥には石室を温めた蒸し湯もあり、セインはそこを目当てにしているようだった。
受付を済ませると、通路の途中で男女に分かれる。
「じゃ、あとでな」
「のぼせないでよ」
「誰に言ってんだ」
「セインに」
「即答すんな」
ルアンは笑いながら、セインと男湯の方へ入った。
湯気の向こうから水音と低い話し声が重なって聞こえる。壁際には広い洗い場が並び、その先に大きな石造りの浴槽が二つあった。
ルアンが身体を流しているあいだに、セインは先に湯へ入っていた。肩まで沈み、大きく息を吐いている。
「生き返る……」
「そんなに?」
「ああ……肩に染みるな、これ」
「セイン、今すごく年寄りみたい」
「うるせえ。まだ十七だ」
少しのあいだ、二人は黙って湯に浸かった。
仕事場でも迷宮でもない場所で、何も待つ必要がないというのは不思議だった。鳴り返しを聞き逃さないように耳を澄ませる必要もなければ、床の継ぎ目を見ている必要もない。
セインが湯から上がり、隣の浴槽へ移ろうとして立ち上がる。ルアンも続いて身体を起こしたところで、セインの視線が止まった。
「……それ、痣か?」
ルアンは反射的に左脇腹を腕で隠した。
背中へかけて広がる暗い痕は、濡れた肌の上ではいつもより色が濃く見える。赤紫と青黒い色がまだらに重なり、昔ひどく打ちつけた場所がそのまま残っているようだった。
「うん。あんまり見ないで。気持ち悪いから」
「いや、気持ち悪いっていうか……ひどいな」
「だから見なくていいって」
「昔の怪我か?」
「……そんな感じ」
それ以上、セインは聞かなかった。
しばらく湯に浸かったあと、セインに連れられて蒸し湯へ入った。石造りの小部屋は、入った瞬間から空気そのものが熱く、座っているだけで汗が止まらなくなる。
「熱い……」
「おう」
「……これ、何がいいの?」
「出たあとが気持ちいい」
「入ってるあいだは?」
「耐える」
「じゃあ今は気持ちよくないんだ」
「細けえな、お前」
二人とも壁際へ座ったまま、しばらく黙った。
セインは膝に腕を置き、汗をぬぐったあとで口を開いた。
「昨日さ」
「うん」
「俺だけだったら、たぶんダグまで届かなかったな」
「僕だけでも無理だったよ」
「お前なら力で引っ張ったんじゃねえの」
「でも僕、セインより腕短いよ」
「そこかよ」
ルアンは笑った。
「でも、セインがいたからできたよ」
「……まあな」
セインは膝に腕を置いたまま、少しだけルアンを見る。
「でも、お前も変わったよな」
「そう?」
「前だったら、ああいうとき自分が前に出ようとしてただろ」
「昨日はセインが前にいたから」
「そこだよ。俺を使っただろ」
「使った?」
「俺が前に出て、お前が後ろから支えた。あれでいいんだよ」
ルアンは少し考えた。
「でも、戦ったらセインの方が強いよ」
「今その話してねえよ」
セインが呆れたように笑う。
「強いとか弱いとかじゃなくてさ。お前一人で全部やらなくても、間に合うことはあるって話」
「……うん」
ルアンは少しだけ頷いた。
「じゃあ、次もセインを使うね」
「言い方!」
しばらくして、セインが立ち上がった。
「出るぞ」
「もう?」
「もうじゃねえ。お前、顔真っ赤だぞ」
「セインもだよ」
「俺はいいんだよ」
「なんで?」
「知らん」
女湯では、ミレーナとフィナがぬるめの湯に浸かっていた。
フィナは最初こそ浴場の広さを珍しそうに見ていたが、湯へ入ってからは妙に静かだった。視線がどこか遠くへ向いている。
ミレーナはそれを横目で見た。
「フィナ」
「はい」
「今、休みに来てるのよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……分かっています」
返事まで少し遅い。
「ルアンのこと考えてるでしょ」
「少しだけです」
「絶対少しじゃないわね」
フィナは湯の表面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「最近、ルアンさん、前より話してくれるようになりました」
「そうね」
「前は聞いても『大丈夫』で終わることが多かったです。でも今は、どこが痛いとか、どうだったとか、少しずつ言ってくれます」
「昨日はまだだいぶ怪しかったけど」
「はい」
二人とも少し笑った。
フィナは膝を抱えるようにして、少しだけ身体を沈めた。
「でも、ルアンさんがあの力をどんどん使えるようになっていくのは……少し怖いです」
「ルアンが?」
「はい」
ミレーナはすぐには答えず、続きを待った。
「あの力を自由に使えるようになったら、そのぶん『じゃあ自分がやればいい』って思うことも増える気がします」
「……ああ」
「昨日もそうでした。自分で使えるって分かったら、次はもっと使うかもしれません」
ミレーナは湯気の向こうを見るように目を細めた。
「じゃあ、フィナだけじゃ足りないわね」
「はい。たぶん、私だけでは止められません」
「セインもいるけど」
「セインさんだけでも足りないと思います」
「全然足りないわね」
フィナが少し笑った。
「ミレーナさんも止めてください」
「もちろん。三人がかりね」
「はい」
しばらくして、フィナがまだ湯から出る気配を見せないので、ミレーナが立ち上がった。
「フィナ、そろそろ上がりなさい」
「まだ大丈夫です」
「その台詞、誰かさんから聞き飽きてるのよ」
「……ルアンさんと一緒にしないでください」
「じゃあ上がる」
「はい」
フィナは素直に立ち上がった。
湯から上がって身体を拭いているとき、フィナは隣のミレーナを一度見て、それから自分の姿をちらりと見下ろした。
「……何?」
「ミレーナさん、十六歳ですよね?」
「そうよ。なんで?」
「いえ……」
ミレーナは首を傾げたが、それ以上は気にしなかった。
二人が服を着たあとも、フィナは何か考えながら髪を濡らしたままにしていた。ミレーナは自分の髪をまとめ終えると、黙ってタオルを差し出す。
「髪」
「え?」
「そのままにしてたら冷えるでしょ」
「あとで拭きます」
「あとでじゃない」
フィナは少しだけ困った顔をして、タオルを受け取った。
「……ありがとうございます」
「十四歳が世話焼く側の顔ばっかりしてないの」
「……はい」
フィナは髪を拭きながら、ふと顔を上げる。
「でもミレーナさんこそ、いつもみんなを見ていますよね」
「そう?」
「はい。ルアンさんも、セインさんも、私も」
「セインは見てないわよ」
「見てます」
「見てない」
「見てます」
フィナは少しだけ笑った。
「じゃあ、ミレーナさんは誰が見てるんですか?」
ミレーナの手が止まった。
「私は大丈夫」
「……それも、聞き飽きた言葉ですね」
「あんたまで言うようになったの?」
「はい」
今度はミレーナが笑う番だった。
*
休憩所で合流すると、セインの顔はまだ赤かった。ルアンも頬に少し熱が残っている。
ミレーナは二人を見るなり眉を寄せた。
「何その顔」
「蒸し湯」
「入りすぎたんでしょ」
「ルアンも一緒だったぞ」
「僕、セインについていっただけだよ」
「お前も最後までいたじゃねえか」
「セインが出るまで、いつ出るのか分からなかったから」
「なんで俺基準なんだよ」
「蒸し湯に連れていったのセインでしょ」
「……まあ、そうだけどよ」
「はいはい。二人とも入りすぎ」
フィナがルアンの顔を覗き込む。
「ルアンさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫。今日は何もしてないよ」
「蒸し湯に長く入るのも、やりすぎたら同じです」
「……はい」
セインが横で吹き出した。
「今日のお前、やけに素直だな」
「昨日、満場一致だったから」
「まだ効いてんのかよ」
ミレーナが笑いながら、四人分の冷やした林檎水を机へ置いた。
しばらく誰も急いで立ち上がらなかった。
迷宮の話をしなくてもいい時間というのは、思っていたより短く感じる。セインは肩が軽くなったと言って何度も回していたし、フィナはそのたびにやりすぎないよう言い、ミレーナは二人まとめて呆れていた。
ルアンは林檎水を飲みながら、そのやり取りを眺めた。
明日になれば、また迷宮へ戻るかもしれない。
けれど今日は、誰も急がなくてよかった。




