第66話 途中の形
二日後の朝、ルアンは管理院の一室で右脚を曲げ伸ばししていた。
膝を抱えるように深く曲げても痛みはない。足首にも違和感はなく、床を踏み込んだときにだけ、太腿の奥にわずかな張りが残っている。
「痛みはありませんか?」
「今はないよ」
フィナの手が止まった。
「今は?」
「昨夜はずっと熱くて、なかなか眠れなかった。でも朝には治ってたよ」
横にいたセインが、ゆっくりルアンを見る。
「……それ、今初めて言ってんのか?」
「うん。あと、朝は右脚に力が入らなかった」
「どの程度ですか?」
「階段を下りようとしたら、一段目で膝をついた」
セインが額を押さえた。
「お前、それ先に言えよ」
「でも、少し座ってたら歩けるようになったよ」
「そういう問題じゃねえ!」
「転んではないよ」
「膝ついたらほぼ転んでんだよ!」
「でも手はついてない」
「判定基準そこじゃねえよ!」
向かいで帳面を見ていたミレーナが、ゆっくり顔を上げた。
「……これはルアンが悪いわ」
ルアンは三人を見回した。
「そんなに?」
「満場一致です」
フィナは右脚をもう一度確かめてから、手を離した。
「今は動かしても問題なさそうです。でも、また熱くなったり力が抜けたりしたら、その時点で止まってください」
「分かった」
「膝をつく前にですよ」
「……うん」
そのやり取りを聞きながら、ダグは扉の脇で腕を組んでいた。
「そろそろ行くぞ。リサが待ってる」
管理院の奥にある会議室では、机の上に二枚の地図が広げられていた。
一枚は現在の迷宮図。もう一枚は六十二年前に使われていた旧図で、その上には薄い紙が重ねられ、構造の違う場所が線で拾われている。
リサは全員が揃ったのを確かめると、そのうちの一か所を指した。
「差分の洗い出しは終わってる。少なくとも、六十二年前の地図と現在図を比べて構造が違う場所は、こちらで候補を出せるわ」
セインが地図を覗き込む。
「じゃあ、次に変わりそうな場所も分かるってことか」
「正確には、戻るとしたらどこか、ね」
リサはそう言って、指先を少し動かした。
そこは東側第五区画。現在図では一本の平坦な通路になっているが、旧図では途中から七段の階段を下り、その先で少し低い通路へ続いている。
「今回見るのはここ。もし今までと同じように六十二年前の構造へ戻るなら、最終的にはこの形になるはずよ」
ダグが地図を見たまま言った。
「床か。壁が動くより厄介だな」
部屋の端にいたオズが、腕を組んだまま地図を眺めている。
「これまでに分かったのは、鳴り返しが構造変化の前に出ることがある、ってだけだ。壁以外でも同じかはまだ分からん」
「今日はそれを見るんですね」
ルアンが言うと、リサが頷いた。
「そう。それともう一つ。地図で分かるのは、戻ったあとの形だけ。そこへどう戻るかは、まだ誰も見てない」
ミレーナが二枚の地図を見比べた。
「つまり、場所を探す調査じゃないのね」
「ええ。今日は待つ調査よ」
それから一時間ほどして、七人は東側第五区画に入った。
ルアンたち四人とダグ。それに管理院の測量係が一人、記録係が一人同行している。通路の入り口から対象地点までは特に変化もなく、以前までならごく普通の迷宮路として通り過ぎていた場所だった。
床も壁も、見たところ異常はない。
測量係が旧図を確認しながら壁際へ印をつけていく。現在地と照合し、旧階段の始点と終点に相当する位置を割り出すと、そこからさらに距離を取って待機線が引かれた。
「この線より先には入るな」
ダグが言う。
「地図上じゃ階段になるのはあっちだろ?」
セインが床を指した。
「ああ。だからって、そこだけ見てりゃいいとは限らん」
「昨日までなら、そう思ってたかもな」
「昨日までならな」
ルアンは旧階段の範囲を見た。
平らな床の上に、壁の印だけが残っている。ここが七段の階段になると言われても、今の形からはまだ想像しにくかった。
しばらく、何も起きなかった。
測量係が床の高さを測り直し、記録係が数字を書き取っていく。ミレーナは壁際の細かな石粉を見ていたが、新しく崩れたものではないらしく、すぐに立ち上がった。
セインが小さく肩を回した。
「待つだけって疲れるな」
「まだ何もしてないでしょ」
「だから疲れるんだよ」
ルアンがセインを見る。
「それ、三回目だよ」
「何が?」
「肩回すの」
「数えてたのかよ」
「暇だったから」
ミレーナが呆れたように息を吐いた。
「結局、全員暇なのね」
フィナが口元だけで少し笑った。
そのときだった。
――カン。
短く澄んだ音が、石の奥から返ってきた。静かに待ち構えていたせいか、今度は誰も聞き逃さなかったらしい。ダグをはじめ、全員の視線がほとんど同時に旧階段の範囲へ集まった。
「聞いたな」
「はい」
ルアンも床を見つめたが、すぐには何も起こらなかった。十秒、二十秒と過ぎても、平らな石床はそのままだった。
やがて表面に細かな石粉が浮き、旧図で三段目にあたる場所だけが低い音を立てて沈んだ。落ちたのはわずかで、階段の始点にも終点にも変化はない。平らだった通路の途中に、そこだけ浅い窪みができていた。
測量係が待機線の手前から長い測定棒を伸ばした。
「3センチです」
記録係の筆が動く。セインは旧図と床を見比べて、眉を寄せた。
「端からじゃねえんだな」
「そうみたい」
最終的には七段の階段へ戻るはずなのに、今あるのは途中に一つだけできた段差だった。
しばらくして、二度目の鳴り返しが聞こえた。今度は先ほどより少し奥から響き、その数秒後には旧階段の終わりに近い床が沈んだ。
二つの低い場所のあいだには、元の高さの床がそのまま残っている。階段でもなければ、現在図にある平坦な通路でもなかった。
ルアンは手元の二枚を見比べた。
「今は、どっちの地図にもないですね」
「途中の形か」
ダグはそれだけ言って、もう一度床へ視線を戻した。
旧図が教えてくれるのは、戻ったあとの形だけだ。その途中で迷宮がどんな姿を取るのかは、どちらの地図にも残っていない。
測量係が測定棒を持ち替えた。
「もう少し近い位置から測れます」
「線は越えるなよ」
「はい」
男は待機線ぎりぎりまで進み、線を越えないまま測定棒を斜めに伸ばした。そこで、三度目の音が鳴った。
――カン。
さっきまでより近い。ルアンが音の方へ顔を向けたのと、ダグが声を上げたのはほとんど同時だった。
「下がれ!」
測量係が棒を引こうとした瞬間、旧階段の範囲から細い継ぎ目が伸びてきた。継ぎ目は待機線を越え、そのまま男の足元を横切る。
石床が傾き始めた。
ダグは測量係の肩を掴み、後ろへ突き飛ばした。男は待機線の外へ倒れ込み、ダグだけがその場に残った。直後、その足元の床が大きく沈んだ。
「ダグ!」
セインが駆け出す。だがその前で床が大きく下がり、ダグは数段分低くなった場所へ落ちた。さらに二人のあいだには、まだ沈みきっていない床が斜めに残っていた。右肩を壁へ強くぶつけながらも、左手をついてどうにか身体を支える。
「来るな!」
セインが足を止めた。
ダグとのあいだには、すでに大きな段差ができている。少し前まで平らだった通路は、途中だけが深く沈み、歪な階段のような形に変わっていた。
フィナが床の縁まで寄り、下のダグを覗き込んだ。
「右腕、動かせますか?」
ダグが少しだけ持ち上げようとして、すぐに顔を歪めた。
「上がらん」
「動かさないでください」
「分かった」
セインは槍を壁際へ置いた。
「俺が下りる」
「来るな。まだ床が動くかもしれん」
「でも、このままじゃ届かないだろ」
「だからって二人で落ちる気か」
セインは一度だけ下を見て、それから床へ腹ばいになった。
「……じゃあ、こっちから届かせる」
低くなった側へ腕を伸ばす。ダグも左腕を上げたが、互いの指先まではわずかに届かなかった。
「あとちょいだな」
セインがさらに身体を前へ出す。上半身のかなりの部分が縁を越えたところで、ミレーナが眉を寄せた。
「それ以上いったら、あんたも落ちるわよ」
ルアンはすぐにセインの背後へ回り、腰を低く落として腰帯を両手で掴んだ。
「押さえるよ」
「頼む」
セインがさらに身を乗り出すと、その重さが一気にルアンの腕へかかった。ルアンは両足を開いて踏ん張り、トウリのところへ走ったときと同じように、自脈へ力を通す。
脚の内側が熱を持ち、床を捉える感覚が急にはっきりした。
セインの重さに引かれても、ルアンの足は動かなかった。けれど腰から上は少しずつ前へ持っていかれ、伸ばされた腕に重さが集まっていく。
脚は強く床を捉えているのに、その力がセインを掴んでいる手まで届いていなかった。
ルアンの身体が前へ傾いたのを感じて、セインが振り返る。
「ルアン?」
「大丈夫」
そう答えながら、ルアンは身体の中にある途切れを探した。
――カン。
四度目の鳴り返しが響き、ミレーナがすぐに床へ目を走らせた。
「また鳴った」
セインも顔を戻す。
「ルアン、そのままいけるか?」
「いけるよ」
「引くなよ。俺が言うまで押さえててくれ」
「わかった」
ルアンは脚へ集めた力を、そのまま腰へ通そうとした。一度そこで詰まったが、もう一度意識を向けると、背中の内側へ熱が広がっていく。
さらに肩から腕へ力を通すと、握った腰帯の重さが少し軽くなった。実際に軽くなったのではなく、重さが腕だけにかからなくなったのだ。
「セイン、今ならもっと前に出ても大丈夫だよ」
セインは一度だけ振り返り、ルアンの姿勢を確かめると、すぐにダグへ向き直った。
「ダグ、左手をもう一回伸ばせ」
「これ以上は無理だ」
「じゃあ俺がもう少し行く」
「落ちんなよ」
「誰に言ってんだ」
セインは床の縁を支えに、さらに身体を前へ伸ばした。ルアンは腰帯を掴んだまま、その身体を後ろから支える。
一度目は指先が触れただけで滑った。
フィナは床の縁からダグの動きを見ていた。
「ダグさん、右腕は使わないでください!」
「使ってない!」
「今、使おうとしました」
「見えてんのか!」
「見てます!」
二度目で、セインの手がダグの左手首を捉えた。
「取った! まだ引くな!」
ルアンの身体へ一気に重さが加わる。脚から腰、背中、肩、腕へつないだ力を保ったまま耐えていると、石の奥で低い振動が走り、縁から細かな砂が落ちた。
「今だ。引け!」
ルアンが腰帯を引くと、セインもダグの腕を引き上げた。ダグは左足で壁を蹴り、身体を押し上げる。
「もう少し!」
ダグの上半身が縁へ近づいたところで、ミレーナが腰帯を掴んだ。ルアンがセインを、ミレーナがダグを同時に引くと、ダグはようやく縁を越え、セインの横へ転がり込んだ。
「離れろ!」
ダグが叫び、全員がすぐにその場から距離を取った。その数秒後、さっきまでセインが伏せていた場所の先が沈んだ。もし救助があと少し遅れていれば、セインが使っていた縁そのものが消えていた。
フィナは真っ先にダグのそばへ膝をついた。
「右肩、触ります」
「頼む」
「痛かったら言ってください」
「痛い」
「まだ触ってません」
セインが吹き出した。
「先に言うなよ」
「うるせえ」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
その横で、ルアンはわずかに震える指先を見た。脚だけでなく腰から背中、肩、腕まで重い疲れが残っている。トウリのところへ走ったときとは違い、今回は自分の意思で力を全身へつないだ。
フィナがダグの肩を確認しながら、こちらへ顔を向けた。
「ルアンさん」
ルアンは先に壁際へ腰を下ろした。
「座るよ」
フィナが少しだけ目を見開く。
「……まだ何も言ってません」
「言われると思ったから」
「学習したな」
セインが笑った。
フィナはダグの右肩を簡単に固定してから、ルアンの前へ移った。
「脚は?」
「少し重い」
「腕は?」
「同じくらい」
「痺れはありませんか?」
「ないよ」
フィナは脚と腕を順に確かめた。
「さっき、また力を使いましたね」
「うん」
「前と同じですか?」
「少し違う。脚に通してた力を、腰から背中、腕までつなげた」
フィナが少し考える。
「どのくらい続いていました?」
ルアンが答えるより先に、セインが口を開いた。
「二十秒以上は続いてたと思うぞ。ダグを掴む前から、引き上げるまでずっとだろ」
「そんなに?」
「俺が支えられてたんだから、お前より分かる」
ミレーナがルアンの顔を覗き込む。
「今回は脚だけじゃなかったのね」
「うん。たぶん」
「もう一回できそう?」
「試してみれば――」
言いかけてフィナを見ると、すでにこちらを見ていた。
「……今日はやめとく」
「はい、いい子ですね」
それからの調査は、待機線をさらに手前へ下げて続けられた。
鳴り返しはその後も何度か確認された。二段目より先に五段目が沈み、四段目が途中まで下がったあとで一段目が動く。戻る順序に規則らしいものは見つからなかったが、一つだけ共通していた。
鳴り返しが聞こえた場所の近くで、次の変化が起きていた。
音がしてから床が動き始めるまでの時間は、そのたびに違った。それでも、どこが次に動くのかは、以前よりずっと絞れる。
夕方前には変化が止まり、そこには旧図とほぼ同じ七段の下り階段が残った。測量係が各段を確認すると、高さも位置も記録の範囲内に収まっていた。
「最後だけ見りゃ、地図どおりか」
ダグが固定された右肩をかばいながら言う。
「でも、途中は違った」
「ああ。順番は読めん。だが、鳴った場所の近くが次に動く」
ルアンは出来上がった階段を見た。戻った形は地図で分かる。その途中でどこが動くのかも、鳴り返しを拾えれば少しだけ先に知ることができる。
管理院へ戻った頃には、外はもう薄暗くなっていた。
報告室ではリサとオズが待っていた。記録係の報告を聞き終えると、オズは机に広げた二枚の地図を見比べた。
「戻る先は旧図で読める。次に動く場所は鳴り返しで絞れる、か」
「少なくとも、今日の観測ではね」
リサは記録を確認してから頷いた。
「時間までは読めない。でも、これまでよりずっと使えるわ」
鳴り返しがあった場所から距離を取り、その周辺から人を退かせる。旧図との差分だけを見ていたこれまでとは、調査のやり方そのものが変わる。
リサは新しい指示を書き込んだ。
「差分地点の封鎖範囲は広げる。それと今後は、鳴り返しが確認された位置もすべて記録する。旧図と合わせれば、変化の前に人を退かせられる可能性があるわ」
旧図が示すのは、迷宮が戻ろうとしている先。そして鳴り返しは、その途中で次に動く場所を知らせる手がかりになる。
いつ動くのかまでは、まだ分からない。それでも、これまで起きた変化を追いかけるしかなかった調査班は、初めて迷宮の変化を先回りできるところまで来ていた。
リサは今度はルアンへ目を向けた。
「あなたの方は?」
ルアンも、今回は自分の意思で脚から腕まで力を通したと説明した。
「偶然じゃなく?」
「たぶん」
「少なくとも途中で変わったぞ」
セインが口を挟んだ。
「最初は腰ごと前に引っ張られてたのに、途中から全然動かなくなった」
「全然は言いすぎだよ」
「俺が支えられてたんだから分かる」
「そうなんだ」
「なんでお前が初めて聞くみたいな顔してんだよ」
ミレーナが笑った。
「自分のことは一番分かってないのよ」
「そうかな」
「そうよ」
フィナは三人のやり取りを聞きながら、記録用紙へ何かを書き足していた。
リサは最後にダグを見る。
「明日の現場調査は止めるわ」
「俺なら――」
「あなたの肩のためだけじゃない。今日の記録を整理する時間が必要よ」
ダグは言いかけた口を閉じた。
「全員休み。明後日以降は、今日の記録を見て決める」
セインが大きく息を吐いた。
「助かった……」
「あんた、そんなに疲れた?」
「疲れたよ。俺、こないだトウリ担いでかなり歩いてんだぞ」
「まだ言ってるの?」
「あいつ結構重かったからな。魔物十匹と戦うより疲れた」
「大げさなのよ」
「魔物は担いで帰らねえだろ」
報告室を出ても、セインは肩を回していた。ルアンもそれを見て、自分の背中を軽く伸ばす。脚だけではなく、今日は身体のあちこちに疲れが残っていた。
少し前を歩いていたセインが、ふと振り返る。
「なんかさ」
「なに?」
「お前の変化、この迷宮みたいだな」
ルアンは少し考えた。
「僕は昔からルアンだよ、セイン」
セインの足が止まった。
「いや、そういうことじゃねえ」
ミレーナが横から笑い、フィナも口元を緩める。ルアンには何がおかしいのかよく分からなかったが、三人が楽しそうなので、そのまま一緒に管理院を出た。
明日は、迷宮へ行かなくていいらしい。




