第65話 鳴り返し
「トウリ!」
呼びかけると、若い男がようやく顔を上げた。見知らぬ少年が目の前に立っていることを理解できないように、何度か目を瞬かせる。
「……誰だ?」
ルアンは答えるより先に右の壁を見た。石同士が擦れる低い音が続き、トウリが膝をついている場所へ、壁がゆっくりと迫っている。
「立てますか?」
「無理だ。足、ひねって……」
そのとき、石の奥で小さな音がした。
重く擦れ合う石の音とは違う。硬い石を遠くで軽く打ったような、短く澄んだ一音だった。
直後、右壁がわずかに動く。
「少しだけ我慢してください」
ルアンはトウリの腕を肩へ回し、身体を引いた。足へ力がかかった瞬間、トウリが息を詰めたが、そのまま二人で通路の中央へ倒れ込むように離れる。
次の瞬間、さっきまでトウリの膝があった場所へ壁がせり出した。
「……え」
青ざめたトウリが壁を見る。あと少し遅ければ、足を痛めるだけでは済まなかった。
背後から足音が近づき、最初にセインが角を抜けてきた。ルアンを見るなり口を開きかけたが、床にいるトウリへ視線を落として言葉を変える。
「無事か?」
「足を痛めてる」
「お前、今の――」
「あとで」
「……だな」
ダグたちもすぐに追いついた。フィナはトウリのそばへ膝をつき、靴の上から足首の位置を確かめながら、痛む場所と動かせる範囲を順に見ていく。
「ここは痛みますか?」
「そこは平気だ。外側が……」
「無理に動かさないでください」
数か所へ指を当てて反応を確かめたあと、フィナは立ち上がろうとしたトウリを手で止めた。
「歩かないでください。少なくとも、ここでは体重をかけない方がいいです」
さらに奥から男の声が飛んだ。
「トウリ!」
「無事なのか!」
狭まった通路の向こうに二人の男が見えた。片方は大柄で、もう一人はその横からこちらを覗き込み、戻る機会をうかがっている。
「マルク! エルド!」
トウリが声を返す。大柄な男――エルドがすぐに踏み出そうとしたが、ダグが手を上げた。
「動くな。壁がまだ動いてる」
「でもトウリが――」
「こいつはこっちで見る。まず自分たちが戻れ」
エルドは歯を食いしばったまま足を止めた。隣のマルクもトウリから目を離さなかったが、ダグの指示に従って周囲の壁を確認する。
ルアンは再び石の奥へ意識を向けた。
低い擦れる音は続いている。ただ、トウリのそばで聞いた短い音はもうしない。壁の動きも、さっきよりわずかに鈍くなっていた。
「ダグさん。今は、さっきより動いてないです」
「分かるのか?」
「音が小さくなってます」
断定できるほどの材料はない。それでも、トウリのところへ着いた直後とは明らかに違っていた。
ダグは壁を見たまま数秒待った。
「一人ずつ来い。そっちからだ」
細身の男が身体を横にし、狭い部分へ入る。壁へ肩を触れないよう慎重に進み、こちら側へ抜けたところで振り返った。
「エルド!」
エルドも続いた。身体が大きいぶん余裕は少なかったが、途中で止まることなく狭い場所を抜け切る。
戻ってきたエルドは、そのままトウリの前へしゃがんだ。
「馬鹿野郎。だから戻ろうって言っただろ」
「……ごめん」
「今はいい」
それ以上は責めず、フィナを見る。
「歩かせられるか?」
「無理です。背負ってください」
エルドが腕を伸ばしかけたところで、セインが槍を差し出した。
「これ持っててくれ。俺が背負う」
「でも」
「あんたも今の隙間抜けたばっかだろ。こいつ運ぶなら俺の方が動きやすい」
エルドは一瞬迷ったが、槍を受け取った。
セインがトウリへ背を向ける。
「乗れるか?」
「……悪い」
「謝るのは外出てからにしろ」
フィナに支えられながら、トウリがセインの背へ腕を回した。
そのときだった。
石の奥で、また短い音が鳴った。
低く続く石の音の中に、一度だけ混じる澄んだ響き。トウリのところへ着いたときに聞いたものと、ほとんど同じだった。
「待って」
ルアンの声で全員が動きを止めた。ダグがすぐに振り返る。
「どうした」
「今の音です」
「音?」
「さっき、壁が動く前にも聞こえました」
セインがトウリを背負ったまま周囲を見る。
「俺は分かんなかったぞ」
「小さかったから。でも、同じ音です」
ルアンは壁から目を離さなかった。
数秒後、石の奥で低い振動が膨らんだ。続いて右壁が動き、マルクとエルドが抜けてきた隙間が目に見えて狭くなる。
ダグの視線が壁からルアンへ戻った。
「……今の音、動く前だったな」
「はい。トウリさんのところでも、あの音のあとに動きました」
ダグは記録紙を出しかけたが、すぐに手を戻した。
「今は帰る。覚えとけ」
隊列を組み直す。
ルアンが先頭に立ち、トウリを背負ったセインが続く。その後ろをフィナ、ミレーナ、マルク、エルドの順で進み、ダグが最後尾についた。
来たときより通路は狭くなっている。
ルアンは足元と壁の位置を見ながら、同時に石の奥へ耳を向けた。擦れる音そのものはあちこちから聞こえる。大きさも距離も一定ではなく、ときどき別の方向から重なることもあった。
けれど、さっきの一音だけは違う。
低い音の中から一度だけ澄んで聞こえ、すぐに消える。
しばらく進んだところで、その音がもう一度鳴った。
ミレーナも顔を上げる。
「今の?」
「うん」
ルアンが足を止めると、ダグもすぐに声を落とした。
「全員止まれ」
誰も動かない。
数秒は何も起こらなかった。セインの背でトウリが息を整え、エルドがその後ろから前方を覗く。
やがて壁際から細かな石粉が落ちた。少し遅れて鈍い音が響き、前方の壁の一部がわずかに通路側へずれる。
セインが低く息を吐いた。
「……まただな」
ルアンは壁を見たまま頷いた。
最初はトウリのそば。次は二人が戻った直後。そして今。
三度とも、先にあの音がした。
ミレーナも同じことを考えていたらしく、動いた壁を見ながら口を開く。
「鳴ってから、動いてる」
「ああ」
ダグはそれだけ答え、変化が収まるのを待った。
石の奥で続いていた低い音も、少しずつ遠のいていった。壁の動きが止まったのを確かめてから、前を見る。
「今は止まってます」
「進むぞ」
隊列が再び動いた。
セインはトウリを揺らさないよう歩幅を狭くし、フィナはすぐ後ろから顔色と呼吸を見ている。ミレーナも床と壁を交互に確認しながら進み、後ろではマルクとエルドが余計な言葉を交わさず、その指示についてきていた。
途中でもう一度、遠くで澄んだ音がした。
今度はセインもすぐに反応した。
「これか?」
「うん」
ダグが手を上げ、全員の足を止める。
少し遅れて、背後で石が大きく擦れた。今度は直接見えなかったが、低い振動が靴底まで伝わってくる。
エルドが振り返った。
「……あれが先に鳴るのか」
「たぶん」
ルアンは答えた。
必ず鳴るのかは分からない。鳴ってから動くまでの時間も、毎回同じではなかった。
それでも、今までただ始まってから気づくしかなかった変化に、初めて順番が見えていた。
ダグがルアンを見る。
「その音、普通の擦れる音と聞き分けられるか」
「はい。違いは分かります」
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
動きが収まるのを待ち、また進む。
やがて通路の幅が戻り、最初に調査していた区画まで抜けると、全員の足取りが少しだけ緩んだ。セインが背中のトウリを揺らさないよう姿勢を直す。
「もう少しだ」
「……ほんとに、ごめん」
「だから外出てからにしろって」
マルクはその後ろで俯いたまま歩いていた。ダグは振り返らずに言う。
「話は外で聞く」
三人とも返事をしなかった。
迷宮入口まで戻ると、縄の向こうにいた管理院の職員が人数の増えた一行を見て目を見開いた。ダグが短く事情を伝えると、すぐに別の職員が呼ばれ、トウリを乗せる担架が用意される。
セインがゆっくり膝をつき、フィナとエルドが左右から支えてトウリを下ろした。フィナはそのまま担架の横へ移り、足首の状態をもう一度確かめる。
「動かさないでください。あとでちゃんと診ます」
「……はい」
トウリが小さく返事をした。
担架が運ばれていくのを見届け、ルアンもその後へついていこうとした。けれど一歩踏み出したところで、右脚に力が入りきらず、膝がわずかに揺れる。
すぐ横にいたフィナが振り返った。
「ルアンさん、座ってください」
「大丈夫だよ」
「座ってください」
「……はい」
入口脇の石台へ腰を下ろすと、フィナは戻ってきてルアンの前へしゃがんだ。脛から膝、太腿へ順に触れ、左右の張りを比べていく。
「痛みはありますか?」
「ないよ。ちょっと力が入りにくいだけ」
「それを大丈夫とは言いません」
フィナの指が太腿の外側で止まった。筋肉には強い疲労が残っているが、腫れも熱もほとんどない。
「さっき、何をしたんですか?」
ルアンは自分の脚を見る。
「石板のときみたいに、脚へ力を通した」
「脚だけに?」
「うん。たぶん」
自脈へ意識を向け、足の裏から膝、太腿へ力をつないだ。そこまでは覚えているが、どうしてあれほど速く動けたのかは、ルアン自身にもまだ説明できなかった。
フィナは少しだけ眉を寄せる。
「今日はもう、同じことはしないでください」
「でも、必要になったら――」
「そのときは先に言ってください」
「……うん」
そのやり取りを待っていたように、セインが横から口を挟んだ。
「で、お前さっき何した?」
「走った」
「それは見れば分かる」
「急いでたから」
「急いだらあんな速く走れんのかよ!」
ミレーナが腕を組み、呆れたように息を吐く。
「また始まった」
「だって気になるだろ!」
「聞いても本人が分かってないんだから仕方ないでしょ」
ルアンは二人を見た。
「脚に力を通したら、できたよ」
「できた、で済ませるなって言ってんだよ」
「じゃあ、どう言えばいい?」
「俺に聞くな!」
ミレーナがとうとう笑い、フィナも一瞬だけ口元を緩めた。ただし手はルアンの脚から離さず、最後まで左右の状態を確かめている。
管理院へ戻ったころには、トウリは治療のため別室へ運ばれていた。マルクとエルドは逃げる様子もなく、呼ばれた部屋の前で並んで待っている。
リサが姿を見せると、マルクが真っ先に頭を下げた。
「俺が言い出したんです。二人は――」
「事情は三人からそれぞれ聞くわ」
リサはそこで言葉を切り、マルクとエルドを順に見た。
「封鎖はお願いじゃないの」
声を荒らげたわけではなかった。それでもマルクは顔を上げず、エルドも何も言わない。
「処分については、事情を確認してから伝えます。トウリの話も、本人が落ち着いてから聞くわ」
二人は職員に連れられて別室へ移った。
そのあと、ルアンたち五人はリサとともに記録室へ集まった。現場で書き込まれた紙と二枚の地図が机に広げられ、ダグが位置と時刻を一つずつ整理していく。
途中からオズも呼ばれた。
六十一歳の導灯技師は、ダグの記録を黙って読み、音が確認された位置に指を置く。三か所で、計四回。その直後には、いずれも壁の変化が確認されていた。
「石が動く音とは違うんだな」
「はい」
ルアンは迷宮で聞いた響きを思い出す。
「もっと短くて、少し澄んだ音です。石の奥から返ってくるように聞こえて、それから石が動きました」
ダグが記録を指した。
「四回あった。最初の二回はルアンだけだが、三回目はミレーナ、最後はセインも聞いてる」
ミレーナが頷く。
「普通の擦れる音とは違いました。短くて、一回だけ」
「俺が聞いたのも同じだと思う」
セインも続けた。
オズはしばらく記録を見ていた。指先で三つの印を順にたどり、それから小さく息を吐く。
「石の奥から返ってくるように聞こえて、そのあと動く……か」
誰に言うでもなく呟き、記録紙の余白へ視線を落とす。
「鳴り返し、とでも呼んどくか」
リサが横から紙を見る。
「仮の名前?」
「ああ。何の音かも分からんうちから、立派な名前を付けてもしょうがない」
ダグは少しだけ笑い、新しい記録欄を作った。
構造変化の直前に確認された、短い共通音。
その横へ、オズが付けた仮の名が書き込まれる。
――鳴り返し。
ルアンはその文字を見ながら、狭い通路の奥で聞いた澄んだ音を思い出した。何が鳴らしているのかも、必ず同じように現れるのかも、まだ分からない。
けれど今度は、迷宮が動いた《《あと》》ではなく、その《《前》》に残った手がかりだった。




