第64話 一歩目
翌朝、ルアンたち五人は迷宮入口に張られた縄の前に立っていた。
ダグが管理院の職員へ許可証を渡す。確認を終えた職員が縄の一部を外すと、その向こうにはこれまで何度も歩いていた入口が、変わらない姿で口を開けていた。
「戻るまで、ここは開けるな」
「了解しました」
ダグに続いて五人が内側へ入り、背後で縄が元の位置へ戻される。
セインが振り返った。
「なんか閉じ込められた感じするな」
「縁起でもないこと言わないで」
「言っただけだろ」
「言わなくていいのよ」
ミレーナが呆れたようにセインから視線を外す横で、フィナはルアンの歩き方を一度だけ確認した。昨日の再検査では何も問題がなかったが、そのことが安心材料になっていないのはルアンにも分かっていた。
「今日は普通に歩いてるよ」
「まだ何も言ってません」
「見てたから」
「見ますよ」
フィナはそれだけ答え、携帯鞄の位置を直した。
迷宮へ入って最初の区画には、通常通り導灯が灯っていた。人の声がないぶん、靴底の音や装備が触れ合う小さな金属音まで遠くへ響く。魔物の気配も今のところなく、セインは槍を肩へ寄せたまま、いつもより少しゆっくり先頭を進んでいた。
東側第三区画までは、昨日までに変化が確認された場所を避ける経路が選ばれている。ダグは何度か現在図を確認したが、途中で足を止めることはなかった。
目的の通路へ着くと、五人の間隔が自然に詰まった。幅の広い一本道の右壁には、前日に見つかった細い縦の継ぎ目が走っている。
ルアンは六十二年前の地図を開き、壁の位置と照らし合わせる。旧図では、継ぎ目のある場所から右へ細い通路が伸び、その先で現在は使われていない別の区画へ続いていた。
「位置は同じです」
ダグが壁へ近づく。
「幅は?」
ルアンは壁際へしゃがみ、管理院から借りた測定具を当てた。
「昨日の記録より広がってます。上が4センチくらい、下は6センチ近いです」
継ぎ目は床に近いほど太い。線の下には白っぽい石粉が薄く溜まり、その一部が壁から通路側へ押し出されていた。
ミレーナが少し離れた場所へしゃがむ。
「こっちにもある」
床を指でなぞると、薄い粉の上に細い筋が残っていた。石粉が落ちたあと、壁がわずかに動いた跡らしい。
セインは周囲を見ながら槍の石突きを床へ置いた。
「今も動いてんのか?」
「たぶん」
ルアンは壁へ耳を近づけた。
石の奥から低い音が続いている。あのときほど大きくはないが、一定ではなく、少し止まってはまた遠くで擦れ合うような音が戻ってきた。
「中で音がしてる」
「どれくらいだ?」
ダグに聞かれ、ルアンは少し考えた。
「前に聞いたときより小さいです。でも、音はまだ続いてます」
ダグは壁へ手を触れず、その位置を記録紙へ書き込んだ。
調査はそこで終わらなかった。
継ぎ目から前後へ距離を取り、通路幅、床の高さ、石粉の量を順に確かめていく。ルアンが現在図と旧図を見比べ、ミレーナが壁際や床に残る細かな変化を拾い、ダグが数字と位置を記録する。そのあいだ、セインは前後の通路を見張り、フィナは五人の動きと足場の状態を確かめていた。
しばらく進んだところで、ミレーナが急に手を上げた。
「待って」
その声で全員が止まる。
ミレーナは通路の左端へ寄り、石粉のない床を見下ろした。そこには薄く泥のついた靴跡が一つ残っていた。
ダグが近づく。
「職員のものか?」
「たぶん違う」
ミレーナはその場で向きを変え、少し先の床へ視線を移した。二歩、三歩と追ったあと、別の靴跡を見つける。
「こっちは小さい。あともう一人いる」
セインの顔から、さっきまでの軽い表情が消えた。
「三人?」
「うん」
ミレーナは指先で床の跡を示した。大きさの違う三種類の靴跡が、封鎖された迷宮の奥へ続いている。どれも石粉や細かな砂の上に新しく残っており、昨日以前についた跡には見えなかった。
ダグはすぐに周囲を確認した。
「昨日ここを確認した職員は二人だ。二人とも、継ぎ目より先には進んでない」
「じゃあ何よ、これ」
ミレーナが立ち上がると、セインが足跡の先を見て舌打ちした。
「この状況で入った奴がいるのかよ」
ダグも同じ方向へ視線を向ける。
「ミレーナ、追えるか」
「追える。たぶん三人とも同じ方向」
「行くぞ。ただし調査は続ける。構造が動いてる場所へ入ったなら、足跡だけ見て進むな」
五人は隊列を組み直した。
足跡は途中で何度か薄くなったが、完全には消えなかった。壁際に残った擦れ、拾われた小石、採集用の袋から落ちたらしい細い繊維まで、ミレーナは立ち止まるたびに一つずつ拾っていく。
「採ってるわね」
壁の窪みに新しい削り跡があった。
セインが眉を寄せる。
「何しに来たか分かりやすすぎるな」
「誰もいない今なら取り放題、って考えたんでしょ」
「命は取られ放題になりそうだけどな」
「笑えないわよ、それ」
ミレーナは足跡の先へ視線を戻した。
ルアンは旧図と現在図を持ち替えながら、その横を進む。
足跡の方向は、戻り始めている古い横道そのものではなかった。三人はその手前を通り過ぎ、現在も使われている広い通路をさらに東へ進んでいる。
そのことが、ルアンには少し引っかかった。
古い横道が戻るだけなら、三人の進んだ先に直接影響はないように見える。けれど、現在図と六十二年前の地図を重ねると、その先では二つの構造が同じ場所を使っていた。
ルアンは足を止めた。
「ダグさん」
振り返ったダグに二枚の地図を並べて見せる。六十二年前の横道は途中から広がり、その部分が現在使われている通路の壁と重なっていた。
「この道が戻ったら、今の道まで出てきませんか」
「……かぶるな」
ダグが隣へしゃがむ。旧図の横道が元の幅まで戻れば、壁の中だけでは収まらない。
「三人が行った方です」
ミレーナも地図を覗き込み、すぐに足跡の先へ視線を戻した。
「まだ戻ってきた跡はない」
ダグは立ち上がった。
「セイン、先を見る。ミレーナは足跡を切らすな。フィナは中央。ルアン、地図を見ながら来い」
隊列の速度が上がった。
さっきまで観察しながら進んでいた通路を、今度は足を止めずに抜けていく。それでも誰も走らなかった。壁がどこまで動いているか分からない以上、足元と周囲を確かめずに進む方が危険だった。
やがて、ルアンの耳に低い石の音が届いた。
さっきまで背後から聞こえていたものとは違う。前方の右側から、重い石同士が断続的に押し合うような音が続いている。
「前です」
セインが速度を落とさずに聞き返す。
「また聞こえるのか?」
「うん。右の奥」
今度はダグも少し進んだところで音を拾ったらしく、顔を上げた。
通路の幅はまだ変わっていない。けれど壁際には細かな石片が増え、床へ落ちた粉が靴底の下で乾いた音を立てるようになっていた。
ミレーナが足跡を指す。
「三人ともまだ先」
その直後、前方で金属が床へ落ち、一度跳ねてから転がる音がした。全員が足を止め、セインが槍を構える。
「人か?」
ルアンは耳を澄ませた。
金属音のあとに、短い声が聞こえた。何を言ったのかまでは分からないが、一人ではない。少なくとも二つの声が重なり、その直後に石が低く擦れた。
「いる。近いです」
ダグがすぐに歩を進める。
次の角を曲がったところで、通路の形が変わっていた。
左側の壁はそのままだったが、右側が内側へせり出し始めている。まだ人が通れないほどではないものの、奥へ行くほど幅が狭くなり、途中から先は一人ずつしか抜けられない。
ルアンは旧図へ目を落とした。横道が広がっている場所と、目の前で狭まり始めた通路がほとんど重なっている。
「こっちが戻ってる分、今の道が押されてます」
ダグは壁と地図を見比べた。
そして三人の足跡は、その狭まり始めた通路の奥へ続いている。
「急ぐぞ」
ダグの声が低くなる。
セインが先に狭い部分へ入り、壁との間隔を見ながら身体を横へ向けた。通れる。だが、数分後も同じ幅が残っている保証はなかった。
ルアンが続こうとしたところで、フィナが後ろから声をかけた。
「脚、大丈夫ですか?」
「うん」
「変だと思ったら言ってください」
「分かってる」
ルアンはそう答え、狭い通路へ入った。
石の擦れる音が近い。
進むほど右肩と壁の距離が縮まり、セインは何度か身体を横にした。ミレーナも壁へ触れないよう荷物を胸側へ寄せ、足跡を見失わないまま続いている。
やがて前方から男の声が届いた。
「――こっちだ!」
「待て、トウリ! 動くな!」
ルアンたちが足を止めた直後、さらに奥で石が大きく擦れた。セインが角の先を覗く。
「見えねえ。まだ曲がってる」
ミレーナは足元の痕跡を追った。
「二人はこのまま先。もう一人だけ、途中から足跡がずれてる」
ルアンも地図へ目を落とした。
この先で現在の通路はもう一度右へ曲がる。旧図では、その曲がり角の外側まで古い空間が食い込んでいた。
さっきより大きな音が響き、天井近くから細かな石粉が落ちた。セインが前へ出ようとしたが、ダグが肩を掴む。
「待て。壁を見ろ」
狭くなった通路の奥では、右壁がさらに数センチ内側へ出ていた。今ならセインでも抜けられるが、その先でさらに狭まれば戻れなくなる。
ルアンは角の向こうへ意識を向けた。
「トウリ! こっち来い!」
「無理だ、足が――」
若い声が途切れる。
その向こうで、また石が擦れた。
さっきより近い。
トウリは動けない。それでも壁は止まっていない。このまま全員で狭い通路を進んでいたら、壁の方が先にトウリへ届く。
ルアンは地図を畳んだ。身体の中には、石板を支えたときの感覚がまだ残っている。
あのとき、足の裏から脚へ流れた力。腕だけでは押し返せなかった重さが、脚、腰、背中へ力をつないだ瞬間に動いた。
今回は持ち上げる必要はない。先に、あそこまで行けばいい。
ルアンは一度息を吐き、足の裏へ意識を落とした。最初は何も変わらなかったが、あのときの流れを思い出し、床を踏む力を脚の中で止めず、そのまま上へ通すように意識する。
足首の奥がわずかに熱を持ち、その感覚が膝から太腿へつながった。
自脈に力が通った。
「ルアンさん?」
背後からフィナの声が届く。
「僕、先に行く」
ルアンが前を見たまま答えた瞬間、ダグの声が飛んだ。
「待て」
その声とほとんど同時に床を蹴ると、一歩目で思っていたよりずっと先へ身体が出た。足が床を捉えるたび、次に置く場所までが急に近くなり、視界の中を流れる壁の速度だけが変わっていく。
二歩目を踏んでも、身体はまだついてきた。ルアンは狭い通路の中央を外さないよう壁との距離を見ながら進み、三歩目で曲がり角へ身体を傾ける。靴底が石を強く噛み、背後でセインが何か叫んだ。
角を抜けた先では、通路がさらに狭くなっていた。その途中で、若い男が床へ片膝をつき、片足を押さえている。右手の壁はゆっくりと内側へ動き、男のすぐ横まで迫っていた。
ルアンは速度を落としながら、その姿を見た。
トウリはまだ、ルアンが来たことに気づいていなかった。




