第63話 一人欠けていたら
翌日の午後、ルアンは白樹療院の診察台に腰掛け、フィナに右腕を取られていた。
指を曲げ、手首を返し、肘を伸ばす。肩まで順に動きを確かめたあと、フィナは今度は両手でルアンの手首を支え、軽く抵抗をかけた。
「押してみてください」
「これくらい?」
「もう少し強くても大丈夫です」
「うん」
言われた通りに力を入れると、フィナの腕が少し押し戻された。痛みはない。石板を支えていた直後には重かった肩も、今朝にはほとんど気にならなくなっていた。
フィナは手を離し、今度はルアンの脚を確認する。膝を曲げても、足首を動かしても、昨日のような重さは残っていなかった。
「痛いところは?」
「ないよ」
「脚も?」
「うん。もう普通だと思う」
フィナはそこで返事をせず、ルアンの膝へ置いていた手を下ろした。
「……昨日より普通です」
「治ってるならいいんじゃない?」
「普通なら、そうなんですけど」
フィナは小さく息をつき、診察台の横に置いた記録紙へ何かを書き込んだ。石板を支えた腕にも肩にも、それに見合うような傷みはなく、昨日まで残っていた脚の重さも一晩でほとんど消えている。耳にも痛みや違和感はなく、遠くの音が聞こえること以外に変わったところはなかった。
ルアンは自分の手を開いてから、もう一度握った。
昨日、石板の下で自脈へ力を通したときの感覚は覚えている。けれど今、それを同じように再現しようとしても、身体のどこから始めればいいのかはっきりしなかった。
「もう一回やってみた方がいい?」
「やらなくていいです」
返事が早かった。
「でも、確かめた方が」
「確かめるために石板を持ち上げる人はいません」
「石板じゃなくてもいいよ」
「そういう問題でもありません」
フィナは記録紙を畳み、ルアンを見た。いつもの静かな顔だったが、その目だけはまだ納得していない。
「少なくとも今日は、普通にしていてください」
「うん」
ルアンが頷いたところで、診察室の扉が二度叩かれた。
療院の職員が顔を出し、フィナへ一枚の紙を渡す。そこには管理院の印が押されていた。
フィナは目を通してから、ルアンを見る。
「私たち四人、呼ばれてます」
「今から?」
「はい」
ルアンは診察台から降りた。
「じゃあ行こう」
「その前に、上着を着てください」
「あ」
椅子の背に掛けたままだった上着を取り、袖へ腕を通す。フィナはその様子を最後まで確認してから、自分の荷物を持った。
管理院へ向かう途中、迷宮入口の前を通った。
いつもなら探索者や荷運びの人間が行き交う広場に、人影はほとんどない。入口へ続く道には立入禁止を示す縄が張られ、その手前に管理院の職員が二人立っていた。大きな掲示板には、昨夜から迷宮全域への立ち入りを停止する旨が書かれている。
救助後、まだ内部にいた探索者にはすぐ帰還命令が出され、入場記録との照合が終わるまで封鎖は続けられた。夜半には全員の帰還が確認され、その後は管理院の許可なしに迷宮へ入ること自体が禁じられている。
ルアンは静かな入口を横目に見ながら歩いた。
昨日まで何度も通った場所なのに、人がいないだけで別の場所のように見える。
管理院の玄関前では、セインとミレーナが待っていた。
「遅いぞ」
「フィナに診てもらってた」
「また?」
「またです」
フィナが答えると、セインはルアンの腕を見る。
「で、どうなんだよ」
「普通だよ」
「それ、今のお前が言うと一番信用できねえな」
「なんで?」
ミレーナが小さく息を吐いた。
「昨日石板持ち上げた人が、翌日に『普通』って言ってるからでしょ」
「でも痛くないよ」
「そこなのよ」
ルアンが二人を見る横で、フィナは何も言わなかった。ただ、先ほど畳んだ記録紙を鞄の奥へ入れ直してから、管理院の扉へ向かった。
案内されたのは二階の会議室だった。
扉を開けると、長机の上に何枚もの地図と記録紙が広げられていた。現在の迷宮図、六十二年前の旧図、昨日十人が通った経路、その途中で確認された壁や床の変化。紙の端には書き込みが重なり、窓際には冷えた茶の入ったカップがいくつも残っている。
リサは机の奥に立っていた。髪はいつも通りまとめられていたが、机の上に置かれた記録の量を見るだけで、昨夜ほとんど休んでいないことはルアンにも分かった。
ダグもいた。昨日迷宮へ入ったときと同じ上着を着ており、椅子へ腰を下ろしたまま腕を組んでいる。
セインが顔を見るなり言った。
「ダグさん、寝てないだろ」
「少しは寝た」
「どれくらい?」
「その質問に答える必要があるか?」
「ないけど、たぶん寝てねえな」
ダグは答えず、机の上の地図へ視線を戻した。
四人が席につくと、リサは現在図の上へ六十二年前の図面を重ねた。薄い紙越しに二つの構造が重なり、昨日変化した区画のいくつかが、旧図の通路や壁とほぼ同じ位置に収まっている。
「昨夜、これまでの記録を全部見直したわ」
寸法が変わっていた場所、古い修復跡、現在は壁になっている場所に残された導灯の痕跡、そして昨日実際に動いた通路。それまで別々に記録されていたものを重ねると、位置も形も一つの方向へ揃っていた。
リサの指が、二枚の地図をゆっくりなぞる。
「迷宮は無秩序に崩れているんじゃない。六十二年前の構造へ戻っている」
その言葉に、誰も驚かなかった。
ここまでの記録と昨日の現場を見れば、別の結論を出す方が難しい。管理院も今後は、それを仮説ではなく、実際に進行している現象として扱うことになった。
ただ、地図を重ねても空白のまま残る部分は多かった。
どこから変化が始まるのか。どの順番で戻るのか。一度変わった場所がそのまま安定するのか、それとも再び動くことがあるのか。石の音や寸法のずれは、どれほど前から現れるのか。そして、なぜ今になって戻り始めたのか。
リサは旧図を机へ戻した。
「分からないのは、ここから先よ」
室内の空気が少し変わった。
「迷宮が危険なのは今に始まったことじゃないわ。探索者だって、それを承知で入ってる」
リサは現在図の上へ指を置いた。
「でも今は、地図にある道が帰る時にも残っているとは限らない。導灯の位置も、通れる場所も途中で変わる。どこが危険なのかを、管理院でも区切って示せない状態なの」
昨日は実際に、入った時には使えた経路が帰る頃には別の形へ変わっていた。一度変化した場所が安全になるとも限らず、その先が無事でも、そこへ向かう途中の通路が動けば帰路そのものが失われる。
ミレーナが二枚の地図を見比べた。
「だから全面封鎖?」
「ええ。危険だから全部閉じるんじゃない。今は、通常通り探索できる場所と、そうでない場所を分けられないからよ」
リサの指が、現在図の入口から奥へ向かってゆっくり動く。
「少なくとも、どこまで変化が及ぶのか、何を前兆として見ればいいのか。それが分かるまでは通常の入場には戻せない」
迷宮へ入れなければ、探索者も採集業者も仕事が止まる。そこから素材を仕入れている店や工房にも影響は出る。それでも、管理院自身が危険区域を示せないまま、これまでと同じように人を入れることはできなかった。
管理院が必要としているのは、迷宮が変わったあとに記録する人間だけではない。変化の途中へ入り、そこで何が起きているのかを確認する人間だった。
リサは机の端に置いていた一枚の書類を四人の前へ出した。
「今日付で、迷宮構造異変特別調査班を臨時編成することになったわ」
セインが書類を見る。
「特別調査班?」
「迷宮内で進んでいる構造変化を記録して、規則と前兆を探す。そのための現場班よ。私が全体を預かる。現場はダグに任せる」
ダグは腕を組んだまま動かなかった。
リサは四人へ視線を移す。
「必要なのは、構造を見られる人間、痕跡を追える人間、危険に対処できる人間、負傷時に判断できる人間。昨日の動きを見れば、あなたたち四人が候補になる」
「違う」
ダグが言った。
リサがそちらを見る。
「何が?」
ダグは椅子の背から身体を起こし、四人を順に見た。
「専門が違うだけじゃない。あいつらの仕事はつながってる」
昨日、ルアンが古い地図から道を拾い、ミレーナが残された痕跡から進む方向を絞った。セインが前を塞ぐ危険を排除し、フィナが負傷者を動かせる状態に保った。帰路でも、そのどれか一つだけで十人が戻れたわけではない。
ダグはそこで一度言葉を切った。
「一人欠けていたら、全員は帰せなかった」
会議室が静かになった。
ルアンは机の向こうにいる三人を見る。セインは少しだけ視線を逸らし、ミレーナは腕を組んだまま地図を見ていた。フィナは膝の上で両手を重ね、ダグの言葉を黙って聞いている。
昨日は、目の前のことを一つずつやっただけだった。
道を探し、進める場所を選び、負傷者を運び、全員で戻った。ルアン自身は、その途中で自分たち四人が一つの仕事をしているとは考えていなかった。けれど、言われてみれば誰か一人の判断だけで進んだ場所はほとんどなかった。
リサはダグを見てから、四人へ視線を戻した。
「そういうことらしいわ」
セインが鼻の頭を指で擦った。
「なんか急に大げさになったな」
「昨日のこと考えたら、大げさでもないでしょ」
ミレーナはそう言って、ルアンを見る。
「特に、石板持ち上げた人」
「僕?」
「他に誰がいるのよ」
セインが吹き出すと、ダグが机を指で一度叩いた。
「話を戻すぞ」
三人が口を閉じたところで、リサは書類を四人の方へ押した。
「臨時編成だから、強制ではないわ。セインとミレーナには管理院から正式に依頼する。フィナについては療院側にも協力を要請済み。危険区域に入る以上、通常の仕事とは別に手当も出る」
「危険手当?」
ミレーナがすぐに反応した。
「出るわ」
「それなら、私はやる」
「そこ即決なのかよ」
セインが呆れたように言うと、ミレーナは肩をすくめた。
「仕事なんだから当然でしょ。あんたは?」
「俺もやるよ。昨日みたいなのがまた起きるなら、放っとけねえし」
フィナは小さく笑ったあと、書類へ目を落とした。
「私も参加します。変化中の場所へ入るなら、誰かが状態を判断できた方がいいと思います」
リサが頷き、最後にルアンを見る。
「あなたは?」
ルアンは机いっぱいに広がった地図を見た。昨日は、誰かが帰れなくなってから道を探した。けれど、変化を先に見つけられれば、その前に止められるかもしれない。
「僕もやります」
そこで終わらせず、ルアンは続けた。
「まだ分からないことは多いです。でも、変わる場所を先に見つけられるなら、誰かが帰れなくなる前に動けると思うから」
セインが横からルアンを見たが、何も言わなかった。
リサは四人を見渡して、短く頷いた。
「なら決まりね」
臨時の特別調査班は、リサが後方で情報をまとめ、ダグが現場を指揮する。四人は固定の現場要員となり、必要に応じて管理院の技師や記録員が加わることになった。
最初に追うのは、変化が起きる前に現れる兆候と、一つの構造が戻ったときに周囲へ及ぶ影響だった。
リサは机に広げていた地図を一枚入れ替えた。東側第三区画の現在図では、幅の広い一本の通路が長く続いている。けれど六十二年前の地図には、その途中から横へ分かれる細い道が描かれていた。
「今朝、封鎖区域の確認に入った職員が、ここで新しい継ぎ目を見つけた」
リサの指が現在図の壁を示した。昨日までは何もなかった壁面に細い線が走っており、職員はそれ以上近づかず、位置だけを記録して戻っている。
ルアンは六十二年前の地図へ視線を移した。継ぎ目が現れた場所は、古い横道の入口とほとんど同じ位置にある。
「この道……」
「ええ。明日の朝、ここを調べる」
ルアンは二枚の地図を見比べた。昨日まで壁だった場所で、また一つ、古い構造が現れ始めている。




