第62話 帰す道
十人の隊列が再び動き始めて間もなく、来た道がそのまま残っていないことが分かった。先頭を行くセインの少し後ろで、ルアンは六十二年前の地図と前方を交互に見る。帰路を示すために置いた仮設の導灯は二つまで確認できたが、その先にあるはずの灯りは、壁の向こうへ隠れていた。
担架はダグと動ける探索者の一人が持ち、フィナが負傷者の横につく。ミレーナは最後尾から全員の位置を見ながら、壁際へ寄りすぎる者がいれば声をかけていた。
ルアンの脚には、まだ長く走ったあとのような重さが残っていた。歩くことに支障はないが、石板を支えていたときの感覚は完全に消え、もう一度同じことをしろと言われてもできる気はしなかった。
フィナが隣からルアンの歩き方を確かめる。
「脚、まだ重いですか?」
「少し。でも普通に歩けるよ」
「力が抜ける感じがしたら、すぐ止まってください」
「うん」
フィナはルアンの足元をもう一度見てから、前へ視線を戻した。ルアンも歩調を崩さず、そのまま隊列に合わせて進んだ。
来るときに直線だった通路は、壁が内側へ寄ったことで緩く曲がっていた。見えなくなった仮設灯も消えたわけではなく、曲がった壁の先へ進むと、石の陰から弱い光が現れる。
「一つありました」
ルアンが示すと、ダグは灯りと壁の位置を確かめた。
「道そのものは残ってるな」
「はい。ただ、来たときより狭くなってます」
担架が通れる幅はまだある。それでも壁との余裕は小さく、運ぶ二人は歩幅を合わせながら慎重に進んだ。
最初の曲がり角では、担架を水平にしたまま向きを変えられなかった。内側の壁が前へ出たことで、角に三角形の狭い空間ができている。
ダグが担架を止めると、フィナは負傷者の身体と壁までの距離を見た。
「右側は下げないでください。身体を捻らず、この高さのまま少しずつ向きを変えます」
セインが先へ回り、担架の前側を受け取る。ミレーナは探索者たちの荷物をいったん壁際へ寄せ、通路の中央を空けた。
ルアンは携帯灯を低く掲げ、角の内側を見る。
「セイン、そのまま少し前。そこに石が出てる」
「これか」
「うん。もう少し左なら当たらない」
セインが足の位置を変え、ダグと呼吸を合わせる。担架は壁との間をゆっくり回り、負傷者の脚をぶつけることなく角を抜けた。
フィナがすぐに顔色を確かめる。
「痛み、強くなってませんか?」
「大丈夫だ」
「少しでも変わったら言ってください」
男が頷くのを見てから、隊列はまた動き出した。しばらく進むと通路は二つに分かれ、ルアンは分岐の手前で足を止めた。
六十二年前の地図では、どちらの道も最終的に入口側の区画へつながっている。左は距離が短いが、現在の図面では途中から壁と重なっていた。右は大きく回り込む形になるものの、現在の帰還路へ近い位置を通っている。
ダグが左右を見る。
「どう見る?」
ルアンは地図へ視線を落としたまま、すぐには答えなかった。
何か聞こえた。
遠くで硬いものがぶつかるような、小さな音だった。一度途切れ、少し間を置いてまた響く。その奥には、石が擦れる低い音とは違う、かすかな声のようなものも混じっている。
ルアンは顔を上げた。
「右から音がします」
セインが右の通路を見る。
「音?」
全員が足を止めた。
「金属みたいな音です。人の声もする」
ダグも耳を澄ませたが、表情は変わらない。ミレーナも右側へ顔を向け、しばらく待ったあとでルアンを見る。
「私は何も聞こえない」
「俺も」
セインが言った。
ルアンはもう一度耳を澄ませた。音は遠い。それでも確かに右から届いている。一定の間隔で金属が鳴り、そのたびに人の声らしい響きが重なっていた。
入口側から入った捜索班が、どこかでこちらを探しているのかもしれない。
左側からは別の音がしていた。低く、長く、石同士が擦れ合う音が途切れず続いている。
ルアンは地図を畳んだ。
「右へ行きます」
「左の方が近いぞ」
ダグが言う。
「左はまだ動いてます。右から人の声がするなら、入口側とつながってる可能性が高いです」
ダグは左の通路を一度見てから、すぐに頷いた。
「右だ。行くぞ」
セインが先へ入り、十人の隊列が続く。
右の道は古い地図よりも狭く、何度か身体を横へ向けなければ通れない場所があった。それでも担架が完全に止まるほどではなく、セインとダグが前後から角度を変え、フィナが負傷者の姿勢を確かめながら進んでいく。
ルアンには、さっきの音が少しずつ近づいてくるのが分かった。
金属の音。
人の声。
今度は言葉までは拾えないものの、一人ではない。複数の声が短く重なり、また遠ざかる。
何度目かの曲がり角を抜けたところで、前を歩いていたセインが急に足を止めた。
「……待て」
ルアンも止まる。
セインは槍を持ったまま、右耳を前へ向けるように首を傾けた。
「聞こえた」
今度はミレーナも少し遅れて顔を上げた。
遠くで、金属が二度鳴った。
「人もいるな」
セインは数秒その音を聞いたあと、ゆっくりルアンを見る。
「待て。お前、さっきの分岐でこれ聞こえてたのか?」
「うん」
「俺、今やっと聞こえたぞ」
「そうみたいだね」
「そうみたいだね、じゃねえよ。どんだけ耳いいんだよ」
ルアンは少し考えた。
「……そういえば、最近ちょっと聞こえやすいかも」
「最近?」
「うん。前にも、みんなが気づく前に音が聞こえたことがあった」
「それ、今まで言ってなかったよな?」
「気にしてなかったから」
「気にしろよ!」
セインの声が少し大きくなり、ミレーナが眉を寄せた。
「さっき石板持ち上げたばっかりで、今度は耳?」
「石板とは関係ないと思う」
「そこを言ってるんじゃないの!」
ルアンが首を傾げる横で、フィナだけは笑わなかった。
「耳が痛くなったりしてませんか?」
「してないよ」
「頭が重いとか、音が大きく聞こえすぎることは?」
「ない。前より遠くの音が分かるだけだと思う」
「それが気になるんです」
フィナはそれ以上何も言わなかった。ただ、石板を持ち上げたあとの腕に異常がなかったことと、今の聞こえ方を頭の中で並べているように、しばらくルアンを見ていた。
ルアンはもう一度前方へ意識を向ける。
言われてみれば、少し前にも似たことがあった。あのときは、自分がたまたま先に気づいただけだと思っていた。今はセインにも聞こえなかった音が、自分には分岐へ着いた時点からはっきり届いている。
耳が良くなった。
そう考えると、最近感じていた小さな違いにも説明がつく気がした。ただ、それが石板を持ち上げた力と関係しているのかどうかは、ルアンにも分からない。
「ルアン」
セインに呼ばれ、顔を上げる。
「なんか分かったら、今度は言えよ」
「うん。何か聞こえたら?」
「いや、音だけじゃねえよ。お前自身のことだよ」
「僕?」
「聞こえ方でも身体でも、何か変だと思ったら言えってこと」
「分かったよ」
セインはまだ何か言いたそうだったが、ダグが前を示したため、槍を握り直した。
進むほど、金属音と人の声は近くなった。
一方で、背後から聞こえていた石の音も消えてはいない。古い道は今も変化を続けており、来たときには余裕のあった通路の一部が、帰りには人ひとり半ほどの幅まで狭くなっていた。
さらに先では、床の高さにも小さなずれができていた。
段差そのものは大きくないが、担架を持ったまま下ろせば負傷者の身体へ衝撃が伝わる。セインが先に下へ降り、ダグと探索者が持つ担架の前側を受け取った。
「フィナ、これでいい?」
「もう少し右です。そのままゆっくりお願いします」
セインは言われた通りに位置を変え、担架を自分の肩より少し低いところまで下げる。後ろ側を持つ二人も歩幅を合わせ、一段ずつ慎重に降りた。
最後尾のミレーナは、前へ進む人数を一人ずつ目で追った。
「八、九……十。全員いる」
誰に聞かせるでもなく言ってから、自分も段差を下りる。その直後、背後で石が低く擦れたが、全員が振り向いたわけではなかった。先頭のセインは前を見たまま槍を構え、ダグも担架を止めずに歩調だけを少し上げる。
「間を空けるな。担架は揺らすな」
隊列が詰まった。走ればもっと速いが、担架を揺らせば負傷者の状態が悪くなり、狭い通路で誰かが転べば、その後ろまで動けなくなる。
ルアンは前方の導灯を見ながら歩幅だけを少し広げた。その先で、通路はさらに狭くなっていた。
今度は壁が片側からゆっくりせり出し、通路の中央が斜めに削られたような形になっている。担架はそのままでは壁へ当たるため、セインが前側を持ち上げ、後ろをダグと探索者が少し下げた。
フィナが負傷者の肩へ手を添える。
「このままです。右へ傾けすぎないでください」
ミレーナは先に荷物を受け取り、狭い部分の向こうへ送った。ルアンも壁際へ寄り、担架の角が当たりそうな場所を携帯灯で照らす。
「もう少し上です。そこを越えれば広がります」
「見えてる」
セインが短く答え、担架の前側を狭い部分から抜いた。そのまま後ろ側も続き、全体がようやく向こう側へ収まる。
全員が通り終えた直後、せり出していた壁がまたわずかに動き、さっきまで担架が通った隙間がさらに細くなった。
ミレーナが後ろを見る。
「戻れないわね」
「戻る必要ないよ。前へ行けば、人がいる」
ルアンが答えると、セインがこちらを見た。
「それ、お前にしかまだ聞こえてない?」
「さっきより近いから、もう少ししたら聞こえると思う」
「その言い方がもうおかしいんだって」
それでもセインは笑わなかった。
前方から、今度は全員にも分かる声が届いた。
「――誰かいるか!」
管理院の職員の声だった。
「いる! 十人だ! 負傷者が一人いる!」
ダグがすぐに返すと、向こう側から複数の返事が重なった。それまで途切れ途切れだった金属音も近づき、通路の先には別の灯りが見え始める。入口側から入った捜索班が、地図と合わなくなった通路を迂回しながら、ここまで来ていたらしい。
セインは槍を少し下げたが、誰も足は止めなかった。
合流地点まではまだ距離があり、その間にも壁の奥では石が動き続けている。ルアンは見えてきた灯りと古い地図を照らし合わせ、現在の道が入口側へどうつながっているのかを確かめた。
最後の分岐では、左側の道が途中で狭まり、右側だけが捜索班の灯りへ続いていた。
ダグがルアンを見る。
「右でいいな」
「はい。こっちです」
ルアンの返事を合図に、十人は右へ進んだ。やがて向こうから三人の捜索員が現れ、担架を見るとすぐに道を空ける。そのうち一人が先へ戻り、管理院側へ合図を送った。
「出口まであと少しです」
「分かった」
ダグが答えた。
助け出された探索者たちの顔にも、ようやく力が戻り始めていた。それでも隊列は崩さず、セインが前、ミレーナが後ろ、フィナが担架の横についたまま進む。
ルアンも地図はしまわなかった。最後まで道が同じ形で残っている保証はないが、今は前方から届く声も足音も、もう耳を澄ませなくても分かるほど近い。
出口側の固定された導灯が見えたとき、セインが初めて大きく息を吐いた。
管理院へ続く通路には職員が待っており、担架が見えるとすぐに受け入れの準備が始まった。フィナは負傷者の横についたまま、最後まで状態を確かめながら進む。
ダグが最後に境界を越えると、そこにはリサが待っていた。
「全員?」
「全員だ。負傷者一人。ほかは歩ける」
リサは十人を一度見渡し、すぐに職員たちへ指示を出した。
「負傷者を先に。ほかの四人も全員状態を確認して。調査班はそのあとでいいわ」
セインがようやく槍を下ろした。その横でミレーナは、戻ってきた探索者を一人ずつ目で追う。救助された五人、セイン、フィナ、ダグ、ルアン、そして自分。
「十人」
小さく言ってから、もう一度だけ数えた。
全員いる。
フィナは負傷者を乗せた担架と一緒に治療区画へ向かった。ルアンはその背中を見送りながら、手にしていた六十二年前の地図をようやく畳んだ。




