第61話 帰れない道
石板は、すぐには動かなかった。
両手に返ってくるのは、冷たく硬い石の重みだけだった。それでも足の裏から脚へ、腰へ、背中へとつながった自脈の流れは途切れず、肩を抜けて腕の先まで満ちている。ルアンは石板そのものを持ち上げようとせず、床との隙間をほんの少し広げることだけを考えた。
人ひとりが抜けられればいい。
膝を深く曲げ、足の裏で床を押す。脚へ流した力を腰で逃がさず、背中から両肩へ送り込むと、手袋越しの石にそれまでとは違う感触が返ってきた。
石板の縁から、細かな石粉が落ちた。
ルアンは息を止めず、そのまま力をつないだ。両腕だけなら押し返されていたはずの重さが、今は脚から腰、背中へと分かれている。その感覚を崩さず、さらに押し込むと、石板の下で石が床を擦る低い音が走った。
下端がわずかに浮いた。
「は!? 待て待て、嘘だろ! 上がってるぞ!」
セインの叫びがほとんど同時に通路へ響いた。
石板は確かに動いている。さっきまで指先しか入らなかった床との隙間が数cm広がり、縁から細かな石粉が落ちた。ミレーナはすぐ横で息を呑み、ダグは石板からルアンの足元へ視線を落とす。向こう側ではフィナも探索者たちも声を失い、ただ広がっていく隙間を見ていた。
「そのまま! そのまま頼む!」
セインの声と同時に、ダグが取り残された探索者の肩へ手を掛けた。だが広がった隙間はもう狭まり始め、石板の重さが再びルアンの両手へ戻ってくる。ルアンは顔を上げる余裕もなく、足の裏から腰、背中、肩へつながる流れを切らさないよう、その重さを押し返した。
ここで腕だけに頼れば負ける。身体のどこか一つでも流れが途切れれば、ようやく作った隙間はすぐに消える。ルアンは沈みかける石板の下端を見ながら、脚からもう一度力を押し上げた。
「今だ! 行け!」
ダグの声に、取り残されていた探索者がすぐ床へ伏せた。石板の下へ片腕を差し込み、片肩を先に入れて身体を横向きにねじる。そのまま向こう側へ腕を伸ばすと、セインが手首を掴んだ。
「床を蹴れ! こっちで引く」
男が床を蹴った瞬間、石板がわずかに沈んだ。ルアンの肩と背中へ一気に重さが戻り、踏ん張っていた膝も深く沈む。
ミレーナがとっさに一歩踏み出した。だが触れれば体勢を崩すと気づき、伸ばしかけた手を止める。
「ルアン!」
「まだ大丈夫!」
返事と同時に、ルアンは散りかけた流れを足の裏から集め直した。腰、背中、肩へとつなぎ直し、もう一度脚から力を押し上げると、沈みかけていた石板が止まる。
セインは一瞬目を見開いたが、すぐに探索者の手首を引き直した。
「そのまま来い!」
男の肩が抜け、胸、腰と続いて隙間を滑る。最後に脚が抜けた瞬間、セインと二人の探索者が一気に身体を引き寄せ、そのまま石板から離した。
「抜けた!」
「ルアン、離せ!」
ダグの声が飛んだ。
ルアンは両腕の力を抜いた。つながっていた感覚がほどけるのとほとんど同時に、石板が重い音を立てて床へ戻り、足元から鈍い振動が広がった。
ただ、石板は元とまったく同じ位置には戻らなかった。床へ落ちた際にわずかに横へずれ、壁との接点側に、身体を横にすれば一人ずつ抜けられそうな細い幅が残っている。
舞い上がった石粉がゆっくりと落ちていく。
ルアンはその場で片膝をついた。腕に痛みはないが、指先から肩まで細かな震えが残り、脚にも長く走ったあとのような重さがある。さっきまで全身を一本につないでいた感覚はもう薄く、同じことをすぐにもう一度できる気はしなかった。
向こう側からセインが石板を覗き込み、その厚みを確かめるように顔を動かした。それからルアンを見る。
「……お前、今あれ持ち上げたよな?」
「少しだけ」
「少しとかじゃねえだろ!」
いつもの大きな声が戻った。
ルアンが石板を見ると、床との隙間はもうほとんど残っていない。さっき自分が動かしたものと同じ石なのか確かめたくなるほど、今はびくともしそうになかった。
「ちょっとだけだよ」
「ちょっとだけでも無理なんだよ、普通は!」
セインの後ろで、救助された探索者の一人が黙って頷いた。最後に抜けた男も石板を見たあと、ルアンへ視線を戻す。助かったことへの安堵より、今見たものをまだ飲み込めていない顔だった。
ミレーナも、ようやく息を吐いた。
「前からそんな力あった?」
「ないと思う」
「思うって何よ」
「やったことなかったから分からないよ」
ミレーナは何か言いかけたが、口を閉じた。今の答えをどこから直せばいいのか分からない顔をしている。
その横で、ダグが石板の端へしゃがみ込んだ。
床との隙間に指を掛けられる場所を探し、体勢を変えて一度力を入れる。肩と背中に力が入ったのがルアンからも分かったが、石板は音ひとつ立てなかった。
ダグは手を離し、石粉を払って立ち上がった。
「俺じゃ動かん」
ルアンは石板とダグの手を見比べた。
「さっきとは角度が違うのかもしれません」
「同じ場所だ」
「でも――」
「ルアン」
ダグの声が低くなり、ルアンは口を閉じた。
「今のがどういう力なのかは、あとで調べる。だが普通じゃないことだけは覚えとけ」
ルアンにはまだ、何がどれほど普通ではないのかまでは分からなかった。ただ、ダグが冗談で言っていないことは表情を見れば分かる。
返事をする前に、石板の脇にできた細い隙間の向こうからフィナが声をかけた。
「ルアンさん、手を見せてください」
フィナは身体を横にして隙間を抜け、ルアンたちの側へ来た。すぐにルアンの手袋を外させ、手から腕、肩まで順に状態を確かめていく。
「痛いところはありますか?」
「ないよ」
「痺れは?」
「ない」
「腕に力は入りますか?」
「入るよ」
フィナはルアンの右手を取った。
「握ってください」
言われた通りに握ると、フィナは少しだけ眉を寄せた。
「もう少し強く」
「痛くない?」
「私は大丈夫です」
ルアンが力を増すと、フィナはすぐに手を開かせた。そのまま手首へ指を当て、脈を確かめる。普段より長く黙っているのが気になり、ルアンはフィナの顔を見た。
「そんなに気になる?」
「今すぐ怪我をしている感じはありません」
フィナはそう答えたが、表情は緩まなかった。
「でも、あんな無茶はもうしないでください」
「また必要になったら?」
「今はしないでください」
「でも誰かが――」
「ルアンさん」
いつもより少しだけ強い声だった。
フィナは手首から指を離さず、ルアンを見上げている。怒っているというより、本気で心配している顔だと分かり、ルアンは言葉を続けるのをやめた。
「うん、しないよ」
横でミレーナが息を吐いた。
「フィナの言うことは素直に聞くのね」
「ミレーナのも聞いてるよ」
「聞いてたら私、こんなに何回も言ってないわよ」
「そうかな」
「そうなの!」
向こう側でセインが笑いかけたが、ミレーナが先に睨んだため、何も言わず口を閉じた。それでも顔には「おっかさん」と書いてあり、ルアンにも何を言おうとしたのか何となく分かった。
救助された探索者の一人が、そのやり取りを見て小さく笑う。張りつめていた空気がわずかに緩んだところで、ダグが前方へ視線を戻した。
「話はあとだ。ここはまだ迷宮の中だぞ」
全員の注意が通路へ戻った。フィナもルアンの手と腕をもう一度確かめると、石板脇の隙間を抜けて担架のある側へ戻る。
石板を越えただけで、出口へ着いたわけではない。負傷者はまだ担架の上におり、古い道の奥からは今も石が擦れる音が続いている。来る途中に置いた仮設の導灯も、構造が変わればいつまで同じ場所に残っているか分からなかった。
ダグが人数を確かめる。
「セイン、そっちは?」
「俺、フィナ、救助した四人で六人」
「こっちは俺、ルアン、ミレーナと一人。四人だ」
十人全員いる。
石板の脇にできた幅は、自力で動ける者なら身体を横にして一人ずつ抜けられる。だが担架を通せるほどの広さはなく、負傷者を動かすなら、全員が担架のある側へ移るしかなかった。
「先にルアンとミレーナを通す。残ってる一人も続け。俺は最後だ」
ダグが言うと、ルアンは石板脇の隙間を見た。
「僕が最後でも大丈夫です」
「駄目だ」
「なんで?」
「今のお前を一人にする気はない」
即答され、ルアンは少し考えた。
「石板はもう持ち上げないよ」
「そういう問題じゃない」
ミレーナがすぐ横で頷く。
「ほら」
「何が?」
「ダグも同じこと言ってるでしょ」
「うん。でも何が同じなの?」
「もういい!」
セインの笑い声が向こう側から聞こえた。
ルアンが先に身体を横にし、石板と壁の間を抜ける。反対側へ出ると、セインが待ち構えていたように顔を近づけてきた。
「なあ、本当にどうやった?」
「持ち上げただけだよ」
「だから、それであれが動く理由を聞いてんだよ」
「……理由? 思いっきり力を入れたら、持ち上がったよ」
「それは理由になってねえぞ」
後ろから抜けてきたミレーナが、服についた石粉を払いながら口を挟む。
「聞くだけ無駄よ。本人が一番分かってないから」
「なにを?」
セインが吹き出した。
ルアンは何がおかしいのか分からず、セインとミレーナを見る。その隣ではフィナが担架へ戻り、負傷者の固定をもう一度確認していた。
「でも、戦ったらセインの方が強いよ」
思ったまま言うと、セインの笑いが止まった。
「今その話してねえよ」
「力の話じゃないの?」
「もういい。ミレーナの気持ち分かった」
「でしょ?」
二人が珍しく同時に頷いた。
続いて残っていた探索者が隙間を抜け、ダグが最後にこちら側へ移った。これで十人全員が、負傷者と担架のある側へ揃った。
フィナが負傷者の状態を確認する間に、ミレーナは荷物と人数を見直し、セインは前方の暗がりへ槍を向ける。ルアンも古い地図を開き、来たときに置いた仮設灯の位置を追った。
一つ目は見えた。二つ目もある。
だが、その先に置いたはずの灯りが見えない。
ルアンは地図から顔を上げ、通路の形を確かめた。来るときには直線だった壁がわずかに内側へ寄り、先の見通しが狭くなっている。さらに奥では、石同士が低く擦れ合う音が長く続いていた。
「道、また変わってます」
ダグが同じ方向を見る。
「分かるか?」
「仮設灯が一つ見えません。壁の位置も来たときと違います」
セインが槍を握り直し、ミレーナも最後尾へ回る。フィナは担架の横につき、ルアンは古い地図を畳んだ。
石板を動かした力が何だったのかは、まだ分からない。それを確かめるのは、十人全員が迷宮の外へ出てからでいい。
ダグが前方へ向き直った。
「行くぞ。まず、全員で帰る」




