第60話 迷宮は壊れていない
翌朝、ルアンが管理院へ着くと、ダグはすでに古い保全記録を何冊か机へ運んでいた。昨日閉鎖した帰還経路の図面も広げられ、壁が狭くなった位置には赤い印が付いている。
「最近、来るの早いな」
「そうですか?」
「前よりな。ちゃんと寝てるのか」
「寝てます。少し早く起きてるだけです」
ダグはそれ以上訊かず、一冊をルアンの方へ押した。
「ならいい。こっち見ろ」
ルアンは椅子へ座り、まだ少し冷たい指を一度握った。ダグの前には現在の図面と六十二年前の地図が並び、これまで変化を確認した場所にいくつか印が付けられている。
昨日、帰還経路が探索者の目の前で狭くなったことで、見るべきものははっきりしていた。六十二年前とほぼ同じ形に戻った窪み、消えた張り出し、現在の壁に残る三十一年前の補修跡、古い導灯の固定穴、開き始めた脇道。そして、幅を失い始めた現在の帰還経路。
少し遅れて、ミレーナ、セイン、フィナも管理院へやってきた。リサとオズも机を囲み、これまで集めてきた記録を一つずつ地図へ重ねていく。
「今日は潜らないの?」
「今のところはね」
リサが答えると、セインは槍を壁際へ立てかけた。
「じゃあ、これ重かっただけじゃん」
「持ってきたの自分でしょ」
「何かあったら必要だろ」
「だったら文句言わないの」
ミレーナに返され、セインは黙って椅子を引いた。フィナもその隣へ座り、ルアンは少し笑ってから地図へ視線を戻した。
印を置いていくほど、共通する位置がはっきりしていった。形が戻った窪みも、開き始めた脇道も、六十二年前の経路と重なるか、そのすぐ近くにある。昨日狭くなった帰還路の脇にも、今は存在しない古い道が通っていた。
リサが二枚の地図を重ねた。
「全部、古い経路の上か、その近くね」
「戻る場所で、今の構造が変わってる」
ダグが昨日の帰還路を指すと、フィナも地図を見たまま小さく頷いた。
「同じ動きです」
ルアンは並んだ印を順に追った。
最初の窪みを見つけたときは、自分の測り間違いを疑った。次に張り出しが消え、古い導灯の跡が見つかり、存在しないはずの脇道が開き始めた。それでも昨日までは、一つひとつの変化を確かめることに追われていた。
今は違う。ルアンは六十二年前の地図へ視線を移した。
「もう偶然じゃないです。今の迷宮は、昔の構造に沿って形を変えてます」
「ええ。変化は無作為じゃない。古い経路に沿って、同じ傾向で起きてる」
リサが頷く横で、セインは二枚の地図を見比べ、古い道を指でなぞった。
「じゃあ、俺たちが“異変”って呼んでただけか。迷宮はずっと、同じように動いてる」
ルアンはもう一度地図を見た。
「うん。昔の構造に沿って、今の迷宮そのものが形を変えてるんだ」
なぜ六十二年前の構造なのか。なぜ今、この変化が始まったのか。その先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも、一つひとつの出来事はもう、ルアンの目にはばらばらには見えなかった。指先で古い経路をなぞると、これまで別々に追っていた場所が、その線の上へ次々と重なっていく。
ばらばらだった変化が、一本の筋でつながった。
廊下を走る足音が近づいてきたのは、その直後だった。複数の声が重なり、扉が開く。管理院の職員が息を切らしながら入ってきた。
「リサさん! 帰還予定を大幅に過ぎてる組があります!」
「何人?」
「五人です! 中層の第三区画に入った組で、予定から三時間以上経ってます」
ダグが椅子から立ち上がった。
「最後に確認された場所は?」
「ここです」
職員が現在の図面を指すと、ルアンの視線がその位置で止まった。昨日、優先して確認する場所として印を付けた区画の一つだった。現在の帰還路のすぐ近くを、六十二年前の古い経路が通っている。
「捜索は?」
「入口側から入ってます。ただ、途中から地図と合わないそうです。五人が使うはずだった帰還路が、途中でなくなってます」
セインが壁際の槍へ手を伸ばした。ミレーナも椅子から立ち、フィナは持ってきていた治療道具の留め具を確かめる。
ルアンは現在の図面から六十二年前の地図へ視線を移した。今の道が形を変えた場所では、古い構造が戻っている。五人が最後に確認された区画からこちら側へ、現在は存在しない経路が一本伸びていた。
「ここです」
ルアンは古い道を指した。
「今の帰還路が消えたなら、この道が戻ってるはずです」
ダグは地図を覗き込み、すぐに顔を上げた。
「現地で確かめるぞ」
リサは現在の図面を引き寄せ、職員へ向き直った。
「先に入った捜索班へ連絡して。この区画にはこれ以上入れないで。地上側の連絡と、ほかの探索者の足止めは私がやる」
それからルアンたちを見る。
「ダグ、現場は任せる。ルアンは古い地図と導灯。ミレーナ、セイン、フィナもお願い。五人を見つけたら、全員連れて帰って」
「分かった」
「了解」
「はい」
返事が重なる間にも、ダグは必要な道具を選び、ルアンは六十二年前の地図を畳んだ。フィナは治療道具を肩へ掛け、セインは槍を手に取り、ミレーナも装備を確かめる。
数分後、ルアン、ミレーナ、セイン、フィナ、ダグの五人は管理院を出た。
ついさっきまで、六十二年前の地図は迷宮の変化を読み解くためのものだった。
今は、五人を連れ戻すために使う。
迷宮へ入り、問題の区画まで進むと、図面では続いているはずの帰還路が、現地では途中で途切れていた。
本来ならそのまま奥へ伸びているはずの通路を、滑らかな壁が塞いでいる。崩れた石も破片もなく、初めからそこにあったような面だった。
ルアンは六十二年前の地図を開き、現在の位置と重ねた。
「古い道は、もう少し右です」
壁沿いに進むと、現在の図面にはない細い入口が見つかった。まだ形を変えている途中なのか、縁には明るい石粉が残っている。それでも人が通れる幅はあり、その先には暗い通路が続いていた。
セインが奥を覗く。
「……本当にあったな」
「うん」
ルアンはそれだけ答えた。
これまで古い地図は、迷宮がどう変わったのかを知るために見てきた。今はその一本の線が、取り残された五人へ向かう道になっている。
五人は一列になって古い通路へ入った。
長く使われていなかったはずの道には、新しい痕跡が残っていた。床に落ちた石粉の上を何人かが踏み、壁の低い位置にも最近付いた擦れ跡が続いている。
途中で通路は二つに分かれた。
どちらも六十二年前の地図には載っている。一方は現在の帰還路が消えた区画へ近づき、もう一方は大きく奥へ回り込んでいた。
ルアンは古い地図と周囲を見比べたが、五人がどちらへ進んだかまでは分からない。ダグも床へ目を落としたものの、石の上に靴跡は残っていなかった。
その横で、ミレーナがしゃがみ込む。
「ちょっと待って」
壁際に落ちていた黒い小さな欠片を拾い、指先で裏返した。
「これ、回収袋の留め具に使うやつ」
「分かるの?」
「安いのによく使うから。欠けやすいんだよね」
ミレーナは右側の通路を数歩進み、壁の低い位置を見た。角に新しい擦り傷があり、その先には細い布糸が引っかかっている。
反対側も一度だけ確かめてから、ミレーナは立ち上がった。
「こっち。五人とも通ってると思う」
「分かるのか」
ダグが訊く。
「荷物を壁に擦ってる。こっちは新しい跡が続いてるけど、向こうにはない」
ダグはそれ以上確かめず、ミレーナが示した通路へ向き直った。
もし両方の道を一つずつ調べていれば、それだけ時間を失う。迷宮の形が今も変わり続けているなら、その時間がどれだけ残されているかは分からなかった。
進むにつれて道幅は狭くなり、やがて奥から低い唸り声が聞こえてきた。
セインが片手を上げる。
全員の足が止まった。
暗がりに三匹の赤爪猿がいる。そのさらに奥から、石に反響して人の声がかすかに届いた。
セインは槍を構えた。
「俺が開ける。ミレーナ、右見てて」
「分かってる」
最初の一匹が壁を蹴って飛び出すと、セインは正面から受けず、半歩だけ身体を外して槍の柄を当てた。勢いを壁際へ流し、そのまま穂先を返して二匹目の進路まで塞ぐ。
「右!」
ミレーナの声と同時に、三匹目が死角から回り込んだ。
セインは振り向かずに槍を返した。石床を踏む音と短い鳴き声が重なり、回り込もうとした三匹目も足を止める。
ルアンは携帯灯を高く掲げ、セインの背後と壁際から影を消した。光が奥まで届くと、さらに先に人影が見える。
「いる。奥に人がいる」
「じゃあ、さっさと終わらせる」
セインが踏み込んだ。
戦いは長引かなかった。狭い通路では三匹が同時に動けず、セインは一匹ずつ前へ出てくる位置をずらしながら仕留めていく。最後の一匹が動かなくなると、フィナはすぐに治療道具を抱えて奥へ向かった。
壁際には五人の探索者がいた。一人は壁にもたれて座り込み、その隣ではもう一人が横になっている。残る三人も疲労は濃いが、自力で動くことはできそうだった。
「治癒術師です。怪我を見せてください」
フィナは横になっている男のそばへ膝をついた。
「脚だけだ。歩ける」
男が身体を起こそうとすると、フィナは肩へ手を添えた。
「動かないでください」
脚の状態を確認したあと、腹部と背中にも手を当てていく。脇腹へ触れたところで男の呼吸が浅くなり、その変化を見たフィナはもう一度同じ場所を確かめた。
「ここも痛みますね」
「少しな。でも帰るくらいなら――」
「歩かせません」
声は穏やかだったが、迷いはなかった。
「治癒術は使えます。でも今、脚だけ動くようにして歩かせる方が危険です。固定して運びます」
男は何か言おうとしたが、フィナの顔を見てやめた。
ミレーナとダグが携帯用の担架を組み立て、フィナが負傷した脚を固定する。その間にルアンは来た道へ仮設の導灯を置き、分岐で帰る方向を間違えないよう、一つずつ灯りの向きを整えていった。
五人を見つけただけでは、救助にならない。
全員で帰らなければならない。
帰路は来たときより遅くなった。担架はダグと動ける探索者の一人が持ち、セインが前を取る。ミレーナは最後尾から人数と周囲を見て、フィナは負傷者の横を離れない。ルアンは仮設灯と古い地図を確かめながら進んだ。
最初の分岐を越えた頃から、壁の奥で石が擦れる音が続き始めた。来るときには聞こえなかった音で、足元にも細かな振動が伝わってくる。
ダグが歩調を変えずに言った。
「急ぐぞ。ただし走るな」
誰も返事をしなかった。
担架を揺らさず、それでも速度は落とさない。ルアンも前方の灯りと足元を交互に見ながら歩いた。
二つ目の分岐へ近づいたところで、先頭のセインが止まった。
「ルアン」
呼ばれて前へ出ると、通路の形が変わっていた。
壁の上部から押し出されたような大きな石板が斜めにせり出し、床との間に狭い隙間だけが残っている。来たときにはなかったものだった。
ミレーナが幅を見た。
「担架のままじゃ無理ね」
ダグは古い地図を開き、別経路を探すようルアンへ視線を向けた。だが六十二年前の地図にも、ここを迂回できる道はない。戻れば先ほどの分岐から別の経路へ回ることはできるが、出口まで大きく遠回りになる。
その間にも、石板の縁から細かな石粉が落ちていた。
フィナが担架の男を見る。
「長く動かすのは避けたいです」
ルアンは隙間を覗いた。
人ひとりなら、身体を低くすれば抜けられる。負傷者も担架から一度移し、反対側で受け取れば通せそうだった。
「一人ずつ通しましょう」
動ける探索者から先に隙間を抜け、向こう側へ回ったセインが一人ずつ受け取る。負傷者はフィナが身体を支えながら慎重に担架から下ろし、ダグとミレーナが隙間の手前まで運んだ。
「脚、動かします」
「お願いします」
フィナが声をかけるたび、男は短く頷いた。狭い隙間を抜ける間も患部を捻らないよう支え、向こう側ではセインと探索者二人が身体を受け止める。通り終えると、フィナも続いて反対側へ移り、その場で再び脚を固定した。
最後に残った探索者が通れば、こちら側に残るのはルアン、ミレーナ、ダグだけになる。
男が身体を低くし、石板の下へ肩を入れた。
そのとき、壁の奥で鈍い音がした。
石板が沈む。
「戻って!」
ルアンとミレーナの声が重なった。
男は腕で床を押し、手前へ転がるように戻った。石板が下がったのはわずか数cmだったが、それまで肩を通せていた隙間は、もう頭を入れるのも難しいほど狭くなっている。
向こう側からセインの声が届いた。
「大丈夫か!」
「こっちは平気!」
ミレーナが答えながら、取り残された探索者の腕を引いて立たせた。
ダグは石板の縁と壁の接点を見て、すぐに来た方向へ視線を戻した。
「別の道へ戻る」
だがその言葉とほとんど同時に、背後から石の擦れる音が響いた。先ほどより近い。古い道そのものが、今も形を変え続けている。
取り残された探索者が後ろを見た。
「戻れますか」
ダグは答えず、地図を開いた。
戻った先の分岐から出口までは遠い。その道が今も同じ形で残っている保証もなかった。
ルアンはもう一度、目の前の石板を見た。
下端と床の間には、指先が入る程度の隙間がある。あと少し上がれば、人が通れる。
「何する気だ」
ダグの声が低くなった。
「少し持ち上げられれば、通れます」
「無理だ。重さが違う」
ルアンにも分かっていた。
持ち上げられると思ったわけではない。それでも別の道を探している間にここが完全に塞がれば、三人だけではなく、こちら側に残った探索者も帰れなくなる。反対側には、長く移動させられない負傷者もいる。
ルアンは石板の端へ近づき、両手を下へ入れた。
「ちょっと! ルアン、本気?」
「うん」
「うん、じゃないでしょ!」
いつもなら、そのあとにも何か続いたはずだった。けれどミレーナは石板とルアンの顔を見比べると、それ以上は言わなかった。
ダグも止めようとはしなかった。ただルアンの両手が置かれた位置を確かめ、取り残された探索者を少し後ろへ下がらせる。
ルアンは膝を曲げた。石は冷たく、買ったばかりの厚い手袋越しでも、その硬さと細かな凹凸が指先にはっきり分かる。
足の裏へ意識を落とした。
朝も、夜も、誰にも言わず続けてきた。脚へ流して止める。腕へ流して戻す。指先まで届かせようとして、途中で散ったものをもう一度集める。
いつもの鍛錬と同じように、脚へ力を流した。そこから腰へ意識をつなぐと、いつもなら細くなるはずの流れが、そのまま背中へ昇り、肩を抜けて両腕へ広がっていく。
ルアンは一度だけ息を吸った。そこで止まるはずだった流れは、今度は止まらなかった。
自脈を通った力が、足の裏から脚へ、腰へ、背中へ、肩へと巡り、両腕の先まで一つにつながっていく。ルアンは両手に力を込めた。
そして、石板を押した。




