第59話 道の途中
冬支度の買い物から二日後、ルアンはミレーナ、セイン、フィナとともに管理院へ来ていた。三人を呼んだのはリサで、前回の調査でそれぞれ違うものを見つけたことから、今回は管理院から正式に調査協力を頼みたいという。
机の上には現在の図面が広げられ、その横に六十二年前の地図も置かれていた。リサが指したのは、ここ数日変化が続いている区画の近くを通る一本の経路だった。
「今日は三人にも一緒に来てほしいの。前回、四人で見たから気づけたことがあったでしょ」
「つまり、また同じ四人で見た方がいいってことですか」
「そういうこと」
ミレーナが頷くと、リサは少しだけ笑った。
「今回は調査協力として報酬も出るわ」
「それ、先に言ってください」
「そこ大事なんだな」
「大事でしょ」
セインに返したミレーナの声だけが、少し強くなった。
今回見るのは、探索者が迷宮の奥から戻るときによく使う帰還経路だった。異変そのものはまだそこまで達していないが、近くでは壁の形が変わり続けている。もし同じことが現在使われている通路で起これば、壁の形だけでなく、人の動きにも影響が出る。
「今までは、変わった場所を調べてきた」
ダグが図面を畳みながら言った。
「今日は、人が使ってる道を見る。壁ばっかり見て足元を忘れるなよ」
「僕に言ってます?」
「主にお前だ」
セインが笑い、ミレーナも口元を緩めた。
六人が迷宮へ入ってしばらくした頃、ルアンは歩きながらわずかに顔を上げた。通路の奥で、石の表面を引っかくような音がした気がする。以前なら気にも留めなかったほど小さな音だったが、最近はこうした遠くの音が妙にはっきり耳に残ることがあった。
ルアンが足を止めかけた直後、前を歩いていたセインも立ち止まり、槍を持ち直した。
「いる」
やがて短い鳴き声が響き、二匹の赤爪猿が暗がりから姿を見せた。
一匹が壁を蹴って飛び込むと、セインは槍の柄で軌道を外し、そのまま穂先を返してもう一匹の進路を塞いだ。ミレーナが右側へ回る個体を知らせ、ルアンも携帯灯を持ち上げて死角を消す。狭い通路で長引かせる相手ではなく、二匹が床へ倒れるまでにそれほど時間はかからなかった。
「この辺にいるの、珍しくない?」
ミレーナが倒れた魔物を見ながら言った。
「もう少し奥で見ることが多いな」
セインは槍の先を確かめてから戻した。縄張りを外れて移動してきただけかもしれず、今の段階では異変との関係までは分からない。ルアンは場所だけを図面へ記しておいた。
フィナがセインの腕を見た。
「怪我はありませんか」
「ないよ」
「ほんと?」
「なんでミレーナまで疑うんだよ」
「前に平気って言って傷あったでしょ」
「いつの話だよ」
ダグが少し先から振り返った。
「元気なら歩け」
目的の通路には、一定の間隔で導灯が並んでいた。床には何人もの靴が通った跡が重なり、壁の低い位置には荷物を擦った傷もある。異変を調べるための場所ではなく、毎日誰かが通っている道だった。
ルアンは導灯の位置を確認しながら進んだ。灯りは奥から戻ってくる者が迷わないよう、次の通路と分岐を順に示している。図面どおりなら、この先もしばらく一本道が続くはずだった。
「こっち、少し新しいね」
ミレーナが壁際で足を止めた。
石の表面に、周囲より色の明るい擦れ跡が続いている。床際にも細かな石粉が落ちていたが、探索者の荷物でも付く程度の跡で、それだけでは壁が変化しているとは言えなかった。
ダグも一度しゃがんで確かめた。
「これだけじゃ何とも言えんな」
「でも、この辺に固まってます」
「覚えとけ。それでいい」
フィナが先へ灯りを向けたとき、通路の奥から人の声が聞こえた。
戻ってきたのは三人の探索者だった。先頭の男が保全部の腕章に気づいて歩みを緩め、その後ろでは、一人が回収物を載せた大きな木枠を背負い、壁に肩を寄せるようにして進んでいる。
「ちょうどよかった。ここの道、何かやったか?」
男の言葉に、ダグが眉を寄せた。
「何もしてない。どうした」
「入ったときより狭くなってる気がするんだよ。帰りに荷物が引っかかってさ」
最後尾の男が、背負った木枠を少し持ち上げてみせた。片側には新しい擦り傷が走り、白い石粉が付いている。
ルアンたちは三人と一緒に来た道を戻った。二つ目の導灯を越え、通路が緩く曲がるところまで来ると、壁の間隔が図面で見ていた印象より明らかに狭い。朝の記録と照らすまでもなく、大きな荷物を背負ったまま通るには窮屈な幅になっていた。
「行きは普通に通れたんだよ」
探索者の男が壁を見た。
「荷物も背負ったまま?」
「ああ。肩も当たらなかった」
リサは現在の図面を開き、位置を確かめた。ルアンも導灯から壁までの距離を見比べる。細かな数字を取るまでもなく、少なくとも朝の記録どおりではないことは分かった。
背負い枠を担いだ男が荷物を下ろした。
「先にこれだけ向こうへ出すか」
セインが枠を受け取り、狭くなった場所の先へ運ぶ。男は身体を横にして抜けようとしたが、肩が壁の間へ入ったところで、奥から低い音が響いた。
石の表面を、重いものがゆっくり擦るような音だった。
ミレーナが壁を見るのと、ルアンが足を止めたのはほとんど同時だった。細かな石粉が肩の高さから落ち、男のすぐ横で壁面の一部がわずかにせり出してくる。
「下がって!」
セインが男の腕をつかみ、身体ごと手前へ引いた。
次の瞬間、さっきまで男の肩があった場所へ石の縁が寄り、床に残っていた背負い枠の端を挟み込んだ。枠の金具が低く軋み、木が押される音が通路に残った。
ダグはすぐに周囲を見渡した。
「全員、壁から離れろ。ここで止まるな」
探索者たちを広い場所まで下がらせると、フィナが腕を引かれた男の肩と肘を確かめた。痛みはあるものの動きに問題はなく、傷もない。ほんの数秒遅ければ、挟まれていたのは荷物ではなく人だった。
「危なかったな」
セインが挟まれた枠を見た。
男も一度だけ頷き、さっきまで自分がいた隙間へ視線を戻した。
ルアンはその先にある導灯を見た。壁の形が変わっても、灯りそのものは何も変わらず、今までどおり奥の通路を示している。さらに狭くなれば人は通れなくなるのに、迷宮の奥から戻ってくる者には、その手前まで異変を知る方法がない。
「このまま、この道を使うのは危ないですね」
ダグが頷いた。
「分岐の手前で切り替える。仮設灯を出せ」
ルアンは道具袋を開いた。現在の導灯を撤去するのではなく、手前の分岐に仮設灯を置いて別の帰還経路へ誘導する。ミレーナとセインは奥から戻る探索者を止める位置を確認し、フィナは先ほどの三人を出口側へ送り出した。
作業の途中にも、奥から別の一組が戻ってきた。セインが事情を伝えると、探索者たちは狭くなった通路を見てから素直に迂回路へ向かった。ここが日常的に使われている道だということが、その短いやり取りだけでも分かった。
二つ目の仮設灯を固定し、ルアンは少し離れて向きを確認した。新しい灯りは分岐から別の通路へ続き、元の帰還経路へ入らなくても出口側へ戻れるようになっている。
「これなら間違えないと思います」
「ああ。ただ、このまま同じ形でいるとは思うな」
ダグは狭くなった壁を見たまま答えた。
一時閉鎖の手配を終え、六人が管理院へ戻ると、リサは今日の場所を現在の図面へ書き込んだ。その横に六十二年前の地図を並べると、狭くなった通路のすぐ近くを、現在は存在しない古い経路が通っている。
これまで変化が確認された場所も重ねていく。六十二年前の形に戻った窪み、張り出しが消えた通路、少しずつ開き始めた脇道。そして今日、幅を失い始めた現在の帰還経路。
ダグが二枚の地図をしばらく見比べた。
「……もう偶然で片づけるのは無理だな」
リサも否定しなかった。
「ええ。昔の道が戻ろうとしている場所で、今ある構造の方が変わってる」
ミレーナが今日閉鎖した通路を見る。
「じゃあ、昔の道が戻る代わりに、今の道がなくなるってこと?」
今度はリサもすぐには否定しなかった。
「少なくとも、今日見たものはそう考えるのが一番自然ね」
セインが椅子へ寄り、現在の図面を覗き込んだ。
「それ、かなりまずくないか」
ルアンも同じ場所を見ていた。今日の通路には別の帰還経路があったから、仮設灯で探索者を迂回させることができた。だが、迷宮のすべての場所に代わりの道があるわけではない。
フィナが静かに言った。
「次に同じことが起きた場所に、まだ人がいたら帰れなくなるかもしれません」
部屋の空気が変わった。
ダグは現在の図面を引き寄せ、地上へ戻る経路を一本ずつ目で追った。
「帰還経路を全部洗い出す。古い道と重なる場所を優先だ」
「利用してる組も確認するわ」
リサが別の記録を取り出す。
ルアンは六十二年前の地図へ視線を戻した。昔の道は、もう戻り始めている。問題は、その途中を、今も探索者たちの帰還経路が通っていることだった。
次に壁が動いたとき、誰かが帰れなくなる。




