【外伝:第1話】鉄鍋亭の夜
冬支度の買い物を終えて店を出た頃には、通りの明かりが一つずつ灯り始めていた。昼間より冷えた風が建物の間を抜け、ルアンは今日買ったばかりの手袋をはめた手を一度握る。
隣を歩いていたセインが、唐突に言った。
「腹減った」
「さっき串焼き食べてたじゃない」
「あれは買い食い」
「食事でしょ」
「違う」
「何が?」
「量が」
ミレーナが呆れた顔で見上げると、フィナが少し考えてから口を開いた。
「セインさんの場合、量で分類するんですね」
「ほら、フィナは分かってる」
「たぶん、そういう意味ではないよ」
ルアンが言うと、セインが振り向いた。
「お前までそっち側かよ」
「そっち側って何?」
「俺の味方じゃない側」
「味方になった覚えないけど」
ミレーナが吹き出した。
「ルアン、最近ちゃんと言うようになったわね」
「前から言ってるよ」
「言ってない」
「言ってませんでした」
「フィナまで?」
二人に即答され、ルアンは少し首を傾げた。
何が違うのか、本人にはよく分からなかった。
「で、飯どうする?」
「話戻すの早いわね」
「腹減ってるからな。鉄鍋亭行こうぜ」
セインは返事を待たずに歩き出した。ミレーナが「勝手に決めないの」と言いながらその後を追い、フィナも自然に続く。
ルアンもその隣を歩いた。誰も、四人で行くのかとは聞かなかった。
鉄鍋亭へ入ると、四人は空いていた奥の席へ向かった。もう何度も来ているせいか、誰がどこに座るとも決めず、自然にルアンとミレーナが奥側、向かいにセインとフィナが座る。
席についた途端、セインが卓上の品書きを取った。
「肉の盛り合わせ」
「早い」
「あと煮込み」
「待ちなさい」
「パンもいるな」
「待てって言ってるでしょ!」
ミレーナが品書きを取り上げる。
「今日は共同費から出すんだから、一人だけ好き放題頼まないで」
「俺も共同体の一員だろ」
「共同費の意味を勝手に広げないで」
「でもセイン、今日は結構歩いたよ」
ルアンが言うと、ミレーナの顔がこちらへ向いた。
「ルアン。甘やかさないの」
「甘やかしてないよ」
「ほら見ろ。ルアンは分かってる」
「セインがいつもよりお腹空いてるのは分かる」
「そうだろ?」
「でも普段からかなり食べるよね」
「なんでそこで裏切るんだよ!」
フィナが口元を少し緩めた。
結局、肉料理は一皿多く頼むことになった。ただし、「これ以上は自腹だからね」とミレーナが釘を刺し、セインが不満そうに了承した。
料理が運ばれてくると、不満はすぐに消えた。
最初の肉皿がなくなり、煮込みが半分になり、パンの籠が一度空になる。ルアンが自分の皿を食べ終えた頃には、セインはすでに追加の肉料理へ手を伸ばしていた。
ミレーナがその手元を見る。
「何皿目?」
「知らない」
「私は知ってる。四皿目」
「まだ四皿だろ」
「“まだ”って言った?」
フィナがセインの皿を見た。
「三皿目までは数えてました」
「なんで三皿目まで数えてたんだよ」
「目に入るので」
「じゃあ四皿目も分かってるじゃねえか」
「ミレーナさんが教えてくれたので」
「なんか俺だけすごい監視されてない?」
「されてないよ」
ルアンが答えると、セインは箸を止めた。
「お前は黙ってろ!」
「なんで?」
「今のお前が一番腹立つ!」
ルアンは思わず笑った。
「笑うなよ」
「ごめん。でも、本当によく食べるなと思って」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
「ルアン、それ褒めてないから」
ミレーナが言いながら、自分の皿から野菜を一つ口へ運んだ。
その視線が途中で止まる。
「ルアン、手」
「ん?」
「ちょっと見せて」
言われたまま、ルアンは右手を差し出した。
ミレーナは新しい手袋の手首部分をつまみ、留め具を確認した。次に親指の付け根を押し、縫い目の位置を見る。
「ちゃんとはめられてるじゃない」
「買ったときに教えてもらったから」
「明日からも使いなさいよ」
「使うよ」
「本当に?」
「使うって」
「この前も防寒具持ってるって言って、全然着てなかったでしょ」
「あのときはそんなに寒くなかったから」
「寒かったわよ」
セインが肉を噛みながら二人を眺めた。
「おっかさん」
「誰がおっかさんよ!」
ミレーナが振り向く。
フィナが少し首を傾げた。
「でも、少し分かります」
「フィナ!」
「ルアンさん、自分では大丈夫だと思ってしまうことが多いので」
「ほら」
「なんでミレーナが勝ち誇るの?」
ルアンが聞くと、ミレーナは一瞬黙った。
「勝ち誇ってないわよ」
「今ちょっとしてたよ」
「してない」
「してた」
「セインは黙って食べてなさい!」
「もう食べてる!」
ルアンはまた笑った。
ミレーナはまだ何か言いたそうだったが、今度はフィナの皿へ視線を落とした。
「フィナ、それだけ?」
「はい。もう結構食べました」
「結構って、ほとんど野菜じゃない」
「煮込みも食べました」
「肉も食べなさい。ほら」
自分の皿から一切れ取り、フィナの方へ寄せる。
フィナは素直に頷いた。
「ありがとうございます」
「ほらな」
セインがすかさず口を挟んだ。
「完全におっかさんじゃん」
「うるさい!」
「俺には?」
「ない」
「なんで!?」
「もう十分食べてるからじゃない?」
ルアンが答えると、セインがこちらを見た。
「ルアン、お前どっちの味方なんだよ」
「別にどっちでもないよ」
「一番冷たい答え返ってきた!」
フィナが小さく笑った。
追加の料理も半分ほどなくなった頃、話は今日の買い物へ戻った。
セインが新しく買った小物入れを卓上へ置き、何を入れるか考え始めたのがきっかけだった。
「次はもっと大きいの買おうかな」
「今日買ったばっかりでしょ」
「じゃあこれ、ルアンにやる」
「いらないよ」
「即答!?」
「僕も今日買ったから」
「そこじゃないでしょ」
ミレーナが呆れたように息をつく横で、フィナがルアンを見る。
「ルアンさんは、次に欲しいものありますか?」
「僕?」
「今日、手袋以外はほとんどミレーナさんに選んでもらってましたから」
ルアンは少し考えた。
「特にないかな」
「人生つまんなくない?」
セインが真顔で言う。
「なんで?」
「欲しいものくらいあるだろ」
「必要なものは今日買ったよ」
「必要じゃなくても欲しいもの」
「セインは?」
「肉」
「物の話だと思う」
「じゃあ肉を焼く道具」
「結局、肉じゃない」
ミレーナが額を押さえる。
「もうセインはいいから。フィナは?」
「新しい薬草鋏が少し欲しいです。今のも使えますけど」
「じゃあ次見ようよ。道具屋にも寄ればいいし」
「はい」
ミレーナが当然のように答える。
セインもパンをちぎりながら頷いた。
「その近くに武具屋あったよな。俺も見たい」
「また行くの?」
ルアンが聞くと、三人の視線がこちらへ向いた。
ミレーナが先に答えた。
「行くわよ。今日だけじゃ見切れてない店もあるし」
「俺もまだ見たい」
「私も行きたいです」
ルアンは頷いた。
「じゃあ、次は道具屋からでいいんじゃない?」
今度は三人が少しだけ黙った。
「何?」
ルアンが聞くと、ミレーナが首を振った。
「別に」
「なんだよ、その顔」
セインが笑う。
「ルアンの方から“次”の予定決めたなと思って」
「そう?」
「そうだろ」
「行くなら順番決めた方がいいから」
「そういうとこだよな、お前」
意味が分からず、ルアンはフィナを見る。
フィナは少し笑っていた。
「良いと思います」
「何が?」
「そのままで」
さらに分からなくなった。
しばらくして、セインがミレーナの皿を見た。
端に肉が一切れ残っている。
「それ食べないならもらうぞ」
「食べるわよ」
「さっきお腹いっぱいって言ったじゃん」
「それとこれは別」
「お前も量で分類してるじゃん」
「うるさい」
「じゃあ一口」
「嫌」
「一口だけ」
「セインの一口はでかいのよ」
セインの箸が伸びる。
ミレーナが皿を引く。
「ちょっと!」
「まだ取ってない!」
「取ろうとしたでしょ!」
「食わないならもったいないだろ!」
「食べるって言ってる!」
向かいでフィナが口元を押さえた。
ルアンは食事の手を少し止めた。
二人はまだ言い合っている。
セインが何か言うたびにミレーナが返し、ミレーナが皿を遠ざければ、セインが身を乗り出す。フィナは止めるでもなく、時々小さく笑いながら二人を見ていた。
ルアンも、その様子を眺めた。
少し前まで、人と一緒にいるときには、どこかで自分の位置を考えていた。話に入っていいのか、黙っていた方がいいのか、そろそろ席を立つべきなのか。
今は、そういうことを考えていない。
セインが本当にミレーナの肉を取るのか。ミレーナがあと何回怒るのか。フィナが次にどちらへ何を言うのか。
そんなことばかり見ている。
「ルアンさん」
フィナに呼ばれ、ルアンは顔を向けた。
「なに?」
「今、笑ってました」
「そう?」
「はい」
ルアンは自分の口元に触れた。
「何か面白かった?」
「いえ」
フィナはそれ以上言わず、また二人の方を見る。
「だからそれ私の!」
「一口だけだって!」
「自分のあるでしょ!」
「もう食った!」
「知らないわよ!」
ルアンはもう一度笑った。
次も、たぶんこうなのだろうと思った。
また四人で歩いて、セインが腹を空かせ、ミレーナが文句を言い、フィナが静かに何かを足す。どこへ行くのかはまだ決まっていないのに、その中に自分もいることだけは、なぜか最初から決まっているように思えた。
それを不思議だとは、もう思わなかった。
店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
会計では予想どおり、セインの追加料理が問題になった。
「なんで俺だけこんな高いんだよ」
「自分の胸に聞きなさい」
「胃じゃないですか?」
「フィナ、正しいけど今は黙ってて」
「はい」
セインは納得していない顔で自分の分を払った。
四人で外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。ルアンは新しい手袋をはめ直し、指先まできちんと入っていることを確かめる。
それを見たミレーナが頷いた。
「ちゃんと使ってる」
「さっき買ったばっかりだよ」
「明日もね」
「分かったよ」
セインが横から笑った。
「やっぱおっか――」
「言ったら置いてくわよ」
「まだ何も言ってない!」
フィナが二人の後ろを歩きながら、小さく笑っている。
「次は別の店も行こうぜ」
「買い物の話?」
「飯の話」
「また食べること?」
「今じゃねえよ!」
「セインなら今からでも食べそうだけど」
「ルアンまで何なんだよ今日!」
ミレーナが笑った。
「で、ルアンはどこ行きたいの?」
「僕?」
「次。どこかある?」
「鉄鍋亭でもいいよ。僕、ここの煮込み好きだから」
三人が一瞬だけルアンを見た。
今度はルアンの方が先に聞いた。
「何?」
「いや」
セインが笑う。
「じゃあまたここでもいいな」
「でも次は共同費の上限決めるからね」
「なんで!」
「今日の会計見なさいよ!」
また二人の言い合いが始まった。
ルアンはフィナと並んで、その少し後ろを歩いた。買ったばかりの手袋の中で指を握ると、冷たい夜気の中でも手は暖かかった。
次にどこへ行くかは、まだ決まっていない。
けれど、その「次」に自分がいることを、ルアンはもう不思議には思わなかった。




