第58話 冬支度
それから三日後。
仕事を終えて月兎亭へ戻ると、食堂の奥からセインとミレーナの声が聞こえてきた。
「これ、三人分しか残ってないだろ。俺の分は?」
「最初は四人分あったの。来る途中で三個食べたの誰よ」
「味見だよ」
「三個とも?」
「一個じゃ分からないこともある」
何が分からなかったのかは、ルアンにも分からなかった。
扉を開けると、いつもの席に三人がいた。ミレーナの前には紙袋、セインの前には中身の減った焼き菓子の皿があり、フィナは二人の間で静かに温かい飲み物を飲んでいる。
「あ、ルアンさん」
「おかえり」
「遅いぞ」
声が立て続けに飛んできた。
「ただいま」
ルアンが答えると、ミレーナが少し妙な顔をした。
「なんで私たちが『おかえり』って言ってるのよ」
「帰ってきたから?」
「そういう意味じゃないの」
ルアンはよく分からないまま席へ着いた。
ミレーナが紙袋から焼き菓子を取り出し、ルアンの前へ置く。
「はい。これはルアンの分」
「おいしそう」
セインが見る。
「なんでそっちは残ってるんだよ」
「あんたが食べなかったからでしょ」
「俺の分は?」
「途中で食べた」
「あれは味見だって」
「三個食べて?」
セインが何か言い返す前に、ミレーナは焼き菓子の紙袋を脇へ寄せた。
「それより、冬支度の話するよ」
取り出したのは、買うものを書き留めた紙だった。保存食、油布、火口、それから手袋や厚手の靴下。冬が近づき、迷宮へ持ち込むものも少しずつ変える必要がある。
ミレーナは紙を見ながら、ふと思い出したように訊いた。
「そういえば、あの壁、その後どうなったの?」
「まだ測定は続けてるよ」
「動いてる?」
「今のところ、少しずつ」
「ほんとに壁の人になってきたな」
セインが言う。
「壁の人って何?」
「知らないけど、今のお前」
「仕事は灯守なんだけど」
「そっち忘れてなかったんですね」
フィナに言われ、ルアンは少し考えた。
「忘れてないよ」
三人が笑った。
ミレーナは紙の一枚を机の中央へ置いた。
「で、冬支度。共同分はこれくらい残ってる」
四人で迷宮へ入るときに使う金を、少しずつ出し合うようになったのは最近のことだった。保存食や薬、縄、油布といった全員で使う消耗品だけをそこから払い、個人の装備や普段の食事には使わない。
管理する役は、いつの間にかミレーナに落ち着いている。
「保存食と油布はここから出すけど、手袋とか靴下は各自ね」
「肉は?」
セインが訊いた。
「各自」
「保存食として買う肉は?」
「共同」
「じゃあ肉は共同費で――」
「今あんたが食べたい肉は各自」
セインが黙った。
フィナが紙を覗き込む。
「薬はまだありますね」
「うん。でも包帯は少し足したい。あとルアン」
「何?」
ミレーナの視線が、ルアンの外套へ移った。
「ちゃんと直ってるじゃない」
「うん」
「イネスさん、きれいに直してくれたのね」
「うん。ほとんど分からない」
その瞬間、セインの手が止まった。
ミレーナがすぐに気づく。
「何」
「いや、別に」
「顔が別にじゃないけど」
「何も言ってないだろ」
フィナはルアンの外套を見ていた。
「本当にきれいですね。どこを直したのか分かりません」
「ここ」
ルアンが左脇を指すと、フィナが少し身を寄せた。
「近くで見ても分からないです」
「触ると少しだけ分かるよ」
セインが訊いた。
「イネスさんって誰?」
「仕立て屋さん」
「へえ」
「何?」
「だから何も言ってないって」
ミレーナはしばらくセインを見ていたが、やがて紙へ視線を戻した。
「まあ、外套はこれで当分いいわね。でも手袋は買いなさい。今の、薄すぎるから」
「まだ使えるよ」
「はい、一個追加」
「なんで」
「今ので決まった」
ルアンの返事を待たず、ミレーナは紙に書き足した。
「フィナは?」
「厚い靴下が欲しいです。夜になると足が冷えるので」
「じゃあそれも」
「俺は肉」
「防寒具の話してるの」
「冬は肉が必要だろ」
「一年中言ってるでしょ」
翌日は四人とも予定が合った。
昼前に市場へ出ると、ミレーナは買い物の一覧と共同費の小袋を持ち、フィナは店先に並ぶ品を一つずつ見比べている。セインはまだ何も買っていないうちから、通りの向こうにある串焼きの屋台ばかり見ていた。
「先に手袋」
「分かってる」
「さっきから串焼きしか見てないじゃない」
「視野が広いんだよ」
「狭いでしょ」
少し後ろを歩いていたルアンは笑った。
セインが振り返る。
「なんだよ」
「いや、久しぶりだなと思って」
「何が?」
「セインが怒られてるの」
「俺たち何日会ってなかったんだよ」
フィナも小さく笑う。
「でも、ちょっと分かります」
「フィナまで?」
最初に入った店で、ルアンは一番安い手袋を取った。
ミレーナは何も言わず、それを棚へ戻した。
「なんで」
「薄い」
「今のより厚いよ」
「比べるものが間違ってる」
仕方なく次を選ぶと、今度はフィナが触って首を振った。
「指先が薄いです」
「これも?」
「はい」
三つ目を手に取ると、ルアンはその場ではめ、何度か指を開いてみた。厚みはあるが指先は動かしやすい。
最近、意識を向けると、以前より指先の感覚がはっきり分かることがある。まだ気のせいかもしれないが、こうして布越しに触れたときの違いも、少しだけ細かく感じ取れるようになっていた。
ルアンは二人を見る。
「これは?」
「いいんじゃない」
「暖かそうです」
「じゃあこれにする」
セインが横から覗き込んだ。
「一人で買い物できないみたいになってるぞ」
「選んでるのは僕なんだけど」
「二回却下されてたけどな」
ルアンは手袋を見た。
「でも、これが一番暖かい」
「ほら」
なぜかミレーナが少し得意そうだった。
フィナの厚手の靴下を買い、共同用の油布や保存食も揃える。セインは途中で何度も食べ物の店へ寄ろうとしたが、そのたびにミレーナに順番を戻された。
すべて買い終える頃には昼をかなり過ぎていた。
「腹減った」
セインが言った。
「途中で串焼き食べてたでしょ」
「あれは買い物中の補給」
「三本も?」
「一個じゃ分からないこともある」
「それ朝も聞いた」
結局、四人は鉄鍋亭へ入った。
大きな鉄鍋で煮込んだ料理が評判の店で、寒くなると昼でも客が多い。空いた席へ座ると、セインは迷わず一番大きな肉煮込みを頼んだ。
ミレーナが共同費の小袋をしまう。
「それは自分で払ってね」
「共同費じゃないの?」
「なんでよ」
「四人で食べてる」
「その理屈なら店の料理全部共同費になるでしょ」
セインは少し考えた。
「じゃあ立て替えて」
「それならいいけど、あとで返してよ」
フィナが首を傾げる。
「でもセインさん、自分で大きいものを選びましたよね」
「うん」
「だったら、最初から自分で払うものでは?」
セインが黙った。
ルアンも考える。
「共同費って、みんなで使うものだよね?」
「ルアン、お前まで正論で来るな」
ミレーナが手を出した。
「はい、自腹」
「最初から自分で払うつもりだった」
「じゃあ何だったの」
「交渉」
「失敗してるじゃない」
「交渉したことに意味がある」
「ないと思います」
フィナが静かに言った。
ルアンはこらえきれずに笑った。
やがて料理が運ばれてくると、それまで誰が何を払うか話していたのが嘘のように、全員の視線が皿へ集まった。
セインの前には、他の三人より明らかに大きな肉煮込みが置かれている。
「それ、本当に一人で食べるの?」
「足りなかったら追加する」
「聞いた私が悪かった」
ミレーナが匙を取る。
フィナも手を合わせ、ルアンとセインもそれに続いた。
「いただきます」
四人の声が重なった。
外へ出れば、冬はもう近い。
迷宮では壁が動き、昔の道が戻ろうとしているのかもしれない。それでも今は、誰の手袋が薄いとか、誰が肉を共同費で食べようとしたとか、そんなことの方が大事だった。
ルアンは新しい手袋の入った袋を足元へ置き、湯気の向こうにいる三人を見た。
冬の準備は、たぶんこれで大丈夫だった。




