第57話 まだない入口
その日の夜、ルアンは月兎亭で三人に昼間の調査結果を話した。
三十一年前にオズが補修した跡は、六十二年前と同じ形になった壁に残っていた。さらに、その近くから五十年以上前に使われていた導灯の固定穴まで見つかっている。
「じゃあ、やっぱり今の壁なんだ」
ミレーナが言った。
「うん。壁そのものが昔に戻ったわけじゃないみたい」
「でも、昔どんな形だったかは覚えてるかもしれないんですよね」
フィナの言葉に、ルアンは頷いた。
「そういうものが本当にあるのかは、まだ分からないけど」
セインはしばらく考えながら、皿に残っていた肉を口へ運んだ。
「じゃあさ。昔と形が違う場所って、ほかにもあるんだろ?」
「あるよ。六十二年前からずっと同じ形だったわけじゃないから」
「そこは今、どうなってるんだ?」
ルアンは答えようとして、少し止まった。
調べているのは、すでに変化が見つかった場所ばかりだった。古い地図と現在の図面が違っていても、まだ何も起きていない場所までは詳しく見ていない。
ミレーナも同じことに気づいたらしく、身を乗り出した。
「変わったところだけじゃなくて、まだ変わってないところも見た方がいいんじゃない?」
フィナが頷く。
「もし途中で変わっている場所があれば、どうやって昔の形になるのか分かるかもしれません」
ルアンは二人の言葉を考えた。
すでに変わった場所では、変化したあとの状態しか見られない。けれど、これから変わる場所を見つけられれば、その途中を確認できる可能性がある。
「明日、リサさんに聞いてみる」
セインがすぐに言った。
「俺たちも行っていい?」
「え?」
「だから調べるんだろ?」
ミレーナがルアンを見る。
「私も行く」
「私も行きたいです」
三人の返事があまりに早く、ルアンは少しだけ目を瞬いた。
「でも仕事じゃないよ」
「知ってる」
「何か見つかるかも分からないし」
「それも知ってる」
ミレーナは呆れたように言った。
「だから見に行くんでしょ」
翌朝、三人を連れて管理院へ入ると、リサは事情を聞いて少し考えた。
「浅層だけよ」
机の上には、現在の図面と六十二年前の地図が並んでいる。
「三人とも探索者として入れる場所だけ。壁を触ったり削ったりしないこと。何か見つけたら、その場で記録して戻る」
「分かりました」
ルアンが答えると、セインも頷いた。
「任せて」
「あなたが一番心配なのよ」
リサに言われ、セインが眉を上げる。
「初対面じゃないのに信用ないな」
「前に会ってるから言ってるの」
ミレーナが吹き出し、フィナも小さく笑った。
調べる場所は三か所に絞った。
六十二年前の地図と現在の図面で形が大きく違い、なおかつ最近の点検では異常が報告されていない場所。すべて浅層にあり、普段から探索者が行き来する通路だった。
最初の場所には何もなかった。
六十二年前には小さな窪みがあったが、現在の壁は図面どおりまっすぐに続いている。目立った傷も新しい石粉もなく、ルアンが測った寸法も直近の記録と一致した。
二か所目も同じだった。
「何もないね」
「それも記録になるよ」
ミレーナがルアンを見る。
「調査する人みたいになってきたわね」
「そう?」
「自覚ないんだ」
セインが笑った。
三か所目は、そこから少し離れた通路だった。
現在は一本の壁が続いているが、六十二年前の地図では途中に小さな脇道がある。古い地図によれば、入口の幅は2mほど。その先は短い通路を経て、さらに奥へ続いていたらしい。
今は入口そのものがなく、壁がまっすぐ続いている。
「この辺?」
「もう少し先。……ここだと思う」
ルアンは図面と見比べながら位置を確かめた。
セインが少し離れたところから全体を眺め、フィナは壁際へ灯りを向ける。ミレーナはしゃがみ込み、壁と床の境目を見ながらゆっくり進んでいった。
「ルアン」
「何?」
「これ、前から?」
ミレーナが指した先に、細かな石粉が落ちていた。
量はわずかだが、周囲の黒ずんだ埃に比べると色が明るい。ルアンが指で触れると、まだ乾いていた。
「新しそうですね」
フィナが壁を見上げた。
「上から落ちたんでしょうか」
四人で壁面を調べると、腰の高さより少し上に細い筋があった。亀裂というほど深くはなく、縦に短く走っているだけだったが、その真下に石粉が落ちている。
セインが手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触らない方がいいんだよな」
「うん」
「ちゃんと覚えてた」
「俺だってそれくらい覚える」
ミレーナに返すセインを横に、ルアンは通路幅を測った。
最新の記録では3.46m。今は3.50mある。測り直しても数字は変わらず、少し離れれば記録どおりだった。
違っているのは、古い地図で脇道の入口が描かれている場所だけだ。
ルアンは六十二年前の地図と見比べた。そこでは壁がさらに奥へ下がり、脇道へ続いている。
今はまだ壁だが、その位置だけが4cmほど奥へ動いていた。
「これって……昔の形になりかけてるってこと?」
ミレーナの言葉に、ルアンはすぐには答えなかった。
変化の途中らしい場所を見つけたのは、これが初めてだった。
これまで見つかった二か所は、どちらもすでに形が変わったあとだった。変化の途中を見た者はいない。
フィナが古い地図へ目を落とした。
「このまま昔と同じになるなら、もっと奥まで下がるんですよね」
「うん。古い地図だと、今の壁より1.8mくらい奥に入口がある」
今動いているのは4cmほどで、まだ脇道と呼べるものではない。それでも、これまで見つかった二か所は、どちらもすでに形が変わったあとだった。変化の途中を見た者はいない。
セインが壁から一歩離れた。
「じゃあ、ここが次なのか?」
「次?」
「今までの二か所は、もう変わったあとだったんだろ。でもここは、まだ途中かもしれない」
ミレーナも古い地図を覗き込んだ。
「だったら、明日また測ればいいんじゃない? 4センチが5センチとか6センチになってたら、動いてるってことでしょ」
「そうですね。変化の途中だと考えやすくなります」
フィナの言葉に、ルアンはもう一度壁を見た。細い筋の下には新しい石粉が落ち、記録より4cmだけ奥へ下がっている。どちらも小さな違いだが、それが古い脇道の入口と同じ場所にある。
四人は寸法と石粉の位置、壁面の筋を記録して管理院へ戻った。
報告を聞いたリサは、すぐに最新の測量記録を取り出した。
「ここを測ったのは十二日前ね」
「そのときは3メートル46です。今日は3メートル50でした」
「測り方の違いは?」
「三回測りました。少し離れた場所は記録と合ってます」
ルアンが答えると、リサは六十二年前の地図を引き寄せた。
「古い地図では?」
「この先に脇道があります。入口は今の壁より1メートル80くらい奥です」
ダグが二つの図面を見比べた。4cmでは、古い脇道が戻ったとはまだ言えない。だが何も起きていないと片づけるには、場所が一致しすぎている。
「この場所は、しばらく測定を続けましょう」
リサが言った。
「数字が動けば、変化の途中だと確認できるかもしれない」
ルアンは頷いた。その横で、ミレーナは六十二年前の地図をじっと見ていた。
「ねえ。もしここが本当に次に変わる場所なら……どうしてここなの?」
誰も答えなかった。
ルアンも地図へ目を落とす。これまで変化が見つかった二か所と、今日見つけた場所。その三か所がなぜ選ばれたのかは、まだ分からない。
ただ、初めて彼らは、変わったあとの壁ではなく、変わろうとしているかもしれない壁を見つけた。
六十二年前の地図には、そこに入口がある。
今はまだ、ない。




