第56話 壁の記憶
翌朝、ルアンは管理院へ着くと、昨日確認した二か所の記録をもう一度机に広げた。
六十二年前と同じ形になった窪みと、去年まであった壁の張り出しが消えた通路。形の違う二つの変化は、どちらも現在の迷宮が古い地図と一致するという点で共通している。
リサが向かいの席から顔を上げた。
「朝から熱心ね」
「昨日、ミレーナたちと話してたんですけど」
ルアンは二枚の記録を見ながら続けた。
「昔の形になった場所に、そのあとで付いた傷とか、補修した跡が残ってるか調べられませんか」
ダグが手を止める。
「傷?」
「はい。残っていれば、変わったのは壁の形だけだって分かるかもしれません」
リサはすぐには答えず、机の上の地図へ視線を落とした。そこへオズも近づき、二枚の記録を覗き込む。
「残ってりゃ、壁全部が昔の状態になったわけじゃねえってことか」
「たぶん」
「なら、日付の分かる傷が必要だな」
偶然できた欠けでは、いつ付いたものか分からない。補修記録が残っていて、場所と年代を特定できるものなら比べる意味がある。
「ほかにも確認した方がよさそうね」
リサが立ち上がり、古い保全記録を棚から取り出した。変化が確認された二か所と照らし合わせていくと、何冊かめくったところでオズが一冊を引き寄せた。
「これ、見せろ」
三十一年前の補修記録だった。最初に窪みが現れた通路の近くで、壁の亀裂を埋めた記録が残っている。
リサが担当者欄を見た。
「オズ・フェルク」
「オズさん?」
「俺だな」
オズは昔の自分の字をしばらく眺めた。
「三十一年前……三十の頃か。こんな字だったか、俺」
「今より少し丁寧ですね」
「そこ見るのか」
ダグが笑う横で、オズは補修箇所の略図を指した。
「亀裂が入って、周りも少し欠けてた。埋めて表面をならしたはずだ」
「覚えてるんですか?」
「全部じゃねえ。この場所は覚えてる。材料を間違えて、一度取りに戻ったからな」
リサが記録を閉じた。
「じゃあ、見に行きましょうか」
四人は必要な道具を持ち、そのまま迷宮へ向かった。
六十二年前の地図と同じ形になった場所は、今日も変わっていなかった。窪みの位置も寸法もそのままで、周囲に新しい崩落や欠けは見つからない。
オズは記録を確認しながら壁際を進み、やがて足を止めた。
「この辺だ」
ダグが壁面へ灯りを向ける。
最初はルアンにも分からなかったが、表面を斜めから見ると、周囲とはわずかに色の違う部分があった。細長く伸びた補修材が、石の亀裂を埋めるように残っている。
リサが略図と位置を照らし合わせた。
「高さも合ってる」
オズはしゃがみ込み、壁面を確かめる。
「これだ。三十一年前の補修で間違いねえ」
補修材は周囲の石と同じように汚れ、境目も長い時間をかけて摩耗していた。六十二年前と同じ形になった壁に、三十一年前の補修跡がそのまま残っている。
「残ってますね」
「ああ」
リサも頷いた。
「これなら、壁そのものが六十二年前の状態に戻ったわけではなさそうね」
昨日フィナが言った通り、今ある壁を残したまま、形だけが六十二年前と同じになっている。
ダグが眉を寄せた。
「となると、別の話になるな」
今の壁が、なぜ六十二年前と同じ形になれるのか。
オズが古い地図を見た。
「これ、六十二年前だったな」
「はい」
「俺が生まれる前だな」
「一年だけね」
「一年でも前は前だ」
リサに返したオズの真面目な顔を見て、ダグが小さく笑った。
ルアンもつられて口元を緩めたが、そのまま壁へ視線を戻した。補修跡の少し先、腰より高い位置に、小さな窪みが三つ並んでいるのが見えた。
「これ、何でしょう」
ルアンが灯りを近づけると、オズも立ち上がった。
三つとも大きさは似ている。上に二つ、その下に一つあり、表面は角が取れて周囲の石と同じ色に馴染んでいた。
オズは手袋越しに一つずつ確かめ、道具袋から細い金属棒を取り出した。
「自然にできた穴じゃなさそうだな」
深さは三つともほぼ同じだった。ダグが巻尺を当て、穴どうしの間隔を測る。
「上の二つ、18センチ。その下まで27センチ」
オズの顔が変わった。
「……待てよ」
「何か分かるんですか?」
「昔の導灯の金具に、こんな留め方があった」
もう一度穴の位置を確かめてから、オズは首を傾げた。
「ただ、相当古いぞ。俺が仕事を始めた頃には、ほとんど使ってなかった型だ」
「記録は残ってますか」
ルアンが訊くと、リサが頷いた。
「取り付け図ならあるかもしれないわ。配置記録も探しましょう」
四人は三つの穴の位置と寸法を記録し、管理院へ戻った。
旧式の設備図面は、古い保全資料の中からすぐに見つかった。今使われているものより金具が大きく、上を二点、下を一点で壁へ固定する構造になっている。
ダグが寸法欄を指で追った。
「18センチと27センチ」
「同じね」
リサが答える。
オズも図面を確認し、腕を組んだ。
「この型で間違いなさそうだ」
さらに古い導灯配置図を探すと、同じ通路を示す線の横に、旧式導灯を表す記号が一つ残っていた。
場所は、今日三つの穴を見つけた壁だった。
「ここにあったんですね」
「少なくとも、この記録が作られた時点ではね」
リサが頷くと、ダグは椅子の背へ身体を預けた。
「地図が似てるってだけじゃなくなったな」
机の上には、六十二年前の地図、旧式導灯の取り付け図と配置記録、三十一年前の補修記録、そして今日の測定結果が並んでいる。
ルアンは順に見比べた。
六十二年前と同じ形をした今の壁には、五十年以上前に使われていた導灯の固定穴がある。その近くには三十一年前にオズが直した跡があり、さらに現在の設備へ続く留め具も残っていた。
年代の違う痕跡が、どれも消えずに同じ壁に残っている。
「今は形が変わってても、前にどんな形だったかっていう情報は、迷宮のどこかに残ってるんでしょうか」
ダグがルアンを見る。
「形の情報が?」
「はい。そういうものが残ってないと、今の壁が六十二年前と同じ形になるのは難しい気がして」
オズが腕を組んだ。
「どこに残るんだよ」
「分かりません」
ルアンは素直に答えた。
リサは六十二年前の地図と現在の記録を見比べ、少し考えてから口を開いた。
「記憶みたいなものを考えてるの?」
「……それに近いです」
人が昔の景色を覚えているのと同じだとは思えない。それでも、迷宮が過去の形を再現しているのなら、そのための何かが残っていると考える方が自然だった。
「記憶って呼び方が正しいかは分からないわ」
リサは机の上に並んだ記録へ目を落とした。
「でも、昔の形を再現できるだけの情報が、迷宮のどこかに残っている可能性は考えてもいいと思う」
ダグも古い地図を見た。
「地図を見て壁が動いてるわけじゃないからな」
「それは、たぶん」
「たぶんって何だよ」
オズの声に、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
それでも、机の上に並んだ記録は変わらない。六十二年前の形、五十年以上前の固定穴、三十一年前の補修跡、そして現在の設備が、今は同じ壁の上に残っている。
ルアンは六十二年前の地図と、今日の記録をもう一度見比べた。人の記録では古い紙の上にしか残っていない形を、目の前の壁は知っているように見える。
迷宮は、昔の形を覚えているのだろうか。




