第55話 戻ったなら
翌朝、ルアンは外套を羽織ると、左脇の修理された部分へ指を滑らせた。
表から見れば、どこが破れていたのかほとんど分からない。それでも触れれば、補強された布の厚みがわずかに残っている。
管理院へ着くと、リサが一枚の図面を机に広げていた。先日調べた窪みとは別の場所で、定期測量の数字にずれが見つかったらしい。
「またですか」
「まだ何とも言えないわ。だから見に行くの」
リサの隣では、ダグが道具袋を持ちながら少し面倒そうな顔をしていた。
「俺まで呼ばれた理由は?」
「こういうときは、長く現場を見てる人がいた方がいいでしょ」
「年寄り扱いか」
「経験豊富って言ってるの」
ダグは何も言い返さず、道具袋を肩へ掛けた。
三人が向かった浅層の通路では、去年の保全図面に描かれている壁の張り出しがなくなり、壁はほとんどまっすぐに続いていた。
「ここですよね」
「位置は合ってる」
ルアンが図面と見比べる横で、ダグは壁際へ歩いていった。
去年の図面では、途中から壁が30cmほど通路側へ張り出し、その先で再び元の位置へ戻っている。ところが目の前の壁には、その痕跡がなかった。新しく削った跡も石粉もなく、色や摩耗の具合も前後の壁とほとんど変わらない。
リサが図面を確認した。
「去年は、この位置で通路幅2メートル80」
今日測ると3.11mあった。差は31cmで、図面上で壁が張り出していた分とほぼ一致する。
「張り出しがなくなってるな」
ダグが壁を見ながら言った。
ルアンも去年まで壁が出ていたはずの位置へ立った。削り取ったのなら何かしら残りそうなものだが、壁は最初からそこまで続いていたように滑らかだった。
「直した跡もないですね」
口にしたところで、ルアンはイネスが直してくれた外套の縫い目を思い出した。きれいに直しても、触れればわずかな違いは残る。それなのに目の前の壁には、そこに別の形があったことを示すものが何もなかった。
「管理院に戻ったら、古い図面も見ましょう」
リサの言葉に、ルアンは頷いた。
管理院へ戻ると、六十二年前の地図を取り出し、今日の場所を去年の図面と並べて確認した。
去年の図面には、壁の張り出しがはっきりと描かれている。だが六十二年前の地図では、その部分も現在と同じようにまっすぐだった。
ダグが定規を当てた。
「古い方、3メートル12くらいだな」
今日の実測は3.11mだった。
ルアンは二枚の図面へ目を落とした。先に確認した窪みとは場所も形も違う。それでも、現在の迷宮が六十二年前の記録と同じ形になっているという点では一致している。
「一か所だけじゃなかったんですね」
「そう考えるには、十分な数字ね」
リサは慎重な言い方を崩さなかったが、最初の窪みを調べたときとは声が違っていた。
偶然似た形が一つ現れるだけなら、まだ説明の余地はある。だが別の場所では、去年まで存在していた壁の張り出しが消え、六十二年前とほぼ同じ通路幅になっている。
ルアンはもう一度二枚の地図を見た。去年の図面には張り出しがある。六十二年前の地図にはなく、今日測った通路にも、その痕跡は残っていなかった。
二つのまっすぐな線が、机の上でほとんど同じ形をしていた。
仕事を終えたあと、ルアンは月兎亭で三人と顔を合わせた。
セインはすでに何かを食べていて、ミレーナはその皿を見て呆れた顔をしている。フィナは温かい飲み物を両手で包みながら、二人のやり取りを聞いていた。
「遅かったね」
ミレーナに言われ、ルアンは空いている椅子へ腰を下ろした。
「少し調べものしてた」
「何の?」
「迷宮の壁」
「……壁?」
「うん。壁」
セインが匙を止めた。
「お前、最近そんな仕事してたの?」
「ここ数日だけ。変なところが見つかって」
三人が揃ってこちらを見たので、ルアンは最初に見つかった窪みのことから簡単に説明した。今までなかった空間が現れ、その寸法と形が六十二年前の地図に残るものとほとんど一致していたこと。さらに今日、別の通路でも去年まであった壁の張り出しが消え、そこも六十二年前と同じ形になっていたことを話す。
セインは話を聞き終えると、匙を皿へ戻した。
「ちょっと待て。六十二年前にあった形が、今また出てきてるってこと?」
「そうかもしれない」
「一か所だけじゃないんですよね」
「今のところ二か所」
ルアンが頷くと、ミレーナはしばらく考えてから眉を寄せた。
「じゃあ、本当に昔の形に戻ってるの?」
「まだそこまでは決められないって、リサさんは言ってた。でも、偶然にしては似すぎてる」
セインも少し考える。
「壁って、そんな簡単に昔の形になるもんなのか」
「ならないと思う」
「だよな」
そこでミレーナが首を傾げた。
「でもさ。昔の形に戻ったなら、そのあとに付いた傷とか、直した跡はどうなるの?」
ルアンは答えなかった。無意識に左脇へ手が伸びる。イネスが直してくれた場所には、見ただけでは分からなくても、触れれば確かに修理した跡が残っている。
ミレーナは少し考えてから続けた。
「六十二年前の形になったとしても、そのあとに付いた傷まで消えるのかな」
フィナがカップを置いた。
「もし残っていたら、戻っているのは形だけ、ということになりますね」
「形だけ?」
セインが聞き返すと、フィナは少し考えてから頷いた。
「壁そのものが六十二年前の状態になったわけではなくて、今の壁のまま、形だけが六十二年前と同じになっている、ということです」
ミレーナがすぐに続けた。
「そう。それなら、あとから付いた傷や補修も残ってるかもしれないでしょ」
ルアンは今日見た壁を思い返した。去年まであった張り出しが消えたことばかりを見ていて、壁の表面に何が残っているのかまでは確かめていない。
「……見てなかった」
「傷とかも?」
「うん」
ミレーナが少し眉を上げた。
「じゃあ、明日見れば?」
「うん。補修した記録がある場所なら、もっと分かりやすいかも」
フィナも頷いた。
「いつ直したものか分かっていれば、その傷が残っている意味も分かりますね」
セインはそこで再び匙を取ったものの、すぐには食べ始めなかった。
「でも、それで傷が残ってたらさ」
三人が見る。
「今の壁が昔と同じ形になるってことだろ?」
「たぶん」
セインは眉を寄せた。
「じゃあ、なんで迷宮は六十二年前の形を知ってるんだ?」
ルアンは何も答えられなかった。
その問いは、これまで考えていたものとは少し違っていた。昔の形になっているのなら、どこまで昔の状態と同じなのか。それを確かめようとしていたはずなのに、その先にはもう一つ別の疑問がある。
六十二年前と同じ形になるなら、迷宮のどこかに、その形を覚えているものがあるはずだ。
ルアンは左脇から手を離し、今日見たまっすぐな壁を思い返した。
まずは、その壁に後から付いた傷が残っているのか。
明日、それを確かめればいい。




