第54話 直した跡
朝から冷たい風が吹いていた。
迷宮管理院の裏手では、夜のうちに落ちた枯れ葉が石畳の隅へ集まり、職員が箒で何度掃いても風に押し戻されている。ルアンは更衣室で仕事着へ着替え、脱いだ外套を壁の掛け具へ掛けた。
少し離れて見ると、破れていたところはほとんど分からない。脇から背中へ入れられた布も表側からは古い生地に馴染み始めていて、袖口だけが以前よりきれいに整っている。
「直ったんだな」
後ろから声がして、ルアンは振り返った。ダグが仕事着の袖を通しながら、壁に掛かった外套へ目を向けている。
「はい。脇だけじゃなくて、袖口まで見てもらいました」
「誰に頼んだ」
「イネスっていう仕立て屋の人です。ミレーナが知ってて」
ダグは外套の脇から背中へ一度目をやり、それ以上は近づかなかった。
「なら次は、そこまで裂ける前に持ってけ」
「同じこと言われました」
「なら聞け」
「聞いてます」
ダグは短く鼻を鳴らし、自分の工具袋を持ち上げた。
「何です?」
「何が」
「いや、もう少し何か言うのかと思って」
「直ったならそれでいいだろ」
もっともだった。
その日の点検は浅層西側の導灯十基だった。大きな故障はなく、二基を清掃し、一基の固定具を締め直しただけで午前の作業は終わった。午後は管理院へ戻り、交換した部品の整理と、翌日使う消耗品の確認に回る。
数日前までなら、空いた時間ができれば古地図のことを聞きに行っていたかもしれない。けれど測量記録はすでにリサたちが整理しているし、今のルアンがそこに座っていて増える情報もない。
棚の奥から残り少なくなった革紐を見つけ、補充表へ数量を書き込む。
「これ、今日買ってきます?」
「明日でもいい」
ダグが箱の中を覗いた。
「いや、明日の朝使うな。帰りに寄れるか」
「はい」
「立て替えんなよ。これ持ってけ」
小さな支給札を渡される。管理院の印が押されており、指定された店なら品物と引き換えに記録してもらえるものだった。
「前に自分のお金で買いそうになったので」
「学んだじゃねえか」
「買ってはいません」
「寸前まで行っただろ」
「……はい」
ダグは笑いもせず、次の箱を開けた。
仕事を終えたルアンは外套を着込み、工具鞄を左肩へ掛けて大門市場へ向かった。
右に掛ける方がまだ楽だったが、ここ数日は意識して持ち替えている。歩き始めは鞄の底が腰へ当たる位置まで気になったものの、今日は市場へ着く頃には何度も直さずに済んでいた。
指定された道具店で革紐を受け取り、支給札へ店主の印をもらう。用事はそれだけだったので、そのまま月兎亭へ戻るつもりで大通りへ出た。
市場は夕食前の買い物客で混み始めていた。野菜を積んだ台車が通り、焼いた肉の匂いが流れてくる。布地を扱う店の前では大きな包みがいくつも積まれ、店員たちが荷車から巻いた布を降ろしていた。
その横に、イネスがいた。
店で見る時と同じ細身の前掛けを着けているが、今日はその上から短い上着を羽織っている。腕には何種類かの布見本を重ね、店主らしい男と話しながら、一枚ずつ端を指で確かめていた。
ルアンは足を少し緩めた。
店にいるイネスしか見たことがなかったせいか、それだけのことが妙に新鮮だった。声を掛けようか迷っているうちに、イネスの方が顔を上げた。
「あら、ルアン」
もう見つかった。
ルアンは人の流れを避けながら店先へ寄った。
「何してるの?」
「仕事の買い物です」
「その鞄で?」
「革紐を取りに来ただけなので」
「ちゃんと働いてるのね」
「働いてますよ」
イネスは答えず、ルアンの肩へ目を移した。
「左」
「え?」
「鞄」
言われて、ルアンも自分の肩を見る。
「使ってますよ」
「偉い」
「それくらいで褒められるんですか」
「言ったこと聞く十五歳って珍しいもの」
子ども扱いされている気がした。
「イネスだって、十五歳だった時あるでしょう」
「あるけど、人の言うこと聞かなかったわよ」
「自分で言うんだ」
「今なら言える」
店主が奥から声を掛け、イネスは布見本を持ったまま振り返った。少し話してから、棚に立て掛けてあった二本の巻き布を指す。
「それと、それ。両方もらう」
「こっちは少し色が違うぞ」
「分かってる。その色が欲しいの」
返事に迷いがない。
店員が巻き布を紐でまとめ始める間、イネスは見本を返し、代金を確認していた。店にいた時より声が少し早く、値段を聞く時だけ目つきが鋭くなる。
「仕入れですか?」
「そう。仕事着の補修に使う布」
「同じ色じゃないんですね」
「全部同じ色にしたら、合わない服の方が多くなるでしょ」
言われてみればそうだった。
イネスは並んだ巻き布の端を持ち上げ、厚さを指で確かめる。一見すると似たような暗い色なのに、近くで見ると織り方も硬さも少しずつ違う。
「ルアンの外套に使ったのは、これより少し目が細かい布」
「覚えてるんですか?」
「自分で選んだんだから覚えてるわよ」
さらっと返され、ルアンは外套の脇を見た。
店員が二本の巻き布を持ってきた。一本はイネスでも抱えられそうだったが、もう一本はかなり大きい。
「店まで運ぶの?」
「そうだけど」
「一つ持ちます」
「仕事帰りでしょ」
「店、そんなに遠くないですよね」
「遠くはないけど」
イネスはルアンの左肩に掛かった工具鞄を見た。
「それ持ってるじゃない」
「これは軽いです」
「右で持ったら意味ないわよ」
「分かってます」
少し考えてから、イネスは小さい方の巻き布を指した。
「じゃあ、そっちだけ」
「大きい方じゃなくて?」
「あなた、最近腕痛めたんでしょ」
「もう治ってます」
「治った直後に重いもの持たせたってミレーナに知られたら、私が怒られる」
たしかに、その可能性はあった。
ルアンは小さい方を両腕で抱えた。見た目より硬く巻かれていて、持ち上げると布の重さが胸へかかる。イネスは大きい方を店員と二人で持ち、近くに停めてあった手押し車へ載せた。
「それも載せていいわよ」
「持っていきます」
「どうして」
「せっかく持ったから」
「変なところで意地張るのね」
二人で市場の脇道へ入る。
夕方の通りは大通りほど混んでおらず、店先では夕食の支度をする匂いが漂っていた。イネスは手押し車を押し、ルアンはその横を歩く。抱えた布の向こうに見える横顔は、店の作業台に向かっている時より少しだけ若く見えた。
「仕入れって、自分で全部選ぶんですか?」
「ほとんどはね。触らないと分からないもの」
「見ただけじゃ駄目?」
「同じくらいの厚さでも、伸び方が違うし、擦れ方も違うから」
イネスは歩きながら手押し車の布を軽く叩いた。
「きれいな服を作るだけなら、見た目で選べることもあるけど。私のところに来るの、破れた仕事着とか外套とかが多いでしょ」
「僕みたいな?」
「あなたみたいな」
即答された。
店へ着くと、ルアンは抱えていた巻き布を作業台の横へ置いた。イネスは手押し車の大きな方を壁際へ立て掛け、表面についた埃を払う。
「ありがと」
「これくらいなら」
「そういう時は、どういたしましてでいいの」
ルアンは一瞬考えた。
「どういたしまして」
「素直ねえ」
また笑われた。
帰ろうとして扉へ向かうと、イネスが後ろから呼び止めた。
「ちょっと待って」
振り返ると、イネスがルアンの外套の右脇を見ていた。
「腕、少し上げて」
「こうですか?」
ルアンが腕を上げると、イネスは補修した部分へ目を細めた。脇から背中まで縫い目を追い、今度は反対側からも確かめる。
「うん。ちゃんと馴染んできてる」
「もう破れそう?」
「なんで直したばっかりで破れる前提なのよ」
ルアンは笑った。
「ちゃんと着られてます」
「ならよし」
イネスは補修した脇から背中へ一度だけ目を走らせ、それから手を離した。
「新しい布は、もう少し着れば馴染むわ。今のところ縫い目も問題なし」
「じゃあ、しばらくは大丈夫そうですね」
「普通に着ればね」
「普通に着てます」
「君の普通は、ちょっと信用してない」
ルアンは何か言い返そうとして、結局やめた。これまでの外套の扱いを思い返すと、反論する材料があまりなかった。
「じゃあ、また」
「うん」
扉へ向かったところで、後ろからイネスの声が飛んできた。
「今度は破れる前に持ってきなさいよ」
「覚えてます」
「ならいいわ。気をつけて帰って」
ルアンは振り返って軽く手を上げ、店を出た。
数歩進んでから、ルアンは外套の脇へ手を当てた。指先に、新しい布のわずかな硬さと、縫い目の小さな盛り上がりが伝わる。見た目にはほとんど分からないほど馴染んでいるのに、触れるとそこだけがまだ少し新しかった。
市場を抜ける頃には、空がかなり暗くなっていた。
左肩の工具鞄を掛け直し、歩く。
途中で一度だけ、さっきの店の方を振り返った。
もう通りの角に隠れて、看板は見えなかった。




