第52話 治せる傷
仕事を終えて点検表を提出すると、リサが机の脇から一枚の紙を抜き出した。
「ルアン、今日だったでしょ」
「何がですか?」
「腕の再診」
差し出された紙を見て、ようやく思い出した。数日前、赤爪猿との戦いのあとに診てもらった右腕は、痛みも重さもほとんど残っていない。昨日も今日も普通に工具を使えていたので、ルアンの中ではすでに治ったものになりかけていた。
「もう大丈夫だと思います」
「それを決めるのはあなたじゃないわ」
「……はい」
言い返せず、紙を受け取った。
更衣室で仕事着から冬服へ着替え、修理したばかりの外套を羽織る。右肩へ工具鞄を掛けかけて、昨日イネスに言われたことを思い出し、今日は左へ移した。仕事道具の入った鞄はそれなりに重く、まだ少し落ち着かない。
管理院を出ると、夕方の冷気が通りを流れていた。日が落ちるのも少しずつ早くなっている。ルアンは襟元を閉じ、迷宮大門から北へ延びる通りを歩いた。
白樹療院は、アルネスでも大きな建物の一つだった。
正面には二つの入口があり、片方では診察を待つ人々が長椅子に座り、もう片方では探索者らしい男が仲間に肩を貸されて中へ入っていく。白い石壁は古いが、入口も窓もよく手入れされており、扉が開くたびに薬草と消毒薬の混ざった匂いが外まで流れてきた。
受付で管理院から渡された紙を出すと、女性職員は名前と所属を確認し、端に印を押した。仕事中の負傷としてすでに記録されているらしく、ルアンが財布を出す場面はなかった。
「二階の三番診察室へ。呼ばれるまで廊下で待っていてください」
「はい」
階段を上がる。
二階では、一階よりも人の出入りが多かった。包帯を巻いた男、杖をついた老人、母親に手を引かれた子どもが同じ廊下を行き交い、白い前掛けをつけた職員が盆や布を運んでいる。奥の方から金属の器具が触れ合う乾いた音が聞こえた。
壁際の長椅子へ座ろうとした時、廊下の向こうからフィナが歩いてきた。
「フィナ」
声を掛けると、フィナが顔を上げた。
いつもの服ではなく、淡い灰色の仕事着の上から白い前掛けをつけ、髪も後ろでまとめている。両手には小さな薬瓶と清潔な布を載せた盆を持っていた。
「ルアン。どうしたんですか?」
「腕の再診」
「ああ、この前の」
フィナは右腕へ一度だけ目を向けた。
「まだ痛みます?」
「ほとんど何も」
「ほとんど、なら診てもらってください」
「リサさんと同じこと言うんだね」
「たぶん、リサさんが正しいです」
少し笑ってから、フィナは盆を持ち直した。
「ごめんなさい。今、戻らないと」
「うん。仕事中だもんね」
「あとでまだいたら、また」
そう言って、フィナは廊下の奥へ消えた。
普段、一緒にいる時のフィナとは少し違って見えた。話し方も声も同じなのに、歩く速さや周囲を見る目が迷宮の中とも食事の時とも違う。途中で看護の職員に声を掛けられると足を止め、短く何かを確認してから迷わず別の部屋へ入っていった。
やがて名前を呼ばれ、ルアンは三番診察室へ入った。
診察したのは前回とは別の中年の医師だった。右腕の腫れを確かめ、肘と手首を曲げ伸ばしさせてから、何本かの指で前腕を順番に押していく。
「ここは?」
「平気です」
「これは」
「少しだけ張る感じがあります」
「痛みじゃない?」
「はい」
次に握力を確かめられ、左右の手を何度か開閉する。指先の感覚にも問題はなく、医師は記録用の紙へ二、三行書き込んだ。
「もう通常の作業に戻っていい。ただし、数日は同じ腕へ強い負荷を続けないこと」
「治癒術は使わなくていいんですか?」
医師の手が一度止まった。
「使いたい?」
「いえ。前にフィナに治してもらったことがあるから、使うのかなって」
医師はルアンの腕をもう一度見た。
「これは放っておいても治る。悪くなってもいない。だったら今は必要ない」
それ以上の説明はなかった。
診察を終えて廊下へ戻ると、さっきより人が増えていた。階段の方から急いだ足音が聞こえ、二人の男が一人の探索者を支えながら上がってくる。右脚の布が膝下から赤く染まり、床へ血が落ちないよう上からさらに布を巻かれていた。
職員がすぐに駆け寄る。
「処置室へ。歩かせないで」
「石段で滑った。壁の破片に脚を持っていかれた」
「いつ?」
「一時間くらい前だ」
男は顔をしかめながら運ばれていった。
ルアンは通路を空けるため壁際へ寄った。処置室の扉が開き、何人かの職員が中へ入る。その中にフィナの姿もあった。
帰ろうとしていた足が、少しだけ止まった。
扉の向こうを覗くつもりはなかったが、忙しいためか完全には閉められず、中から声だけが聞こえてくる。水を運ぶ音、布を切る音、それから負傷した男が低く息を吐く声が続いた。
「傷、開きます」
フィナの声だった。
次いで医師が何かを指示し、水の音が長く続いた。
「痛っ……! 先に治してくれないのか」
「今は閉じません」
さっきまでより少し低い、仕事中のフィナの声だった。
ルアンはそのまま壁際に立ち、処置室の中から聞こえてくる声に耳を傾けた。
しばらくすると、血のついた布を入れた器を看護の職員が運び出してきた。布の上には細かな灰色の石粒がいくつか付着している。傷口へ入り込んでいたものらしい。
処置室の中では、まだ洗浄が続いていた。
「もう一度」
「はい」
水の音が止まり、今度は静かになる。
そのあとで、フィナの声がした。
「始めます」
ルアンには中で何が起きているのか見えなかった。けれど少し経つと、負傷した男の荒かった呼吸がゆっくりになっていった。
さらに何分かして、フィナが処置室から出てきた。
手を洗ったばかりなのか、指先がまだ濡れている。顔色はいつもより少し白く、扉の横で一度だけ長く息を吐いた。ルアンに気づくと、少し驚いたように目を上げる。
「まだいたんですか?」
「今、終わったところ」
「腕は?」
「もう普通に仕事していいって。ただ、しばらく無理するなって」
「よかったです」
フィナはそう言って笑ったが、すぐに手元へ視線を落とした。右手の指を左手で軽く握り、ゆっくり開いている。
治癒術を使ったあとの癖だと、ルアンは知っていた。
「さっきの人、大丈夫?」
「はい。傷は深かったですけど、大きな血管までは傷ついていませんでした」
フィナは処置室の扉へ目を向けた。右手の指をまだ少し気にしているようで、左手でゆっくり揉んでいる。
「ただ、傷の中に石の粉がかなり入ってたんです」
「だから、ずっと洗ってたの?」
「はい。残したまま傷を閉じると、中で悪くなることがありますから」
ルアンは、さっき運び出された器を思い出した。血のついた布の上に、細かな灰色の石粒がいくつも張りついていた。
「でも、フィナなら最初から傷を閉じることはできたんだよね」
「できます」
返事は迷わなかった。
「じゃあ……治せるのに、治さなかったの?」
「はい。先に治したら駄目だったので」
フィナは自分の手を開いて、指先を一度確かめた。
「治癒術を使えば、傷は早く閉じます。でも、閉じる前に取らなきゃいけないものが残ってる時もあります」
「だから、医師が中を見てから?」
「はい。洗って、石を全部取って、それから先生に確認してもらいました」
ルアンは黙って処置室の扉を見た。
フィナが迷宮の中で傷を治すところは何度も見ている。血を止め、裂けた皮膚を閉じ、痛みに耐えながら人の身体へ力を通す。その手があれば、怪我をしたら早く使うほどいいのだと、どこかで思っていた。
「治せるからって、すぐ治していいわけじゃないんだ」
「はい」
フィナは小さく頷いた。
「治せることと、今それをしていいことは、別です」
ルアンは黙って聞いた。
フィナが迷宮の中で傷を治すところは何度も見ている。血を止め、裂けた皮膚を閉じ、痛みに耐えながら人の身体へ力を通す。その手があれば、怪我をしたらすぐ使うものだと、どこかで思っていた。
処置室から、さっきの医師が顔を出した。
「フィナ、次。四番」
「はい」
返事をした瞬間、フィナの表情が戻った。
「じゃあ、また」
「うん。仕事頑張って」
「ルアンも腕、ちゃんと休ませてくださいね」
「もう三人に言われた」
「じゃあ大丈夫ですね」
今度は少しだけいつものフィナらしく笑い、廊下の先へ小走りで向かっていった。
ルアンは階段を下りる前に、もう一度処置室の方を見た。中では医師が傷の状態を確かめ、看護の職員が新しい布を準備している。フィナが治癒術を使ったのは、傷を見つけてすぐではなかった。
洗って、異物を取り除き、医師が中を確かめたあとだった。
外へ出ると、すでに日は落ちかけていた。冷たい風が通りを抜け、ルアンは修理した外套の前を閉じる。右腕を軽く曲げてみると、診察室で言った通り、わずかな張りがあるだけだった。
そのまま歩き出してから、工具鞄を右肩へ移しかける。
イネスの言葉が頭に浮かび、左へ戻した。
今日はそのまま帰ることにする。
背後では白樹療院の扉が何度も開き、そのたびに人が入り、人が出ていった。治せる傷を持った人間も、治癒術を使わずに帰る人間も、その同じ扉を通っていた。




