第51話 片方の肩
仕事を終えたルアンは、借りていた焦げ茶色の外套を着て大門市場へ向かった。
イネスに言われた二日が経っている。今日はミレーナと約束しているわけでもなく、店へ行くのは一人だった。市場の手前で大通りを外れ、靴屋と革細工店の間にある細い道へ入ると、糸巻きと針を組み合わせた木の看板が見えてきた。
二日前に一度来ただけなのに、道はもう覚えていた。
扉の前まで来たところで、ルアンは借り物の外套の前を何となく手で払った。汚してはいないし、迷宮にも着ていっていない。分かっているのに、店へ入る前に袖口まで見てしまった。
扉を開ける。
「いますか?」
「いるわよ」
奥から返ってきた声に、ルアンは少し笑った。
作業台の向こうでは、イネスが濃い緑色の布へ針を通していた。髪は前に会った時と同じように後ろでまとめられているが、今日は袖を肘の少し下まで上げている。ルアンを見ると手を止め、少しだけ眉を上げた。
「あら。一人なのね」
「外套を取りに来ました」
「見れば分かるわよ」
「それ、よく言いますね」
「分かることを聞く人が多いから」
イネスは針を布へ刺したまま立ち上がった。
ルアンが外套を脱いで差し出すと、まず袖口を見て、それから裾を裏返した。返却する服の確認まできちんとするらしい。
「無事ね」
「信用なかったんですか?」
「迷宮に着ていくなって言われたでしょ」
「行ってません」
「よろしい」
言い方が少しだけ子ども扱いのように聞こえたが、ルアンは何も言わなかった。
イネスは借り物を店の奥へ運び、代わりに一着の外套を持って戻ってきた。見慣れた暗い色の布地だったが、脇から背中にかけて新しい布が入っている。色はほとんど同じなのに、よく見れば織りの細かさが少し違った。
「できてる」
「……きれいですね」
裂けていた跡はほとんど分からない。裏側を見ると、新しい布が破れたところより広い範囲へ入れられ、反対側の脇にも補強が施されていた。毛羽立っていた袖口も縫い直され、以前より少しだけ形が整っている。
「ここだけ替えたんですか?」
「脇から背中まではね。全部替えたら高くなるもの」
「それは助かります」
「そこは即答なのね」
イネスが笑う。
「着てみて」
「はい」
ルアンは外套へ腕を通した。肩を入れ、前を留めてから両腕を軽く動かしてみる。新しい布の部分には少し硬さがあったが、突っ張る感じはなく、破れる前よりむしろ背中が動かしやすい気がした。
イネスが正面から肩の位置を見る。
「腕、上げて」
「こうですか?」
「もう少し」
ルアンが両腕を上げると、イネスは脇の布が引かれる位置を確かめ、背中側へ回った。指先で肩甲骨のあたりを軽く押さえ、今度は片腕ずつ前へ伸ばさせる。
「どこか突っ張る?」
「ないです」
「じゃあ大丈夫ね」
ルアンは腕を下ろし、袖口を見る。
「前より動きやすい気がします」
「破れかけた布でずっと着てたんだから、そりゃそうよ」
「そんな前から破れかけてたんですか?」
「破れたのは最近。でも、その前から布は弱ってた」
イネスはルアンの右肩へ手を置き、外套の表面を指でなぞった。
「それより、こっち」
「何かあります?」
「いつも荷物、右で持ってるでしょ」
ルアンは肩越しに自分の右側を見た。
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて、ほとんど右ね。こっちだけ擦れ方が違うもの」
イネスは右肩から脇へかけて、古い布の表面を指で追った。言われて見比べると、確かに左より右の方が毛羽立ちが多く、色もわずかに薄くなっている。
「工具鞄も?」
「右が多いです」
「仕事以外の鞄も?」
「……右ですね」
「やっぱり」
イネスは少し呆れたように息を吐いた。
「時々替えた方がいいわよ」
「肩に悪いから?」
「肩にも悪いし、服にも悪い」
後半の方が、この店では重要らしい。
「左右で持ち替えるだけで違うんですか?」
「毎日同じところを擦らなくなるからね。あと、身体の使い方も片寄りにくい」
「なるほど」
ルアンは自分の右肩を触った。これまで鞄をどちらへ掛けるかなど、考えたこともなかった。空いている手や工具の出しやすさで決めているうちに、いつの間にか右側が当たり前になっていたらしい。
「そういうのも服を見れば分かるんですね」
「服は毎日着るでしょ。本人より覚えてることもあるわよ」
「僕の服なのに?」
「あなた、自分の袖口が薄くなってるのも気づいてなかったじゃない」
「……そうでした」
言い返せなかった。
イネスは満足したように頷き、外套の襟を軽く直した。肩へ添えられた指が思ったより近く、ルアンはなぜか少しだけ息を詰めた。
別に変なことをされているわけではない。外套の具合を見てもらっているだけなのに、さっきから肩や背中へ触れられるたび、妙にその手を意識してしまう。
イネスが正面へ回ると、今度はどこを見ればいいのか分からなくなった。目を合わせるのも落ち着かず、かといって露骨に逸らすのも変な気がして、ルアンは結局、作業台の上に並んだ糸巻きへ視線を逃がした。
「これで終わり」
「あ、はい」
返事が少し遅れた。
イネスは気にした様子もなく作業台へ戻り、小さな紙へ修理した箇所を書きつけた。
「銀貨二枚と、銅貨を少し」
「最初に言ってたくらいですね」
「中を開けても思ったほど傷んでなかったから。袖口の補強もそれで入ってる」
「よかった」
ルアンは財布を取り出し、銀貨を二枚置いてから銅貨を数えた。今月の残りを頭の中で引いてみる。余裕があるとは言えないが、食事を削るほどではない。
数え終えるまで、イネスは急かさず待っていた。
「ちょうどね」
「はい」
財布をしまったところで、ルアンは修理された右脇をもう一度触った。しっかりした布の感触が指へ返ってくる。
「これで、また三年くらい着られます?」
「それはあなた次第」
「三年は無理?」
「迷宮で猿に引っかかれなければ、もう少し持つんじゃない?」
「そこまで聞いてるんですか」
思わずイネスを見る。
「ミレーナが言ってた」
「……何を?」
「外套を破ったのは魔物。本人は無事。修理代をものすごく気にしてたって」
「最後のはいらなくないですか?」
「一番よく分かったけど」
イネスが声を立てずに笑った。
ルアンは少しだけ困って、外套の前を留め直した。ミレーナが何をどこまで話したのか、今度会ったら確認した方がいい気がする。
「じゃあ、帰ります」
「うん。また何かあったら持ってきて」
「破れたら?」
「破れる前でも」
前にも似たことを言われた。
ルアンは扉へ向かい、取っ手へ手を掛けたところで一度振り返った。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。今度は右肩だけ先に駄目にしないでね」
「気をつけます」
店を出ると、夕方の空気は二日前より少し冷たくなっていた。けれど修理された外套の中へ風は入らず、肩を動かしても脇の布が開くことはない。
大通りへ戻る途中、ルアンはいつものように鞄を右肩へ掛けようとした。
途中で手が止まる。
少し考えてから、左肩へ掛けた。
慣れていないせいで、歩くたびに鞄の位置が微妙に気になる。何度か肩を動かして落ち着く場所を探しながら、大門市場へ続く道を歩いた。
三年も着ていた外套なのに、自分では気づいていなかったことがある。
右肩の擦れ。薄くなった袖口。破れる前から弱っていた布。
服を見ているだけなのに、イネスにはずいぶん色々分かるらしい。
ルアンは左肩の鞄を一度持ち直した。
少し歩きにくかったが、今日はそのまま月兎亭まで帰ることにした。




