第50話 いつもの仕事
翌朝、月兎亭の階段を下りていくと、マーサがルアンの姿を見て手を止めた。
「見ない外套だね」
「借り物」
「買ったんじゃないのかい」
「僕のは修理中。二日だけ貸してもらったんだ」
昨日イネスから借りた焦げ茶色の外套は、やはり少し大きかった。袖をきちんと伸ばすと指の付け根近くまで隠れ、肩にもわずかな余りがある。それでも破れ目から風が入ってこないだけで、朝の寒さはずいぶん違った。
マーサは鍋を混ぜながら、ルアンの肩から袖口まで眺めた。
「ちゃんとした仕立てだね」
「分かるの?」
「それくらいはね。坊やより長く服着てるんだから」
「僕だって十五年着てるよ」
「まだ十五年しか、だろ」
言い返せなかった。
椅子へ座ると、黒パンと湯気の立つスープが置かれた。昨日の夕食より具は少なかったが、朝にはこれくらいがちょうどいい。ルアンはパンを浸しながら、借り物の外套を汚さないよう椅子の背へ丁寧に掛けた。
「珍しく扱いがいいね」
「借り物だから」
「自分のもそれくらい大事にしな」
「大事にしてたよ」
「大事にして脇から背中まで破れるのかい」
「それは僕のせいじゃないって」
マーサは笑いながら厨房へ戻った。
迷宮管理院へ着くと、ルアンは借りた外套を更衣室の奥へ掛け、仕事着へ着替えた。迷宮の中へ持ち込むつもりはない。昨日ミレーナからも念を押されたし、何より人から借りた服を魔物の爪で裂くようなことになれば、今度こそ修理代だけでは済まない気がした。
点検室へ入ると、ダグはすでに今日の表を広げていた。向かいの机ではリサが何枚かの報告書を仕分けており、その横には昨日見た六十二年前の地図が丸めた状態で置かれている。
「おはようございます」
「おう」
「おはよう。腕は?」
「もう大丈夫です」
リサはそれだけ確かめると、すぐ手元の書類へ視線を戻した。昨日セインと一緒に療院へ寄った際にも、腕は休ませれば問題ないと言われている。ルアン自身、朝起きた時に何度か曲げ伸ばしして確かめてきた。
ダグが一枚の点検表を差し出す。
「今日は東十二から十九。通常点検」
「昨日の場所は?」
「今日は行かねえ」
「調べないんですか?」
口にしてから、少し早かったかと思った。
リサが書類から顔を上げる。
「調べるわよ。別の人が」
「別の人?」
「オズと測量班。昨日の古地図も一緒に見てもらうことになってる」
ルアンは丸められた地図へ目を向けた。自分たちが見つけた窪みと、六十二年前の地図に描かれた形。その続きがどうなるのかは気になったが、今日の点検表には東側の番号が並んでいる。
「僕は行かなくていいんですか?」
「行く必要あるか?」
「……ないです」
ダグに返され、ルアンはもう一度表を見た。
昨日までなら、少し無理にでも同行する理由を探していたかもしれない。けれど寸法を測るなら測量班の方が上手いし、古い設備を見るならオズの方が詳しい。自分がそこに加わったところで、できることが増えるわけではなかった。
リサはそのまま書類へ視線を戻した。
「何かあれば共有するわ。今日はいつもの仕事をお願い」
「はい」
迷宮そのものに異変が起きていても、浅層の導灯は毎日使われる。消耗した部品も出れば、汚れも溜まり、留め具も緩む。調査が始まったからといって、そちらまで止めるわけにはいかなかった。
工具を揃えて大門へ向かう途中、ダグがルアンの横へ並んだ。
「外套どうした」
「修理に出しました」
「珍しいな」
「何がです?」
「お前が壊れる前に直す気になったこと」
「壊れた後です」
「じゃあ普通だな」
昨日の破れ方を思えば、何も言い返せない。
「代わりのは?」
「借りました」
「迷宮には持ってくんなよ」
「ミレーナにも同じこと言われました」
「なら二人分聞いとけ」
どうして周りの人間は同じことを言うのだろうと思いながら、ルアンは迷宮大門をくぐった。
東十二号までは人通りが多く、探索者や回収士と何度もすれ違った。第4章で異変が続いてからも、浅層の景色そのものは大きく変わっていない。青白い導灯が一定の間隔で続き、石床には荷車の車輪跡や靴底の泥が残り、壁際では管理院の職員が通行の邪魔にならないよう補修材を運んでいる。
十二号は異常なし。十三号も光量、魔石、固定部に問題はなかった。
十四号でルアンが外殻を開けている間、ダグは少し先の壁際で通路標を確かめていた。内部の汚れを拭き、導線の接続を順番に見ていく。最近は異常という言葉を何度も聞いているせいか、普段なら気にしない小さな変色まで目に止まった。
黒ずんでいるように見えた導線を布で軽く拭く。
汚れだった。
「……普通か」
思わず口にすると、少し離れたところからダグが振り向いた。
「何が」
「何でもないです」
十四号を閉じ、点検表へ異常なしと記す。
十五号では固定環にわずかな緩みがあり、締め直した。十六号は魔石の表面に薄く埃が付着していたため清掃する。十七号まで来たところで、次の導灯の光が一度だけ小さく揺れた。
ルアンの足が少し遅くなる。
ダグも見ていたらしく、何も言わず十八号の前まで進んだ。
光は点いている。周囲も暗くない。床へ落ちる影も、壁へ届く光も、それまでの導灯と変わらなかった。
ルアンはしゃがんで外殻を開けた。
魔石に濁りはない。導線にも焼けは見当たらないが、一番下の接続部へ指を当てると、金具がわずかに動いた。
「あ」
固定具を外して確認すると、内側の留め金がすり減っている。珍しい故障ではなかった。長く使った導灯なら時々出るもので、振動が重なると一瞬だけ接触が悪くなる。
「留め金が減ってます」
「交換」
「はい」
工具鞄から同じ規格の部品を出し、新しいものへ取り替える。締めたあとに二度軽く揺らして接続を確認すると、魔石の光は安定したまま変わらなかった。
ダグが横から覗き込む。
「終わりか」
「終わりです」
「じゃあ閉めろ」
ルアンは外殻を戻した。もっと何か言われるかと思ったが、ダグはすでに十九号へ向かっている。
「ダグさん」
「何だ」
「今の、普通の故障ですよね」
「普通の故障だな」
「なんか、ちょっと安心しました」
「故障して安心すんな」
もっともだった。
昼は迷宮内の休憩所で黒パンと干し肉を食べた。周囲では探索者たちが朝の成果を見せ合い、管理院の職員が作業予定を確認している。誰かが大声で笑い、その向こうでは靴を脱いだ男が踵の豆を潰していた。
ルアンは水を飲みながら、午前中の点検表を見直した。
異常なし。清掃。固定環の増し締め。留め金の交換。
見慣れた言葉ばかりだった。
「昨日までと変わりませんね」
「何が」
「仕事です」
「変わったら困る」
ダグは干し肉を噛みながら答えた。
「迷宮で変なことが起きてるからって、全部の灯りが急に変になるわけじゃねえ。普通に古くなる奴もいりゃ、普通に汚れる奴もいる」
「はい」
「変なの探しに行って、普通の故障見落とす方が馬鹿だぞ」
「それは嫌ですね」
「なら食え。午後もある」
言われて、残っていた黒パンを口へ入れた。
午後は十五号から少し離れた南東側へ回り、交換時期の近い導線をまとめて取り替えた。途中からダグは隣の導灯を担当し、ルアンは一基を最初から最後まで任された。
工具を置く位置を決め、外殻を外し、古い導線を抜く。新しい導線の長さを合わせ、接続部を締めてから光量を確認する。ダグが横にいなくても手順は頭に入っており、一度も呼ばずに作業を終えた。
閉じる前に、もう一度内部を見る。
導線の位置。固定具。魔石。工具の置き忘れがないこと。
全部確かめてから外殻を戻した。
「終わりました」
「見た」
「いつから見てたんです?」
「途中から」
「何か言ってくださいよ」
「言うことなかった」
ダグはそれだけ言って先へ歩き出した。
ルアンは少し遅れてその背中を追った。褒められたわけではない。けれど、横から手を出されなかったことは、悪いことではない気がした。
管理院へ戻った頃には、外はもう夕方に近かった。
ルアンは作業台で点検表を清書し、十八号の欄に留め金の摩耗と交換済みであることを記した。原因の欄へ一度「振動による摩耗」と書きかけ、手を止める。
実際に見たのは、留め金がすり減っていたことだけだった。
ルアンは書きかけた文字を消した。
《《留め金摩耗。交換後、光量安定。》》
それだけにする。
提出すると、リサが目を通した。
「原因は?」
「分かりません。摩耗してたことまでは確認しました」
「そう」
リサは紙を机の上へ置いた。
「これでいいわ」
短い返事だったが、ルアンにはそれで十分だった。
部屋の奥では、オズが古い地図を広げて何かを書き写していた。近くには測量班の職員もいて、昨日見つかった窪みの話をしているらしい。ルアンはそちらへ一度目を向けたが、声を掛けることはしなかった。
自分の点検表は終わっている。今日の仕事も終わった。
更衣室で仕事着を脱ぎ、借りていた焦げ茶色の外套へ腕を通す。少し長い袖を手首まで戻し、前を留めると、朝と同じ暖かさが身体を包んだ。
管理院を出る前に振り返ると、ダグは明日の点検表を確認していた。リサは別の報告書を読み、オズはまだ古い地図の上へ顔を寄せている。
迷宮で何かが起きていても、管理院の一日はそれだけでは終わらない。
ルアンは扉を開け、冷え始めた夕方の通りへ出た。明日になればまた汚れた導灯があり、緩んだ金具があり、交換を待つ導線がある。
少なくとも今夜、浅層に並ぶ灯りは、いつも通りの青白い光を通路へ落としていた。




