第49話 まだ着られる
迷宮管理院を出たところで、冷たい風が破れ目から入り込んだ。
ルアンは反射的に左腕を身体へ寄せた。外套の脇から背中にかけて裂けた布は、立っているだけならそれほど目立たないが、腕を動かすたびに隙間が広がる。中に冬服を着ていても、風が直接入ってくればさすがに寒かった。
「だから、そっち押さえながら歩いてるの?」
「開くと寒いんだよ」
「見れば分かるわよ」
隣を歩くミレーナは、破れた外套をもう一度横目で見た。迷宮大門の前でセインとフィナとは別れている。セインは念のため白樹療院へ寄ることになり、フィナもそちらへついていった。
ルアンはそのまま月兎亭へ戻るつもりだったが、外套を見たミレーナに止められた。
「本当に直せる人、知ってるの?」
「知ってるから連れていってるの」
「高くない?」
「それは本人に聞いて」
「高い人?」
「だから本人に聞いて」
そこだけは何度聞いても答えてくれなかった。
大門市場へ向かう通りは、夕方を前に人が増え始めていた。晩の仕入れを急ぐ料理屋の人間や、迷宮から戻ってきた探索者、荷車を押す商人たちの間を抜けていく。市場の手前でミレーナは大通りを外れ、細い横道へ入った。
「こっち?」
「そう。イネスの店、大通りから一本入ったところにあるの」
「ずいぶん詳しいね」
「何度か来てるから。使えるものに余計なお金払うの嫌いなの」
「ミレーナらしい」
言ってから、褒めたつもりだったのに睨まれた。
横道には靴屋や革細工店、小さな金物屋が並んでいた。探索者向けの派手な看板は少なく、店先に置かれているのも仕事着や鞄、道具入れといった実用品が多い。その中ほどに、糸巻きと針を組み合わせた小さな木の看板が下がっていた。
ミレーナはためらわず扉を開ける。
「いる?」
「いるわよ」
店の奥から女の声が返った。
中へ入ると、外より少し暖かかった。壁際には巻かれた布が何本も立てられ、反対側の棚には糸や留め具、革片が細かく分けて置かれている。入口近くには普段着らしい服もあったが、奥へ行くほど丈夫な仕事着や手袋、探索者が使いそうな厚手の衣服が増えていた。
大きな作業台の向こうで、女が一人、布へ線を引いていた。
年は二十代半ばくらいだろうか。髪を後ろでまとめ、身体に合った濃い色の服の上から細身の作業用前掛けを着けている。華美ではないのに、袖の長さも腰回りもきれいに収まり、立っている姿までどこかすっきりして見えた。
背丈は今のルアンよりわずかに高い。細い指で布を押さえる仕草にも無駄がなく、顔を上げた時の目元には大人びた柔らかさがあった。
ルアンは一瞬だけ返事を忘れた。理由はよく分からない。ただ、なぜか急に自分の立ち方が気になって、少しだけ背筋を伸ばした。
「また破ったの?」
女はルアンではなく、ミレーナを見て言った。
「私じゃない」
「じゃあ何。今度は縮んだ?」
「違う。こっち」
そこで初めて女が顔を上げた。
ミレーナの隣に立つルアンを見る。
「……珍しいわね」
「何が?」
「あなたが男の子連れてくるの」
「そういうのじゃないから」
「まだ何も言ってないけど」
「言う前に止めたの」
ミレーナの返事が妙に速かった。
ルアンは二人を交互に見てから、自分の外套の破れ目をつまんだ。
「これ、直せますか?」
女の視線がルアンの顔から外套へ移った。
「脱いで見せて」
言われた通り外套を脱ぎ、作業台へ置く。女は破れた箇所だけを見るのではなく、前身頃から背中、袖口、裾まで順番に手で確かめていった。布を指で挟んで厚みを見たり、擦れて白くなったところを光へ向けたりしている。
「何年着てる?」
「三年くらいです」
「ずいぶん働かせたわね」
破れた脇へ指を入れ、裂け目を少し広げる。爪の跡は脇の下から背中側まで伸び、その周辺もかなり薄くなっていた。反対側にも同じような擦れがあり、こちらはまだ裂けてはいないものの、布そのものが柔らかくなっている。
「そこだけ縫えば直るかなと思ったんですけど」
「直らないわね」
「やっぱり?」
「縫うだけなら今日できる。でも、たぶんまたすぐ破れる」
女は裂けた部分の少し外側を指でなぞった。
「ここ。布がもう弱ってる。裂けたところだけ閉じても、その隣から開くわ」
「じゃあ、買い替えですか?」
ルアンの声がわずかに低くなった。
その変化に、ミレーナが横で小さく笑う。
「まだ値段聞いてないでしょ」
「買い替えだったら高いよ」
「知ってるわよ」
女もルアンを見ていた。
「もう一度着てみて」
「破れてますけど」
「だから見るの」
言われて、ルアンは外套へ腕を通した。破れた左側を気にしながら前を留めると、女は正面へ立ち、肩の位置を見てから背後へ回った。
「腕、上げて」
「こうですか?」
「もう少し。どこか突っ張る?」
「ないです」
左右の腕を順番に上げ、前へ伸ばす。女は肩や背中の布が引かれる場所を見てから、今度は腰の辺りを軽く引いた。
「下ろしていいわよ」
ルアンが腕を下ろすと、女は少し離れて全体を見る。
「まだ着られるわね」
「本当ですか?」
思わず声が明るくなった。
「今の身体には少し大きいくらい。来年もたぶん大丈夫。ただし、ここだけ縫うのは駄目」
「どう直すんです?」
「脇から背中にかけて一度開いて、弱ってるところをまとめて替える。反対側も内側から補強。袖口もついでに直した方がいいわね」
ルアンは自分の袖口を見た。そこまで気にしたことはなかったが、確かに端が擦れて毛羽立っている。
「袖は破れてないですけど」
「破れてから直すより安いわよ」
「……そうですか」
ルアンは毛羽立った袖口を見直した。言われてみれば、裂けてから直すより、今のうちに補強しておく方が余計な手間もかからない。
「納得するの早いわね」
「安く済むなら、その方がいいので」
「やっぱり気が合いそうね、イネス」
「何が?」
「そういうところ」
イネスはルアンを見て、少しだけ笑った。
「それなら、袖口も見ておくわ」
外套を作業台へ戻し、白い印をつける細い道具で布の裏側へ何本か線を引く。その途中で、イネスがふと手を止めた。
「そういえば、ちゃんと名乗ってなかったわね。イネス・ローデ。ここの仕立てをやってるわ」
「ルアンです」
「そう。じゃあルアンね」
あっさりした返事だった。
イネスは外套を裏返し、内側の縫い目を確かめている。ルアンは隣からその手元を見ていたが、糸の走り方も布の重なり方も、自分が導灯を見る時とはまるで違っていて、何を確かめているのかほとんど分からなかった。
「いつできますか?」
「急ぐ?」
「外で着るものがなくなるので」
「それは急ぐわね」
イネスは少し考えてから、店の奥へ入っていった。しばらくして戻ってきた時には、焦げ茶色の外套を一着抱えている。
「これ使って」
「え?」
「貸し出し用。少し大きいけど、今のより風は入らない」
「借りていいんですか?」
「凍えて帰られても困るもの」
差し出された外套を受け取り、ルアンは広げてみた。飾り気のない丈夫そうな作りで、何度か使われた跡はあるものの、袖口も留め具もきちんと手入れされている。
「これも、お金かかります?」
「あなた、最初からそればっかりね」
「大事なので」
「修理代に入ってるわよ」
それを聞いてから腕を通した。
確かに少し大きい。袖は指の付け根近くまであり、肩もわずかに余るが、前を留めると破れた外套よりずっと暖かかった。
「悪くないじゃない」
「大きくない?」
「少しね」
ミレーナが横から袖をつまむ。
「でも、これくらいなら普通に歩けるでしょ」
「うん。仕事じゃなければ」
「迷宮には着ていかないでよ。貸し物なんだから」
「分かってるよ」
イネスは二人のやり取りを聞きながら、預かった外套を畳んだ。
「二日ちょうだい。急げば明日でもできるけど、裏までちゃんと見たいから」
「二日で大丈夫です」
「じゃあ明後日の夕方。できてなくても怒らないこと」
「できてないこともあるんですか?」
「あるわよ。人間がやってるんだから」
さらりと言われて、ルアンは少し笑った。
外套を預け、借り物の前を留め直して扉へ向かう。ミレーナも先に外へ出ようとしていたが、ルアンは取っ手へ手を掛けたところで足を止めた。
何か忘れている。
振り返ると、イネスはもう作業台で次の布を広げていた。
「……あの」
「何?」
「結局、いくらぐらいですか?」
一拍置いて、ミレーナが吹き出した。
イネスも手を止め、ルアンを見る。
「まだ聞いてなかったわね」
「ずっと聞こうと思ってたんですけど」
「聞けばよかったじゃない」
「直せるかどうかの方が先かなと思って」
イネスは預かった外套へ視線を落とし、修理する箇所を指で数えた。
「脇と背中の布を替えて、反対側を補強。袖口も両方。中を開けて想像以上に傷んでなければ、銀貨二枚と銅貨を少し。増えても三枚まではいかないと思う」
「……それなら、大丈夫です」
ルアンはすぐに答えた。
頭の中では、すでに今月残っている金を数えている。少し痛い出費ではあるが、新しい外套を買うよりはずっといい。何より、まだ三年着たものを捨てなくて済む。
イネスがその顔を見て笑った。
「本当に分かりやすいわね」
「え?」
「何でもない」
隣でミレーナまで笑っている。
「何?」
「別に」
「二人ともそれ言うんだけど」
理由を教えてもらえないまま、店を出た。
横道へ出ると、日が傾き始めていた。建物の間を抜ける風は冷たかったが、借りた外套の中までは入ってこない。ルアンは歩きながら袖口を一度引き、少し余った布を手首の上へ戻した。
「いい人でしょ」
「うん」
「腕もいいわよ。探索者の服も直してるし、仕事着の作り直しもしてる」
「ミレーナもよく頼むの?」
「必要な時だけ。安くはないから」
「やっぱり安くはないんだ」
「ちゃんと直す人が安いわけないでしょ」
なるほど、とルアンは頷いた。
安いことと、無駄に払わないことは同じではないらしい。その辺りは、銀貨一枚でも値段を気にするミレーナがイネスのところへ来る理由を考えれば分かる。
大通りへ戻る手前で、ルアンは借りた外套の前をもう一度確かめた。二日間だけの服なのに、留め具は緩んでおらず、袖口にもほつれはない。
「まだ着られる、か」
「何?」
「何でもない」
三年使った外套は、もう駄目になったわけではなかった。
破れたところだけを見れば捨て時に思えたが、分かる人が見れば、まだ使える場所と直すべき場所が残っている。
ルアンは少し大きな借り物の袖へ手を入れたまま、夕方の大門市場へ続く道を歩いた。




