第47話 四人の間合い
前方の壁には一匹、後ろの通路には二匹いる。
ルアンは振り返ったまま、近づいてくる赤爪猿を見ていた。先頭の一匹は床を歩き、もう一匹は壁際へ寄っている。どちらもすぐに飛びかかってはこないが、赤い爪が石を掴むたび、小さな音が通路に響いた。
「フィナ、真ん中にいて。ミレーナは足元見ててくれ」
前を向いたまま、セインが言った。
「言われなくても見てるわよ」
「頼りにしてるって意味」
「だったら最初からそう言いなさい」
声はいつも通りだったが、ミレーナの目はセインではなく通路の床を追っていた。フィナも返事をせず、前後どちらにも寄れる位置を選んで立っている。
ルアンは足元に置いた防水布へ手を伸ばした。巻いたままなら両腕で抱えられる太さがあり、少なくとも爪を直接受けるよりはいい。乾いた一巻きを持ち上げて身体の前へ構えながら、右腕の内側を流れている力へ意識を戻す。
自脈へ通した力は、まだ身体のどこへでも自由に送れるわけではない。右肩から腕へ巡らせた流れを崩さないようにしながら、ルアンは二匹との距離を測った。
先頭の赤爪猿が姿勢を低くする。
「来る」
ミレーナの声とほとんど同時に、赤爪猿が床を蹴った。
ルアンは防水布を正面へ出した。赤い爪が厚い布へ食い込み、抱えていた腕へ衝撃が伝わる。足が半歩後ろへ滑ったが、右腕に巡らせた力で巻きを支え、押し返そうとはせずに身体ごと右へ向きを変えた。
赤爪猿の勢いが横へ流れ、爪が布を裂く。魔物の身体がルアンの脇を抜け、着地した前脚が細い水路の濡れた石へ乗った瞬間、身体がわずかに傾いた。
「そのまま!」
ミレーナの声に、ルアンは追わず、一歩だけ距離を取って二匹目へ視線を戻した。壁際にいた方はすでに低い位置まで登っており、ルアンの頭上を越える場所を探すように横へ動いている。
その前方では、別の爪が槍の柄を叩く音が響いた。
セインは壁から飛び降りてきた一匹を正面から受けず、槍の石突きを床へ滑らせながら身体を開いた。着地点をずらされた赤爪猿の足が水路の縁へ乗り、すぐに壁へ逃げようとする。
槍は、その前に動いていた。
穂先が脇腹へ入り、赤爪猿の身体が壁へぶつかる。セインは深く追い込まずに槍を引いて一歩下がり、もう一度正面へ穂先を向けた。赤爪猿は歯を剥きながら起き上がろうとしたが、片方の脚にうまく力が入らない。壁へ手を掛けたところで、セインが今度は迷わず踏み込み、短く突き出した槍が胸元を捉えた。
ルアンはその瞬間を最後まで見なかった。
頭上で石が鳴り、壁にいた二匹目がルアンたちの中央へ飛ぼうとしていた。
「上です!」
フィナの声が飛ぶ。
ルアンは防水布を持ち上げたまま振り返った。赤爪猿が見ているのは自分ではなく、その後ろにいるミレーナとフィナだった。
右腕へ巡らせた力を崩さないように腕を振り上げ、防水布の巻きを魔物の進路へぶつける。爪が布へ掛かり、三本の裂け目が一気に走った。重みが腕にのしかかって肩が沈んだが、手は離さない。布を蹴って離れようとする赤爪猿に合わせて足を動かしたところで、すぐ横からミレーナの声が飛んだ。
「ルアン、左!」
言われた方へ体重を移すと、右足のすぐ先には、先ほど一匹目が滑った水路があった。濡れた石を踏まずに済み、ルアンは布を抱えたまま身体を立て直す。
そこへ、最初の一匹が横から飛び込んできた。
二匹を同時には見られない。ルアンが防水布を構え直そうとした時、視界の端でフィナが動いた。前へ出るのではなく、壁際に置いてあった縄束を抱えて反対側へ移し、ルアンの後ろに空間を作る。
「下がれます」
その一言で、ルアンは迷わず一歩退いた。
赤爪猿の爪が鼻先を通る。さらに踏み込んでくる魔物へ防水布を斜めに当てると、今度は受け止めず、そのまま下へ落とした。
厚い布が赤爪猿の前脚へ絡む。魔物はすぐに爪を振って払い落としたが、そのわずかな間に、ルアンの横を槍が通った。
セインだった。
前の一匹を倒して戻ってきたらしい。走り込んだ勢いのまま突くのではなく、ルアンの横で一度足を止め、赤爪猿が布から脚を抜く瞬間に合わせて穂先を出す。
赤爪猿が身を捻り、槍は胸を外れて肩口を深く裂いた。それでも魔物は倒れず、そのままセインへ爪を振り下ろす。槍を引くより少し早く、赤い爪がセインの左腕を掠め、袖が裂けた。
「セイン!」
フィナの声が響く。
「大丈夫!」
セインは答えながら後ろへ飛び退き、傷を確かめることもしなかった。左腕はまだ動いており、血が袖へ広がっているものの、槍を支えられないほどではなさそうだった。
残っていたもう一匹は、その間に壁を駆け上がっている。ルアンが見上げると、赤爪猿は導灯の光の外側を移動しながら、セインたちの頭上へ回ろうとしていた。
前へ出れば傷を負った一匹がおり、下がれば壁から狙われる位置になる。
ミレーナも同じ場所を見ていた。
「セイン、壁の方は来ない」
「分かってる」
「分かってるならそっち見ないで」
セインは口元だけを少し歪め、肩を傷つけられた赤爪猿へ槍を向け直した。その動きを見た壁の一匹は、すぐには飛び込んでこない。
ルアンは右腕を一度下ろした。指先に細かな震えが残り、防水布で二度受け止めた衝撃とは別に、肘から先が薄く痺れている。
自脈へ通した力を右腕へ留め続けたせいだ。無理にもう一度受ければ、次も同じように動けるとは限らない。
ルアンは裂けた防水布を床へ置いた。
「セイン。僕が一回、こっちを動かす」
「一回でいい」
返事は早かった。
ルアンは頷き、肩を傷つけられた赤爪猿へ身体を向けた。倒そうとはせず、魔物との間を少しだけ詰めて止まる。
赤爪猿が歯を剥いてこちらへ身体を向けたところで、さらに半歩だけ左へ動いた。追うように魔物の前脚が動く。
その先には水路がある。
一度滑った場所を、もう一度同じように踏むとは限らない。赤爪猿も濡れた石を避け、身体を通路の内側へ寄せた。
そのぶん、セインとの間が狭くなる。
槍が伸びた。
赤爪猿は横へ逃げようとしたが、壁と水路の間には身体一つ分ほどしか乾いた場所が残っていない。セインの穂先を腕で払った直後、返された槍の柄が脇腹へ入り、魔物の身体が壁へ押しつけられる。
続く一突きが胸を捉え、赤爪猿の身体から力が抜けた。
セインは槍を引き、倒れた魔物からすぐに距離を取る。
「あと一匹」
壁にいた赤爪猿は動かなかった。
二匹の仲間が床に倒れ、セインの槍先から血が落ちている。ルアンたちがまだ立っているのを見た赤爪猿は、やがて低く鳴くと、四人とは反対側へ壁を走った。曲がり角の手前で床へ降り、そのまま奥へ消えていく。
セインが一歩追いかけた。
「追わないで」
ルアンが言うと、セインはそこで止まった。しばらく曲がり角を見てから槍を下ろし、小さく息を吐く。
「……だよな」
追えば、また何匹いるか分からない。何より四人の仕事は赤爪猿を討伐することではなく、回収した資材を持って戻ることだった。
ルアンが肩の力を抜くと、それまで気にならなかった右腕の痺れがはっきりした。手を開けば指は動くものの、力を入れると前腕の内側が細かく震える。
「ルアンさんも見せてください」
気づけば、フィナがすぐ横まで来ていた。
「僕は怪我してないよ」
「怪我してなくてもです」
右手を差し出すと、フィナはルアンの手首を軽く支え、指を順番に動かすよう言った。ルアンが言われた通りにすると、指先から前腕までを確かめてから手を離す。
「使いすぎだと思います。少し休ませてください」
「うん」
ルアンが素直に頷くと、そのやり取りを見ていたミレーナが横から口を挟んだ。
「ずいぶん素直になったわね」
「駄目なの?」
「いいことよ。前よりずっと」
ミレーナはそれ以上何も言わず、床に落ちていた防水布を拾い上げた。赤い爪で裂かれた部分は三か所あり、巻きを解いてみると表面だけでは済まず、何枚か重なった内側まで切れている。
「こっちはもう使い物にならないわね」
「……怒られるかな」
「腕から血を流しながら、そっち心配するの?」
「依頼品だし」
そこでフィナがセインの方へ振り向いた。視線を向けられたセインは、槍を持ったままほんの少しだけ後ずさる。
「フィナ、これはほんとに浅いから」
「見てから決めます」
「はい」
さっきまで三匹の赤爪猿を相手にしていた時より、ずっと素直な返事だった。
フィナはセインを壁際へ座らせ、裂けた袖をまくった。傷は左の前腕に三本あり、幸いどれも深くはない。水で汚れを流してから布を当て、腕を動かさないように手早く巻いていく。
その間にルアンとミレーナは、倒れた二匹の周囲を確認した。
戦いの最中についた爪痕や血の跡はすぐに分かる。それより前のものを探したが、同じ場所を何度も行き来したような傷も、食べ残しも、毛がまとまって落ちている場所も見当たらなかった。
ミレーナは曲がり角の先まで行かず、見える範囲の床を確かめる。
「ここに長くいた感じはしない」
「僕もそう思う」
ルアンは朝に通った時のことを思い返した。あの時には足跡も爪痕も気に留めなかったが、少なくとも三匹の赤爪猿がこの辺りに居座っているような様子はなかった。
いつ来たのかは分からない。どこから来たのかも分からない。
けれど、数時間前に四人が通った同じ補給路で、帰りには三匹と戦うことになった。そのことだけは、裂けた防水布と床に残る爪痕がそのまま残している。
「戻ろう」
ルアンが言うと、ミレーナが頷き、フィナもセインの腕を巻き終えて立ち上がった。セインは槍を右手だけで持とうとしたが、すぐに持ちにくそうな顔をする。
「俺の荷物、誰か頼める?」
「いいですよ」
フィナが答えた。
セインは一瞬黙る。
「……さっき、フィナには荷物を持たせないって言ったの、俺だよな」
「今はセインさんが持たない方がいいです」
「はい」
また素直に返事をしたので、今度はミレーナが笑った。
荷物を分け直し、裂けた防水布も捨てずに持って帰ることにした。報告するなら、実際に爪を受けたものがあった方がいい。
四人は周囲の音を確かめてから歩き始めた。
行きより歩調は遅かった。曲がり角へ近づくたびにセインが先を確かめ、ルアンも後ろを振り返る。ミレーナは床と壁を見ながら歩き、フィナはセインの左腕に血が滲んでこないか、ときどき視線を向けていた。
その後は、赤爪猿に出会わなかった。
見覚えのある補修跡を通り、細い水路を越え、一定の間隔で並ぶ導灯の下を進む。道の形は朝と変わっておらず、距離にも違和感はなかったが、四人とも往路ほどは喋らなかった。
大門へ続く広い通路が見えてきたところで、セインがようやく肩を下ろした。
「俺、今日はかなり働いたと思う」
「左腕は働かせないでください」
すぐ後ろからフィナが言う。
「今は歩いてるだけだよ」
「槍を持ってます」
「右手で」
「左手も添えてました」
セインが槍から左手を離した。
その様子を見て、ルアンは少し笑った。右腕にはまだ痺れが残り、裂けた防水布も二人で運ぶ荷物の間から端が垂れている。
それでも四人は、誰も欠けずに同じ道を戻っていた。




