↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
46/74

第46話 浅い場所の爪

二日後の朝、七番倉庫には四人が揃っていた。


セインは木箱に腰を下ろし、前日に四人で探索者組合へ寄った時に受けておいた依頼票を眺めている。ミレーナは隣から紙を覗き込み、フィナは持ってきた水筒を鞄(かばん)へしまっていた。


今日の仕事は、中層へ入る少し手前にある旧資材置き場から、防水布二巻きと予備の縄三束を回収するものだった。資材を別の保管場所へまとめることになり、使えるものだけを持ち帰ってほしいという依頼で、経路も現在使われている補給路だけを通る。


「これくらいなら、帰りもそんなに重くないな」


セインが依頼票を指で弾いた。


「乾いてればね」

「濡れてたら?」

「重くなるわよ。当たり前でしょ」


ミレーナはそう言いながら、自分の荷物を持ち上げた。


「じゃあその時は、ルアンと半分ずつ持つ」

「なんで僕なの?」

「俺より軽いもの持つつもり?」


ルアンが答える前に、フィナが鞄の口を閉じた。


「私も持ちますよ」

「ほら、フィナに怒られた」

「怒ってません」


言葉とは違って、フィナは少しだけ眉を寄せている。セインもそれ以上は言わず、依頼票を畳んで立ち上がった。


大門市場を抜ける頃には、朝の冷たさが少し緩んでいた。ルアンは仕事着の上から外套(がいとう)を羽織っていたが、迷宮大門をくぐってしばらく歩くと身体が温まり、いつものように外套を脱いで荷物へ括(くく)りつけた。


今日使う補給路は、ルアンも灯守(ともり)の仕事で何度か歩いている。


浅層の広い通路を抜け、緩やかな下りを進むと、中層手前の補給路へ合流する。壁の補修跡も、足元を流れる細い水路も覚えているものと変わらず、導灯(どうとう)も一定の間隔で点いていた。


途中、壁際を二匹の岩鼠(いわねずみ)が走った。


一匹は四人が近づく前に岩陰へ入り、もう一匹は離れたところから顔だけを出している。セインがそちらを見るとすぐに引っ込んだので、ミレーナが「嫌われてるんじゃない」と言った。


「俺だけ?」

「顔覚えられてるのかもね」

「初めて見る奴だと思うけど」

「向こうはそう思ってないかもしれないわよ」


セインは少し納得できない顔をしていたが、岩鼠を追いかける理由もなく、そのまま先頭へ戻った。


旧資材置き場までは、特に足を止めることもなかった。


壁を浅く掘り込んだ小さな空間には木棚が三段あり、防水布と縄は依頼票に書かれていた通り残っていた。隅には壊れた木箱や錆びた留め具も積まれていたが、それらは今回の回収対象ではない。


ミレーナは最初に防水布を広げ、端から順番に湿りと傷みを確かめた。下の一巻きには少し湿気が残っていたものの、布自体はまだ使えるらしい。


「こっちは少し重くなるわね」


ミレーナが湿った方を持ち上げると、セインが手を出した。


「じゃあ俺が持つ」

「さっきと話が違わない?」

「フィナに怒られたから考え直した」


フィナが振り向く。


「怒ってませんって」


今度はルアンも笑った。


縄も一本ずつ確認し、四人で荷物を分けた。セインが湿った防水布、ルアンが乾いた防水布を持ち、ミレーナは縄を二束、フィナは残った一束を自分から引き受けた。


ルアンは一度フィナの荷物を見たが、何も言わなかった。縄一束なら無理のある重さではなく、フィナ自身も持ち上げてから肩紐の位置を直している。


資材置き場を出ると、四人は来た道を戻り始めた。


荷物が増えたぶん歩調は少し落ちたが、足元が見えなくなるほど大きな荷物ではない。先頭のセインも時々後ろを確認し、フィナまで離れすぎていないことを確かめながら進んでいた。


水路の脇を過ぎ、緩い曲がり角へ差しかかったところで、セインの足が止まった。ルアンもすぐに歩調を緩める。


セインは振り向かず、槍を持つ手だけを少し下げた。何かを見つけたというより、聞こうとしているように見えたので、ルアンたちも声を出さずに待つ。


遠くで水の滴(したた)る音がする。


その間に、硬いものが石を擦る短い音が混じった。一度途切れ、少し間を置いて、また聞こえる。


セインが槍を肩から下ろした。


「前」


小さく言って、曲がり角を見る。


ミレーナは足元へ視線を落とした。壁際の砂には、来る時には気づかなかった細い筋が何本か残り、その先では石床の表面が浅く削れている。


「新しい」


しゃがまずに跡を見ながら、ミレーナが言った。


削れたところには細かな石の粉が残っている。人の靴で擦った跡とは違い、三本の細い傷がほぼ同じ間隔で並んでいた。


ルアンは持っていた防水布を壁際へ置いた。フィナも縄を下ろし、通路の中央を塞がない位置へ寄せる。誰かに言われたわけではないが、荷物を抱えたままでは動きにくいことを、四人とも分かっていた。


セインが曲がり角へ数歩近づいた、その時だった。


先を覗き込むより早く、上の方で石を蹴る音がした。セインが顔を上げるのと、黒い影が壁から落ちてくるのはほとんど同時だった。


半歩下がりながら槍を横へ構える。穂先ではなく柄で受けると、重いものがぶつかる鈍い音が通路へ響いた。


影は床を転がったが、すぐに四つ足で起き上がる。


石を掴んだ赤い爪を見て、ルアンにも分かった。


赤爪猿(あかづめざる)だった。


その姿には見覚えがある。以前、ルアンが一人で遭遇したことのある魔物だ。ただ、あの時よりもここは浅い。少なくともルアンがこれまで赤爪猿を見たのは、もっと迷宮の奥だった。この補給路で見たこともなければ、灯守の仕事で出没の話を聞いた覚えもない。


数時間前に四人で同じ場所を通った時にも、いたのは岩鼠くらいだった。


赤爪猿は低く喉を鳴らし、セインへ身体を向けた。


セインはすぐには槍を突き出さず、相手との間を保っている。赤爪猿の後ろは曲がり角になっており、その先に別の個体がいるかどうかは見えない。


「一匹」


セインが言った。


ルアンはセインの背後へ詰めず、来た道とフィナの位置を確かめた。ミレーナは荷物をさらに壁際へ寄せ、四人が動ける幅を空けている。


赤爪猿が先に動いた。


床を蹴り、低い姿勢のままセインへ飛び込む。赤い爪が槍の柄へ掛かったが、セインは正面から押し返さず、身体を半歩ずらして勢いを横へ流した。


片手を壁についた赤爪猿が、すぐに向きを変える。


「速いな」


セインの声はいつもより低かった。


ミレーナは赤爪猿ではなく、セインの右足の先を見ていた。


「そっち、濡れてる」


石床の端には、水路からこぼれた細い水が残っていた。セインは視線を落とさずに一歩だけ左へ動き、乾いた場所へ足を置き直す。


赤爪猿がもう一度跳んだ。


今度はセインの槍先が先に動く。大きく突き込むのではなく、飛び込んでくる肩口を浅く払うと、灰褐色の毛の下に赤い線が走った。


甲高い声を上げた赤爪猿は床へ降りず、そのまま壁へ飛びつく。指が石の隙間を掴み、一息で人の頭より高い位置まで登った。


「上にいます」


フィナが顔を上げる。


セインも槍先を持ち上げた。


壁に張りついた赤爪猿は、肩から流れる血を一度舐めた。それでも逃げる様子はなく、四肢を縮めながらセインを見下ろしている。


ルアンはその動きを見ながら、自分の位置を少し変えた。


セインが前で受けている間は、余計に近づかない方がいい。フィナの前も空けておけば、誰かが傷を負った時にすぐ動ける。以前なら相手だけを見ていたかもしれないが、今はセインの背中とミレーナの位置、フィナまでの距離も一緒に視界へ入っていた。


その時、後ろから音がした。


石を引っかく音が一度聞こえ、その直後にもう一つ重なる。


ルアンは振り返った。


自分たちが歩いてきた方向だった。行きにも帰りにも四人が通った道だが、導灯の向こうに続く曲がり角の先までは、ここから見えない。


「セイン」


ルアンが呼ぶ。


壁の赤爪猿から目を離さないまま、セインが答えた。


「後ろ?」

「うん」


ミレーナもすぐに身体の向きを変えた。


ルアンは壁際へ置いた荷物を一度見てから、通路の中央へ半歩出る。フィナは二人の間で前後どちらにも動ける位置へ移り、背中を壁へつけないよう少し余裕を残した。


やがて曲がり角の向こうから、一匹目と同じ赤い爪が見えた。


続いて、もう一匹。


二匹とも走ってくるわけではない。床へ爪を立てながらゆっくり近づき、四人を見つけると歩みを止めた。


ルアンは息を一度吐き、右手を軽く握った。


朝、ここを通った時にはいなかった。


資材置き場へ向かう往路でも、ここまで戻ってくる間にも、少し前まで赤爪猿の姿はなかった。少なくとも三匹が、四人が資材を回収している数時間のあいだに、この補給路へ入り込んでいる。


前では、壁に張りついた一匹が再び身体を沈めている。


後ろには二匹。


セインが槍を握り直す音が聞こえた。


「ルアン、後ろ頼める?」

「うん」


短く答え、ルアンは二匹から目を離さなかった。


ミレーナは通路の端と足元を見ながら、自分とフィナが動ける場所を残して立つ。フィナも鞄の位置を確かめ、四人の誰へでも手を伸ばせる距離を取っていた。


ルアンは呼吸を整え、自分の内側へ意識を向ける。


まだ太くも、強くもない流れが、身体の中にある。


自脈(じみゃく)へ通した力を右腕まで巡らせる。その間にも、後ろの二匹は少しずつ距離を詰めてきた。


数時間前、同じ道を通った時には、壁際を岩鼠が走っただけだった。


今はその道の前後を、三匹の赤爪猿に塞がれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。