第45話 ばらばらの報告
翌朝、月兎亭の食堂はいつもより少し混んでいた。
ルアンが朝食を食べている隣の卓では、迷宮帰りらしい二人の探索者が昨日歩いた道について話していた。片方は「西の階段まで妙に長かった」と言い、もう片方は「荷物が重かったからだろ」と笑っている。やがて話は今日の仕事へ移り、二人とも、それ以上は気にしていないようだった。
ルアンも食事へ視線を戻した。
階段まで長く感じた。それだけでは何も分からない。疲れていれば同じ道でも長く感じるし、荷物の重さで歩調も変わる。昨日までなら、隣の卓のそんな会話を覚えておこうとは思わなかったかもしれない。
食べ終えると、仕事着の上から外套を羽織った。朝の空気は冷えていたが、日差しは昨日より明るく、大門市場へ向かう人の影が路地へ長く伸びていた。
迷宮管理院へ着くと、いつもの朝より人の出入りが多かった。
受付近くでは職員が地図を抱えて行き来し、奥の机には測量道具がいくつも出されている。壁際ではオズが長い測り縄を点検しており、その少し先にいたダグがルアンへ気づいて手を上げた。
「来たか」
「おはようございます。今日は昨日の分岐ですか?」
「その前にリサんとこだ」
ダグはそう言って歩き出した。
リサの机には、見慣れない紙が何枚も重なっていた。どれも管理院の正式な測量記録ではなく、探索者組合や現場の職員から回ってきた報告らしい。紙の大きさも書き方も揃っておらず、短いものは数行しかなかった。
「昨日の報告、ゴードから来てるわ」
リサは一枚を持ち上げる。
四人が旧補給路で見つけた、魔物の少なさ、岩鼠の足跡、風、導灯の間隔について書かれていた。誰が何を見たのかも分けてあり、ルアンが距離を測っていないことまで記されている。
「ちゃんと分けて書いてくれたみたいですね」
「ゴードはこういうところ真面目だから」
リサはその紙を机へ戻し、隣に積まれた何枚かを指先でずらした。
「それと、似てるのか似てないのか分からない話が増えてる」
最初の一枚には、中層西側の運搬路で「帰りだけ道が長く感じた」とあった。三人のうち二人はそう感じたが、一人は何も変わらなかったと言っている。
別の報告には、浅層北側で岩鼠をほとんど見なかったと書かれていた。同じ日の午後にその道を通った別の一行は、普段と変わらなかったと答えている。
もう一枚は、壁の湿りについてだった。以前は乾いていたはずの場所から水が滴っていたというが、報告した本人も最後に通ったのがいつだったか正確には覚えていない。
ルアンは紙から顔を上げた。
「全部、最近ですか?」
「ここ十日くらい。もっと前にも似た話があったかもしれないけど、今のところ拾えてるのはこの辺ね」
リサはそこで一枚を抜き出した。
「これは導灯。西の補助路で、一基増えた気がするって」
「増えた?」
「数えたら記録と同じだったわ」
机の向こうでダグが鼻を鳴らした。
「気がする報告ばっかりだな」
「そうよ」
リサはあっさり答えた。
「だから捨てないの」
ダグはそれ以上言わなかった。
ルアンはもう一度、机の上の紙を見た。道が長い。魔物が少ない。壁が濡れている。導灯が増えた気がする。並べてみても、同じことを言っているようには見えなかった。
昨日四人で見たものも、最初はそうだった。
セインは魔物を見た。ミレーナは足跡を見た。フィナは風を見て、ルアンは導灯を見た。あの場所では四人が同じ分岐に立っていたから、一緒に報告することができた。
別々の場所で、別々の人が見たものなら、紙の上で離れているのは当然だった。
「まず昨日の場所を測る」
リサが言った。
「ルアン、位置を案内できる?」
「できます」
「ダグとオズについて行って。今日は見るところを増やさないで、測るところを測ること」
最後の一言だけ、少し強かった。
ルアンは頷いた。
「はい」
横でダグが小さく笑った。
「お前、信用ねえな」
「ダグさんも昨日まで同じこと言ってましたよ」
「俺は信用した上で言ってる」
「もっと悪くないですか?」
オズが測り縄を肩へ掛けながら、二人の横を通り過ぎた。
「喋ってねえで行くぞ」
迷宮大門をくぐり、三人は昨日四人で歩いた旧補給路へ向かった。
地上より温かい空気に変わると、ルアンは外套を脱いで荷物へ括りつけた。オズは歩きながら壁の導灯を一基ずつ見ていき、ダグは分岐や床の状態を確認している。ルアンも昨日の道を思い出しながら進んだが、今日は自分から違う場所を探すことはしなかった。
一枚目の案内札があった場所には、金具を外した小さな穴だけが残っていた。
「ここでした」
「次は?」
「この先です」
昨日は四人で話しながら歩いた道を、今日は三人でほとんど黙って進む。同じ道でも、持っている仕事が違うだけで目に入るものが変わる。
二枚目の札があった場所を過ぎ、休憩した広場も越える。昨日セインが最初に魔物の少なさを気にした辺りまで来ると、ルアンは無意識に壁際へ目を向けた。
今日は岩鼠が二匹いた。
一匹は三人の足音に気づくと岩陰へ逃げ、もう一匹は離れたところからしばらくこちらを見ていた。昨日との違いはあったが、それだけで昨日の報告が間違っていたことにはならない。
ダグも岩鼠を見たが、足を止めなかった。
最後の案内札があった場所へ着く。
左へ伸びる細い分岐は、昨日と変わらないように見えた。奥には二基の導灯が点き、その先で道が右へ曲がっている。入口近くに残っていた岩鼠の足跡は、昨日よりいくつか薄くなっていた。
オズが測り縄を下ろした。
「まず入口から一基目」
ダグが縄の端を押さえ、オズが目盛りを確認する。次に一基目から二基目まで測り、もう一度同じ場所へ縄を伸ばした。
ルアンは少し離れて見ていた。
二度目の測定が終わると、オズは腰の記録板へ数字を書いた。そのまま以前の設置記録を開き、しばらく黙って見比べる。
「短いな」
ダグが顔を上げた。
「どっちが」
「一基目から二基目。記録との差がある」
オズはもう一度、壁に取り付けられた二基目の導灯を見た。外側の金具に指を当て、取り付け跡を確かめる。
「付け替えた跡は?」
「ねえ」
ダグも壁へ近づいた。
導灯を固定している金具の周囲には、新しく穴を開けた跡も、古い穴を塞いだ跡も見えない。石の表面には長く灯りが掛かってきた色の差が残っており、少なくとも最近になって位置を動かしたようには見えなかった。
ルアンは二基の間を見た。
昨日は近い《《気がした》》だけだった。
今日は測り縄の上に差が残った。
「次、幅」
オズが言った。
三人は通路の幅、天井までの高さ、分岐入口から曲がり角までの長さを順番に測っていった。風についても細い布片を吊って確認すると、弱い流れが奥から絶えず入口へ向かっている。
ダグが布片の揺れを見ながら口を開く。
「昨日も?」
「フィナが同じ向きだって言ってました」
ルアンはそれだけ答えた。
風があることは分かる。昨日と同じ向きであることも分かる。しかし、その風が何を意味するのかまでは分からなかった。
分岐の奥へは、管理院の許可を取った範囲だけ入った。
昨日見えていた曲がり角を越えると、通路はさらに二十歩ほど続き、その先には古い鎖が張られていた。鎖には「旧第二休憩所・閉鎖」と書かれた札が下がっており、そこから先は今日も立ち入らないことになっている。
オズは鎖の手前で立ち止まり、周囲の壁を見る。
「ここは変わってねえな」
壁に残る番号と古い補修跡を一つずつ確かめ、記録と照らす。閉鎖位置も現在の図面と一致しており、入口からここまでの間に、新しい亀裂や崩落は見当たらなかった。
ダグが腕を組んだ。
「入口側だけか」
オズは答えず、もう一度記録を見た。
ルアンも来た道を振り返った。
入口から二基目までは短くなっている。しかし、その先にある閉鎖位置は記録通りだった。どこで距離が変わったのか、見た目だけでは分からない。
「戻るぞ」
オズが測り縄を巻き始める。
三人は分岐を出た。
帰り道でも、ルアンは岩鼠の数を数えたり、壁の湿りを探したりはしなかった。気になるものはあったが、今日は測った場所だけを持ち帰ると決めていた。
管理院へ戻ったのは昼を少し過ぎた頃だった。
入口近くに、見覚えのない探索者が二人立っていた。一人は四十代くらいの男で、もう一人はそれより若い。二人とも泥のついた靴のまま職員と話しており、若い方は何度も首を傾げている。
「だから、俺は前からあったと思うって」
「いや、あんな窪みなかっただろ」
二人の意見は合っていなかった。
職員はどちらかを正しいことにせず、それぞれが見たことを別々に聞いていた。男たちは浅層南西の通路で、壁に人一人が入れるくらいの窪みを見つけたらしい。
若い方は以前からあったと言い、年上の方は先月通った時にはなかったと言う。
「どっちなんですかね」
ルアンが小声で言うと、ダグは歩きながら肩をすくめた。
「前からあったかどうかは分からねえ。今あるってことだけは確かだ」
リサの机へ戻ると、朝より紙が一枚増えていた。
オズは測った数字を渡し、導灯の位置に付け替えた形跡がなかったことを説明する。リサは記録と現在値を並べ、何度か指先で数字を追った。
「入口から一基目は大きな差なし。一基目から二基目だけ短い。その先の閉鎖位置は記録と合う、と」
「そうだ」
オズが答えた。
「測り直しても同じだ」
リサは紙の端へ小さく印をつけた。
朝の報告の束とは別に、今の測定結果だけを横へ置く。
そこへ、さきほど入口で話していた探索者二人の報告も回ってきた。職員が置いた紙には、同じ窪みについて「以前から存在」と「先月には存在せず」という二つの証言が並んでいた。
リサはしばらくそれを読んでいた。
「見に行かせますか?」
近くの職員が尋ねる。
「今日中に一度。測って、古い図面も確認して」
それだけ指示すると、リサはまた机の上へ視線を落とした。
道が長いという話。魔物が少ないという話。壁から水が滴ったという話。導灯が増えた気がするという話。今朝までは紙の上だけだったものに、二基の導灯の距離が短くなっているという測定結果が一つ加わった。
ルアンは机の上を見ながら、朝の月兎亭で聞いた会話を思い出した。
「リサさん」
「なに?」
「今朝、探索者の人が、西の階段まで昨日は長く感じたって話してました」
リサは顔を上げた。
「報告は?」
「してないと思います。普通に朝ご飯食べながら話してただけなので」
リサは少し考えてから、机の端にあった紙を一枚取った。
「名前分かる?」
「顔なら分かります」
「じゃあゴードに聞いてみる。大げさに呼び出さなくていいから、次に来た時に話だけ聞いてもらう」
ルアンは頷いた。
たぶん、あの二人にとっては報告するほどのことではなかった。実際、何も変わっていない可能性もある。
それでも、管理院の机には、同じように確かではない話が少しずつ増えていた。
ダグが報告の束を見下ろす。
「で、どう思う」
聞かれたのが自分だと分かり、ルアンはすぐには答えなかった。
朝から見た紙と、今日測った分岐を思い返す。似ているように見える話もあれば、全く関係なさそうなものもある。岩鼠が少ない日と壁が濡れたことを、同じ理由で説明できるとは思えなかった。
「似てる話は、あると思います」
ルアンは言った。
「でも、同じことが起きてるかは分かりません。場所も違うし、測ってない話も多いから」
ダグは一度だけ頷いた。
リサも何も評価せず、紙をまとめ直した。
「じゃあ、分かるものから増やしましょう」
午後は通常の導灯点検へ戻った。
ダグとルアンは浅層の三路線を回り、煤けた覆いを拭き、一基だけ緩んでいた留め具を締め直した。どの道も地図通りで、距離がおかしいと感じる場所もなかった。
一日中異変だけを見ていると、普通に終わる仕事の方がかえって記憶に残る。
最後の導灯を確認して地上へ戻る頃には、空が少し曇っていた。ルアンは荷物から外套を外して羽織り、大門市場を抜けながら、今日測った二基の灯りのことを思い返した。
他の探索者が見たものが、本当に同じ異変なのかは分からない。
ただ、迷宮について「前と違う気がする」と口にする人は、もう自分たちだけではなかった。




