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第43話 壁だった場所

翌朝、ルアンが迷宮管理院へ着いた時には、昨日まで長机を占領していた測り綱の半分が片づけられていた。


南側と東側の再測定は別の班へ引き継がれ、今日は通常の点検に戻るらしい。受付の奥ではリサが昨日の記録を整理していたが、ルアンを呼び止めることもなく、ダグもいつもと変わらない工具袋を用意していた。


「今日は普通ですか」


ルアンが尋ねる。


「昨日言っただろ」

「確認です」

「普通の点検だ」


ダグは工具袋の口を閉じた。


今日は中層西寄りの補助路を回り、七基の導灯(どうとう)を確認する予定だった。最近見つかった異変とは離れた場所で、ルアンも何度かダグと歩いている。


管理院を出る時、ルアンは壁に掛けられた大きな迷宮図へ一度だけ目を向けた。昨日まで気になっていた場所には小さな木札が二つ増えていたが、今日はそちらへ行かない。


外へ出ると、空は薄く曇っていた。風は弱いものの朝の冷たさは残っており、大門市場では開店前の店主たちが店先へ荷物を運び出している。


歩き始めてしばらくすると、ダグがルアンの外套(がいとう)へ目を向けた。


「この前買った冬服、仕事じゃ着ねえのか」

「普段着にしてます。仕事着の上だと動きにくいので」

「じゃあ休みの日は着てんのか」

「着てますよ。まだちょっと大きいですけど」


ミレーナに、来年も着られるものを選んだ方がいいと言われて買ったものだった。袖も肩も今は少し余裕があるが、去年の服がいつの間にか小さくなっていたことを考えると、それくらいでちょうどいいのかもしれない。


「そのうち合うだろ」

「背、伸びますかね」

「十五ならまだ伸びるだろ」

「ダグさんくらい?」

「知らん」


ルアンは自分とダグの頭の高さを見比べようとしたが、歩きながらではよく分からなかった。少なくとも、今はまだかなり上にある。


迷宮大門をくぐると、冷えた風が背後へ遠ざかっていく。地上より気温は安定しているが、今日は壁の湿り気が強く、歩き始めてしばらくすると革靴の底に細かな砂が張りついた。


最初の導灯では、外殻(がいかく)の内側に水滴が入っていた。


故障というほどではない。継ぎ目に挟まっていた細かな砂をルアンが布で取り、ダグが留め具を締め直す。二基目では魔石の出力が少し下がっていたが、こちらも交換するほどではなく、次回の確認項目として記録するだけで済んだ。


三基目を終えたところで、ダグが工具を片づけながら言った。


「こういうのでいいんだよ」

「何がですか」

「仕事だ」


ルアンは少し笑った。


「昨日までだって仕事ですよ」

「あれは余計なもんが増えすぎだ」


たしかに、数字を測るだけのつもりが壁や道まで調べることになり、最後には昔の記録を何冊も引っ張り出していた。今日は留め具を締め、魔石を見て、次の灯りへ進む。それだけで済むことが、少し久しぶりに感じられた。


四基目へ向かう途中には、細い水路が通路の片側を流れている。水量は少ないが石床が滑りやすく、二人とも壁から少し離れて歩いた。


「ここ、前も来ましたよね」


ルアンが尋ねる。


「五日前」

「そんな最近でしたっけ」

「お前が工具袋濡らした日だ」


それで思い出した。


五日前、ダグが導灯の部品を交換している間、ルアンは工具袋を壁際へ置いた。床を流れていた水に気づくのが遅れ、袋の底を少し濡らしてしまった。


マーサのところへ帰ってから中身を全部出して乾かしたので、よく覚えている。


「今日は濡らしませんよ」

「当たり前だ」


四基目には異常がなかった。


五基目へ向かってしばらく歩いたところで、ルアンは前を行くダグの背中にぶつかりそうになった。ダグが突然足を止め、左側を見ている。


「どうしたんですか」


返事はすぐになかった。


ルアンもそちらへ目を向けた。


壁ではなかった。


人が二人並んで通れるほどの開口部があり、その先へ暗い通路が続いている。入口から二十歩ほど先までは導灯の光が届いているが、その先で緩く右へ曲がり、奥は見えなかった。


ルアンは一度、今来た道を振り返った。場所を間違えたのかと思ったが、右側には細い水路があり、少し後ろには四基目の導灯も見えている。


「ここ……」


もう一度、開いている道を見る。


ダグは工具袋を床へ置いた。


「入るなよ」

「はい」


ルアンも近づかなかった。


入口の縁には崩れた岩がない。天井から石が落ちた様子もなく、床に新しい破片が散っているわけでもなかった。それどころか、通路の内側には薄い苔が生えている。壁の低い位置には何本もの水跡が残り、床の隅には細かな砂が積もっていた。


少なくとも、今朝になって急に岩が崩れて開いたようには見えなかった。


「古そうですね」


ルアンが言う。


「ああ」


ダグは入口の外側から中を見ながら、細い棒を取り出した。手の届く範囲の壁だけを軽く叩き、返ってくる音を確かめる。


「地図あります?」


ルアンが尋ねると、ダグは工具袋から折り畳んだ簡易図を出した。現在地を指で追い、四基目と五基目の間で止める。


そこには一本の道しか描かれていない。左側は岩壁だった。


「ないな」


ダグが言った。


ルアンも図を見る。見落とせるような小さな穴ではなく、今目の前にある通路が五日前にも開いていたなら、二人とも気づかなかったとは考えにくかった。


入口の横へ目を移した時、ルアンは薄い茶色の染みに気づいた。


見覚えがあった。


「ダグさん。この染み、覚えてます」


ルアンが指を向けると、ダグもそちらを見る。


「五日前、ここに工具袋置きました」


水が岩を伝った跡が、細長く下へ伸びている。五日前には、その染みの横もずっと壁だった。ルアンはその壁際へ工具袋を置き、足元を流れていた水で底を濡らした。


しばらくして、ダグが低く息を吐いた。


「俺も覚えてる」


染みそのものは、今も同じ場所に残っている。そのすぐ横に、人が二人並んで入れる道が開いていた。


「五日前は、なかったですよね」

「少なくとも俺は見てねえ」


ダグは地図を畳んだ。


ルアンも、道が現れたとは口にしなかった。五日前に壁だった場所に、今日は通路がある。それ以上のことは、まだ分からない。


ダグは工具袋から赤い紐を取り出し、通路の入口を塞ぐように左右の岩へ渡した。中央には小さな木札を結びつけ、腰の炭筆で「未確認・立入不可」と書く。


「これで戻るんですか」

「戻る」

「五基目は?」

「後だ」

「でもすぐそこですよね」

「すぐそこだから何だ」


ダグは紐が外れないか確かめてから、ルアンを見る。


「知らねえ道が増えた横で、予定通り灯り見て帰りました、で済むと思うか」

「思いません」


それで話は終わった。


ダグが工具袋を持ち上げたので、ルアンももう一度だけ通路の奥を見る。何かが動く音はなく、風もほとんど感じない。それでも入口の少し先に生えている苔だけが妙に目についた。


新しく開いた場所なら、どうしてあんなところに苔があるのだろう。


二人は来た道を戻った。


歩き始めてからしばらく、ダグは何も話さなかった。ルアンも頭に浮かんだことをそのまま口にせず、五日前の壁と、今日見た通路を何度も思い返していた。


五日前には壁だった。今日は道になっている。それなのに、その道は新しく見えない。


三つを並べると、それだけで十分おかしかった。


「ダグさん」

「何だ」

「さっきの道、古く見えましたよね」


ダグは前を向いたまま「ああ」と答えた。ルアンが苔も水の跡もあったと言うたび、短く「見た」と返す。


しばらく黙って歩いてから、ルアンは息を吐いた。


「……分からないですね」

「やっとまともなこと言ったな」

「さっきからまともです」

「そうか?」


ダグは少しだけ口元を緩めた。それ以上、二人とも通路について話さなかった。


管理院へ戻ると、まだ昼前だった。


予定よりかなり早い帰還だったので、受付にいた職員が顔を上げた。ダグはそのままリサのところへ向かい、工具袋を床へ置く。


「西側、止めたぞ」


リサは手元の紙から顔を上げた。


「何があったの?」

「道が増えてる」


短い言葉に、近くにいた職員の何人かも顔を上げた。リサは聞き返すより先に机の上を空け、ダグが広げた簡易図へ目を落とす。


ダグは四基目と五基目の間を指し、そこから左へ新しい線を一本引いた。


「ここ。五日前は壁だった」

「確かなの?」

「俺とこいつで通ってる」


ダグに示され、ルアンも頷いた。


「僕、その壁際に工具袋を置きました。水で底を濡らしたので覚えてます」


リサは一度ルアンの顔を見てから、再び地図へ視線を戻した。今日見た入口に崩れた跡があったか尋ねられたので、ルアンは石が落ちておらず、内部には苔と古い水跡まであったことをそのまま伝える。


「中へ入った?」

「入ってません」

「よろしい」


返事が少し早かった。


ダグが鼻を鳴らす。


「入れるか、あんなもん」


リサはすぐに近くの職員を呼び、西側へ立入制限の木札を持って向かうよう指示した。今日中に入口周辺だけは測るが、奥へ入るかどうかは壁や床の状態を確認してから決めるという。


「オズも呼んで」

「また機嫌悪くなるぞ」

「いつもでしょう」


ルアンも同じことを思っていたので、少しだけ笑いそうになった。


リサは続けて、棚から年代の違う迷宮図を二枚出した。紙の端が擦れて柔らかくなっている古い図まで広げ、三人で同じ位置を確かめていく。


一本目にも道はない。二本目にもなく、さらに古い記録を持ってこさせても、四基目と五基目の間は変わらず岩壁として描かれていた。


「少なくとも、ここにある地図には一本もないわね」


リサは三枚を重ねた。


「昔の道が記録から抜けた可能性は?」


ルアンが聞く。


「ある。でも三つの年代で同じ場所が壁なら、少し考えにくくはなるわね」


リサはそこで言葉を止めた。考えにくいだけで、ないとは言わなかった。


午後になると、オズを含む四人の職員が西側へ向かった。最初に見つけたルアンとダグは同行せず、途中まで終えていた通常点検の記録を整理することになった。


「僕たちは行かなくていいんですか」


記録を書きながらルアンが尋ねると、ダグは工具を布で拭いたまま顔を上げなかった。


「最初に見つけた奴が毎回調べる決まりなんかねえ」

「でも場所は分かってます」

「向こうも分かってる」

「道も」

「地図渡した」


一つずつ返され、ルアンは筆を止めた。少し考えてみると、たしかに自分がついていかなければならない理由は見つからない。


「……そうですね」


ダグが横目で見る。


「行きてえのか」

「気にはなります」

「それは知ってる」


ルアンはまた記録へ目を戻した。四基目まで異常なし。五基目以降は未点検。その理由として「未確認通路発見のため帰還」と書くと、今朝あれほど奇妙に見えたものが、紙の上では思ったより普通の一行になった。


昼を過ぎても調査班は戻らなかった。


ルアンたちは別の短い点検仕事を一つ済ませ、夕方近くに再び管理院へ戻った。西側へ向かった職員たちは、その少し前に帰ってきたところらしく、入口近くではオズが椅子へ座り、靴についた泥を布で拭っている。


「どうでした?」


ルアンが尋ねると、オズは顔を上げた。


「入ってねえぞ」

「分かってます」

「ならいい」


相変わらず機嫌が悪そうだったが、いつもより口数は少なかった。


リサは奥の机で調査結果を聞いていた。ルアンとダグが近づくと少し場所を空け、広げていた図を二人にも見えるように動かした。


調査班が確認した範囲では、入口の幅と高さに不自然なところはなく、壁や天井にも新しい破断面は見つからなかった。通路内部には苔や水跡、細かな砂の堆積があり、見た目だけなら以前からそこにあった場所と変わらない。入口から測れる範囲では、道は二十歩ほど先で右へ曲がっていることも確認できた。


「奥は?」


ダグが聞く。


「今日は見てない」


オズが答えた。


リサも頷く。


「明日、入るとしても入口から短い範囲だけ。人員も増やすわ」


ルアンは机の上の地図を見る。五日前にはなかった線が、今は炭筆で一本だけ足されていた。


「僕も行くんですか」


リサはルアンではなく、ダグを見た。


ダグは少し考えたあと、首を横に振る。


「明日はこいつ、通常点検だ」

「分かったわ」


それで決まった。


ルアンは地図を見たまま、何か言おうとしてやめた。五日前まで壁だった場所の奥に何があるのかは気になるし、自分の目でも見てみたい。


けれど、自分が行かなければならない理由はなかった。


管理院を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。大門市場では夕食を出す店の灯りが並び、焼いた肉と煮込みの匂いが冷たい空気に混じっている。


ルアンは月兎亭(げっとてい)へ向かいながら、今日見た入口を思い返した。


五日前、自分はあの場所の壁際に工具袋を置いた。壁は確かにそこにあり、足元を流れる水で袋の底を濡らした。ところが今日は同じ場所に、人が二人並んで入れる道があり、崩れた岩も新しく割れた壁もなく、その奥には苔と古い水跡まで残っていた。


五日前にはなかったはずの道が、ずっと前からそこにあったような顔をしていた。

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