第42話 記録にない空間
翌朝、管理院へ着くと、昨日よりさらに人が多かった。
入口近くの長机には、巻かれた地図と測り綱、木札、細い杭がいくつも並んでいる。普段なら点検へ出る職員たちが順番に道具を取っていく時間だが、今日は何人かがその場に残り、壁に掛けられた大きな迷宮図を見ながら話していた。
ルアンは外套を脱ぎ、肩についた冷たい空気を手で払った。昨日話していた二か所を、別の班でもう一度測ることになっていた。その結果がもう出たのだろうかと思ったが、まだ誰もこちらへ声を掛けてこない。
自分から輪へ入らず、いつものように道具棚へ向かう。
「珍しいな」
すでに工具袋を用意していたダグが言った。
「何がですか?」
「飛びつかねえのが」
「何にですか」
「あっちだよ」
顎で地図の方を示され、ルアンも一度だけそちらを見る。
「気にはなってます」
「だろうな」
「でも、今日の仕事まだ聞いてないので」
ダグが少しだけ口元を緩めた。
「やっと順番覚えたか」
それは褒められているのか分からなかった。
今日の担当は、昨日と同じ中層南側だった。ただし通常点検ではなく、四基目から五基目の間を測り直す班に同行し、その周辺の導灯と壁面を確認することになっている。
ダグのほかに、古参の技術員であるオズも一緒だった。
白髪の混じった髪を短く刈り込んだオズは、朝から機嫌が悪そうな顔をしていた。とはいえ、ルアンがこれまで見た限り、機嫌が良い時もだいたい同じ顔をしている。
「お前が短いって言ったんだってな」
工具箱を閉じながらオズが言う。
「短く感じただけです」
「感じただけで測らせたのか」
「測ったのはダグさんです」
「人のせいにすんな」
横からダグに言われ、ルアンは少し眉を寄せた。
「いや、実際そうじゃないですか」
オズは二人のやり取りを聞きながら、鼻で小さく笑った。
出発前にリサが三人を呼んだ。
机の上には、昨日の記録と今朝の再測定結果が並んでいる。ルアンが近づくと、リサは肩より少し長い金髪を片側へ払い、二枚の紙を指先で揃えた。
「昨日話していた二か所、朝一番に別の班で測り直したわ」
ルアンは紙へ目を落とす。
「どうでした?」
「南側は昨日とほぼ同じ。東側も同じだった」
測り直しても、前回の記録との差は消えなかったらしい。南側では四基目から排水溝までの距離が以前より短くなり、東側では通路の幅が狭くなっている。測った人間も道具も変えたが、結果はほとんど変わらなかった。
「じゃあ、本当に変わったってことですか?」
ルアンが聞くと、リサはすぐには頷かなかった。
「少なくとも、今の数字と昔の記録が違うことは確かね」
その言い方に、ルアンは少し安心した。変わったと決めるのではなく、分かっているところまでしか言わない。
ダグが紙を手に取った。
「今日は周りも見るんだな」
「ええ。壁の厚さ、床の状態、導灯の位置。測れるものは一通り」
リサはもう一枚、小さな図を出した。
「それと、こっちも」
見覚えのある場所だった。
少し前、四人で異変を見つけた壁。導灯の近くに新しい石粉があり、音の響き方から壁の向こうに空間があるように思えた場所だ。壁際では、細かな埃が同じ方向へ流れているのも見つかった。
「前に報告したところですか?」
「そう。昨日、そっちも確認に入ったの」
ルアンは図を見る。
壁の向こう側に、細い線が一本引かれていた。
「これ、何ですか?」
「空洞」
ルアンは顔を上げた。
「やっぱり空いてたんですか?」
「空いてる。ただし、どこにつながってるかはまだ分からない」
壁に小さな穴を開け、細い測定棒を入れて確かめたところ、奥に空間があることまでは分かったらしい。幅も高さも十分には測れておらず、人が通れる場所なのか、単なる岩の隙間なのかも確定していない。
オズが図を覗き込む。
「古い道じゃねえのか」
「その可能性はある。でも、残ってる地図にはないのよ」
リサは机の端に置いていた古い迷宮図を広げた。報告した壁の位置は、図の上では行き止まりになっており、その先には通路も空洞も描かれていない。ただ岩盤を示す薄い網目だけが続いていた。
ルアンはしばらく地図を見る。
記録にない空間。
昨日までなら、その言葉だけで何か大きな意味を探したかもしれない。今はまず、図と壁のどちらが間違っているのか、それさえ分かっていない。
「古い地図が間違ってた可能性もありますよね」
「あるわ」
リサはあっさり答えた。
「埋められた道を記録し忘れたとか、最初から測り損ねてたとか。昔の記録が全部正しいなんて思わない方がいいわね」
ダグが地図から顔を上げる。
「で、今日はそっちじゃなく南側か」
「そう。全部一度に追わない」
リサは三人を見る。
「今のところ、南側の距離が変わっていることと、その空洞に関係がある証拠はないから」
ルアンは黙って頷いた。その言葉は、自分に言われたような気がした。
迷宮へ入る頃には、朝のざわつきが少し頭から離れていた。
今日歩くのは、昨日と同じ中層南側だ。先頭をダグ、中央をルアン、最後をオズが歩く。
いつもより荷物が多い。
測り綱のほかに、壁へ当てる短い測定棒、水平を見るための小さな重り、印を付ける木札が入っている。ルアンも一つ工具箱を持たされていた。
「重いか」
前を歩きながらダグが聞く。
「まだ平気です」
「無理になる前に言え」
「はい」
後ろからオズの声が飛んだ。
「『まだ平気』って言う奴は、大体ぎりぎりまで言わねえぞ」
「こいつは特にな」
「二人とも僕のこと何だと思ってるんですか」
返事はなかった。
四基目までは昨日と同じだった。
導灯の出力にも固定具にも異常はない。ルアンが外殻を閉じる間に、オズは周囲の壁へ手を当て、表面の亀裂や湿り方を見ていた。
そこから排水溝までを、今度は三人で測る。綱を張り、起点を確認し、途中の印をずらさないように進んだ。
昨日より慎重にやったが、出た数字は今朝聞いたものとほとんど同じだった。
「短いな」
オズが言った。
それだけだった。
昨日から何度も測っているので、誰も驚かなかった。むしろ別の数字が出た方が、かえって判断に困ったかもしれない。
オズは四基目の周囲へ戻り、壁を細い棒で叩き始めた。乾いた音、鈍い音、少し響く音。場所によって違いはあるが、ルアンにはどれが普通なのかまだ分からない。
「空いてます?」
尋ねると、オズは棒を止めた。
「どこが」
「壁の中」
「岩の中なんざ、多少はどこでも割れてる」
そう言って、別の場所を叩く。
「人が通れるほどかどうかは別だ」
ルアンは黙って音を聞いた。
少し離れたところでは、ダグが排水溝の縁にしゃがみ込んでいる。昨日は気づかなかったらしい細い白い筋が石の角に一本走っており、指を近づけて確かめていた。
「これ、前からあったか」
ルアンも寄った。
「分かりません」
「だろうな」
ダグは触らずに立ち上がった。知らないものを、知っていたふりはできない。
三人は五基目までの距離も測り直したが、こちらは昔の記録とほぼ合っていた。違っているのは、四基目から排水溝までの区間だけだった。
ルアンは四基目と排水溝を交互に見る。
導灯が動いたようには見えない。支柱の根元には古い固定跡があり、最近付け替えられた様子もない。排水溝も、昨日今日に掘り直されたようには見えなかった。
「どっちも動いてないように見えますよね」
ルアンが言う。
ダグは四基目の根元へ目を向けた。
「見えるな」
「じゃあ、その間が短くなったって……」
そこまで言って、ルアンは口を閉じた。
オズがこちらを見る。
「何だ」
「いや。まだ分からないです」
オズは何も言わず、また壁の方へ向かった。ダグも続きを促さなかった。
昼前まで周囲を調べたが、距離の違い以外に明確な変化は見つからなかった。三人は少し広い場所まで戻り、壁際で休憩を取る。
ルアンが水を飲んでいる間、オズは膝の上で古い図を広げ、何度も指を動かしていた。
「そんなに地図見るんですね」
「悪いか」
「いや、なんとなく工具ばっかり見る人かと思ってました」
「喧嘩売ってんのか」
ルアンは首を振った。
ダグがパンを食べながら笑う。
「オズは昔から地図好きだぞ」
「余計なこと言うな」
「何で隠すんですか」
「隠してねえ」
少しだけ空気が緩んだ。
オズは地図を畳みながら、ルアンを見る。
「導灯だけ見てりゃ灯守ができると思うなよ」
「はい」
「道があって、壁があって、床があって、その中に灯りがある。灯りだけ正しくても、周りが間違ってりゃ意味がねえ」
言い方はぶっきらぼうだったが、ルアンは覚えておこうと思った。
午後は、四基目から少し外れた脇道まで確認することになった。
そこには導灯を設置した時に付けられたらしい古い作業用の印が残っており、壁へ小さな番号が刻まれている。オズが一つずつ読み上げ、ダグが古い図と照らし合わせていくと、最初の三つまでは問題なく一致した。
四つ目で、ダグの指が止まった。
「……一個足りねえな」
ルアンも壁へ目を向ける。
刻まれている番号は三十二。その少し先には三十四があった。
「三十三は?」
「だから足りねえって言ってんだ」
オズが答えた。
三人は一度戻りながら壁を見直した。苔や汚れで隠れている可能性もあるため、布で表面を拭き、光を近づけて確かめたが、それでも三十三の印は見つからない。
「削れたんじゃないですか?」
ルアンが聞く。
「あり得る」
ダグはすぐに否定しなかった。
「この辺、壁の補修記録あるか?」
「戻らなきゃ分からん」
オズが答える。
三十四の位置から三十二まで戻り、今度は二つの番号の間を測った。途中に不自然な継ぎ目はなく、岩の色も周囲とほとんど変わらない。
ただ、その区間だけはほかより少し長かった。
ルアンは綱の端を押さえながら、その長さを見る。
「もし三十三が間にあったなら、このくらいですか?」
オズが目を細める。
「何がだ」
「一個分」
ダグも綱へ視線を落とした。
三十二と三十四の間は、二つの印が並んでいても不自然ではない長さだった。それでも三十三の印は見つからず、削れた跡もない。
「記録見るぞ」
ダグが言った。
それで、その場での確認は終わった。これ以上同じ壁を見続けても、増える情報はなかった。
管理院へ戻ると、リサは別の職員と話していた。三人が戻ったのを見て話を切り上げ、机の上を空ける。
ダグはまず、距離の再測定について報告した。昨日と同じ数字が出たこと、周囲の壁や床に大きな変化は見つからなかったこと、そして脇道の作業番号が一つ抜けていたことを順番に伝える。
「三十三?」
リサが聞き返した。
「三十二の次が三十四だ」
ダグが答える。
リサはすぐに棚から古い設置記録を出させた。何冊かの帳面をめくり、該当する区間を探していく間、ルアンは少し離れたところで待った。
昨日と同じような光景だった。
紙の上には、昔の迷宮が残っている。
今日歩いた場所には、今の迷宮がある。
二つを比べるたび、少しずつ違うところが出てくる。
やがてリサの指が止まった。
「三十三、あるわね」
ダグが横から帳面を見る。
「どこだ」
「三十二と三十四の間」
設置記録には、確かに三十三と書かれていた。導灯を付けた時の作業員名も残り、壁面の形まで簡単な図で記録されている。
オズが紙を覗き込み、眉を寄せた。
「壁の形、違わねえか」
ルアンも近づいた。
図には、三十三の印の近くに小さなくぼみが描かれている。今日見た壁には、そんなものはなかった。
まっすぐだった。
リサはしばらく帳面を見たあと、今日の地図を横へ並べた。
「補修記録を全部確認するわ」
「もし補修されてなかったら?」
ルアンが聞く。
リサは答える前に、帳面の端を指で押さえた。
「その時に考える」
ルアンは頷いた。
少し前なら、そこでさらに聞いていたかもしれない。なぜ消えたのか、壁はどうなったのか、距離の違いと関係があるのか、針尾蜥蜴や青い導灯も同じなのか。
けれど今は、まだ並べるだけでいいと思えた。
南側では、四基目から排水溝までの距離が短くなっている。別の脇道では、昔あったはずの作業番号と壁のくぼみが見つからない。浅層東側では通路が狭くなり、さらに古い壁の向こうには地図にない空間まで見つかった。
どれも、まだ一つにつなげることはできない。ただ、昔の記録と今の迷宮が合わない場所は、確実に増えていた。
リサは今日の記録を別の束へ重ねた。昨日より少し厚くなった紙の束を見て、ルアンは何となくその枚数を数えそうになったが、途中でやめた。
帰り際、管理院の入口でダグが外套を着る。
「明日も測るんですか?」
ルアンが聞くと、ダグは袖へ腕を通しながら首を振った。
「明日は別だ」
「どこです?」
「普通の点検」
「普通ですか」
ダグがルアンを見る。
「普通の仕事しねえと、何が普通じゃないか分かんなくなるぞ」
外へ出ると、もう日が傾いていた。風は昨日より弱かったが、空気は冷たく、大門市場の向こうでは屋台の鍋から白い湯気が上がっている。
ルアンはダグと別れ、月兎亭へ向かった。
途中で一度だけ振り返る。
迷宮大門はいつもと同じ場所にあり、その向こうから出てくる人たちも、いつもと変わらない顔をしていた。外から見れば、今日もただ一日が終わっただけに見える。
ルアンは前を向き直った。
記録にないものが増えていた。




