第41話 同じはずの道
翌朝、月兎亭の窓は白く曇っていた。
食堂へ下りると、入口の近くにいた男が外から戻ってきたところらしく、外套の肩を手で払っている。雪ではない。夜の間についた細かな霜が、朝の日差しで少しずつ溶け始めていた。
ルアンはいつもの席へ座り、両手を擦ってから温かい茶の器を持った。指先へじわじわと熱が戻ってくる。
「今日は寒いね」
マーサが朝食の皿を置いた。
「昨日より寒い」
「毎日そう言ってりゃ、そのうち冬になるよ」
「もうなりかけてない?」
「まだだね」
何をもって冬なのかは教えてくれなかった。ルアンは湯気の立つ皿へ匙を入れ、冷えていた指を時々器へ添えながら朝食を済ませた。
朝食を食べ終えると、ルアンは仕事着の上から外套を羽織った。先日買った冬服は普段着なので、仕事の日には着ない。
迷宮の中へ入れば地上ほどの冷えはない。それでも管理院へ向かう朝の道では、外套を着ていても襟元から入る空気が冷たかった。
迷宮管理院へ着くと、いつもより入口に人が多かった。
壁際には巻いた測り綱が二本置かれ、その横に工具箱と細い杭が並んでいる。見覚えのある職員が地図を広げ、二人の作業員と位置を確かめていた。
昨日、針尾蜥蜴を見た浅層東側へ向かう人たちなのだと、すぐに分かった。
ルアンは少しだけそちらを見たものの、自分から近づかなかった。昨日ダグに、今日は別の場所だと言われている。
「気になるか」
後ろから声がして、振り返るとダグが工具袋を肩へ掛けて立っていた。
「気にはなります」
「そうか」
「それだけですか?」
「何を言えってんだ」
ダグはそのまま受付台へ歩いていく。ルアンも一度だけ調査班の方を振り返ってから、そのあとを追った。
今日の担当は、中層南寄りの通常点検だった。昨日の浅層東側とはかなり離れており、第十三導灯から補助路へ入り、そこから六基を確認して戻る。ルアンも何度か歩いたことのある道だった。
管理院を出る時、昨日の場所へ向かう三人が測り綱を担いで先に歩いていくのが見えた。ルアンはその後ろ姿をしばらく見送り、ダグとは反対の通路へ向かった。
迷宮へ入ると、地上の冷たい空気が少しずつ遠ざかった。代わりに湿った岩の匂いが強くなり、天井から落ちる水滴の音がところどころで響いている。
最初の二基には異常がなかった。
ルアンが外殻を開けて固定具を確認し、ダグが魔石と内部の導線を見る。終われば閉じて次へ進む。同じ作業を何度も繰り返してきたので、最近は互いに細かく指示を出さなくても手が動くようになっていた。
三基目では、内部の留め具が一つ緩んでいた。ダグが腰を落として工具を差し込み、ルアンは灯りを支える側へ回って作業しやすい角度に保つ。
「昨日のところ、何か分かると思いますか」
手元を見ながらルアンが尋ねると、ダグは留め具を回したまま「さあな」と答えた。
「通路が本当に狭くなってたら?」
「狭くなってたって分かる」
「その先は?」
「その先は、その先だ」
ダグは留め具を締め終えると、工具を抜いて一度状態を確かめた。
「一個分かったら、十個先まで決めたくなる癖やめろ」
「そこまで決めてませんよ」
「顔が決めてる」
「顔で分かるんですか」
「長く見てりゃな」
何となく納得できなかったが、ルアンは続きを聞かなかった。昨日の異変を気にしているのは事実なので、完全に否定するのも難しい。
三基目を終え、さらに奥へ進む。通路は少しずつ下りになり、右側の壁には細い水の筋が続いていた。ところどころ床が濡れているので、二人とも自然に左寄りを歩く。
四基目にも異常はなかった。
そこから五基目へ向かう途中で、ルアンは歩調を少し緩めた。
前方に、浅い排水溝が見えている。岩床を横切るように掘られた細い溝で、天井から落ちる水を片側へ逃がすためのものだった。
珍しい設備ではないが、ここの溝は途中で石が欠けている。歩く時に少しだけ足を広げて跨がなければならないので、ルアンにも覚えがあった。
「ダグさん」
前を歩いていたダグが振り返る。
「この溝、こんなに近かったですか?」
ダグは排水溝を見たあと、今来た道へ目を戻した。少し離れた場所に、さっき点検した四基目の光が見えている。
「何がだ」
「四基目からです。前に来た時は、もう少し歩いた気がするんですけど」
口にしてから、自分でも曖昧だと思った。いつも歩数を数えているわけではなく、途中で話したり、工具を持ち替えたりすることもある。同じ道でも、その日の歩き方で長くも短くも感じるだろう。
「何回来た」
「ここですか? 三回……たぶん四回です」
「その程度じゃ当てにならんな」
言われると思っていた。ルアンも頷き、そのまま先へ進もうとしたところで、今度はダグが足を止めた。
「待て」
工具袋を下ろし、中から巻いた細い綱を取り出す。普段は導灯の取り付け位置や、壁との距離を確かめる時に使っているものだった。
「測るんですか?」
「気になったんだろ」
「でも、当てにならないって」
「お前の感覚はな」
そう言って綱の端を渡され、ルアンは四基目まで戻った。
導灯の支柱の根元へ端を合わせ、通路に沿って綱を伸ばしていく。曲がりはほとんどないため測ること自体は難しくなかったが、一度では届かず、途中へ印を置いてもう一度伸ばした。
排水溝まで着くと、ダグが綱の印を確かめる。
「記録覚えてます?」
「覚えてねえよ」
あまりにも早い返事だったので、ルアンは少し笑った。
「じゃあ今測った意味あります?」
「戻って見りゃいい」
ダグは測った長さを小さな紙へ書き込んだ。それで終わるかと思ったが、今度は排水溝から五基目までの距離も測り、同じ紙へ数字を足す。
こちらはルアンの感覚では特に変わったところはなかった。
「何か違います?」
「だから戻って見なきゃ分からん」
ダグは紙を畳んで工具袋へ入れた。壁や床まで調べ始めることはなく、そのまま通常の点検へ戻った。
五基目と六基目を終えると、二人は壁際の乾いた場所で昼の休憩を取った。ルアンは持ってきたパンをちぎり、ダグは干し肉を噛みながら、少し暗く見える通路の奥を眺めている。
「昨日の針尾蜥蜴も、道を間違えたんですかね」
「魔物に聞け」
「聞けたら聞きますよ」
「聞けても近づくな」
それはそうだった。
ルアンはパンを口へ入れながら、昨日のことと、さっき測った距離を頭の中へ並べた。つなげようと思えば、いくらでもつなげられる。けれど、今のところ二つの間にあるのは、ルアンが気になっているということだけだった。
ダグが水を飲み、蓋を閉める。
「昨日の話と今日の話、勝手にくっつけんなよ」
「まだくっつけてません」
「くっつけようとしてる顔してる」
「また顔ですか」
「分かりやすいんだよ、お前」
どういう顔をしているのか、一度鏡で見てみたいと思った。
午後は残りの補助路を回り、予定していた点検をすべて終えてから管理院へ戻った。
建物の中へ入ると、朝より少し人の声が多かった。受付の奥では職員が二人、広げた地図を挟んで話している。その脇には、朝見た測り綱と杭が泥のついたまま置かれていた。
浅層東側へ向かった調査班は、もう戻っているらしい。
ルアンはそちらを気にしながらも、先に今日の点検記録を書いた。六基とも導灯そのものに異常なし。三基目の留め具を締め直したことを記し、その下へ、四基目から排水溝までの距離を測ったことも書き加える。
書き終えてから、隣で自分の記録をまとめているダグを見る。
「昨日の報告、聞きたいです」
「だろうな」
予想していたらしい。ダグは紙を持ち上げ、「先にこれ出すぞ」とだけ言って受付へ向かった。
ルアンも記録を持ってついていくと、奥にいたリサが二人へ気づいた。
「あら、ちょうどよかった」
ルアンは昨日の調査についてかと思ったが、リサはまずダグから点検記録を受け取った。上から順に目を通し、四基目の下に書かれた数字のところで指を止める。
「距離を測ったの?」
「こいつが短く感じるって言うからな」
ダグが顎でルアンを示す。リサはもう一度数字を確かめると、近くにいた職員へ以前の記録を持ってくるよう頼んだ。
棚から薄い帳面が一冊運ばれてくる。最後に同じ区間を測ったのは四か月前らしく、リサが頁を開くとダグも横から覗き込んだ。
ルアンは二人の邪魔にならない位置で待った。
しばらくして、ダグが今日書いた紙を工具袋から取り出した。帳面の数字と見比べてから、綱を張った場所を思い出すように目を細める。
「合わねえな」
ルアンは受付台へ少し近づいた。
「どれくらいですか?」
「歩いて気づくかどうかって程度だ」
大きな差ではないらしい。ただ、ダグは紙をしまわず、そのまま帳面の横へ置いた。
「測り方でずれる範囲じゃないんですか?」
ルアンが尋ねると、リサはすぐには否定しなかった。一度だけ測った数字なら、綱の張り方や起点の取り方で多少ずれることもあるという。
「明日、別の人間でもう一度測りましょう」
リサは今日の記録へ小さな印を付けた。そこで話が終わるかと思った時、奥から一人の職員が歩いてきた。
朝、浅層東側へ向かった三人のうちの一人だった。
膝から下に薄く泥がつき、手には丸めた紙を持っている。受付台まで来ると、リサへ声を掛け、その紙を広げた。
「昨日報告のあった東側、まとめました」
ルアンは一歩下がった。自分たちが報告した場所とはいえ、管理院の調査結果まで勝手に聞いていいのか迷ったためだった。
その様子に気づいたリサが、地図から顔を上げる。
「ルアンも聞いておいて。最初に気づいたのはあなたたちでしょう」
呼ばれたので、ルアンは受付台の前へ戻った。
職員の報告では、針尾蜥蜴の足跡は昨日聞いた場所に残っていた。ミレーナが見た通り、奥側から来て、再び同じ方向へ戻っている。魔物そのものは見つからなかったため、無理に追うことはしなかったという。
導灯も何度か確認したが、青い光は一度も出なかった。
そこまでは、昨日の報告から何も増えていない。
職員はもう一枚の紙を広げた。いくつかの位置に数字が書かれ、その横に前回測定した時の記録が並んでいる。
「通路の幅なんですが、前回の記録と違いました」
ルアンは紙へ目を落とした。昨日、四人で狭く感じた場所と同じだった。
「本当に狭くなってたんですか?」
「記録が正しければ」
職員はそう答え、図の左右を指した。
片側だけではなく、両方の壁から少しずつ幅が減っていた。しかし、崩れた岩もなければ、新しく岩がせり出したような跡も見つからなかったという。
昨日、ミレーナが見た時にも壁は普通だった。削られた跡も、崩れた跡もなかった。
それでも、測った数字は以前と違っている。
「前回測ったのは、いつですか?」
「二か月ちょっと前です」
職員の返事を聞いて、ルアンはさっき見た帳面へ目を移した。
四か月前。
二か月前。
今日、自分たちが測ったのは中層南側。昨日の通路は浅層東側で、同じ道の続きでもなく、迷宮図の上でもかなり離れている。
ダグも同じことを考えたらしく、壁に掛けられた大きな迷宮図へ顔を向けた。
「今日の場所、どこだ」
リサが南側の一点を指したあと、指を大きく動かして昨日の東側へ移す。図の上で見ても、二つの場所の間にはいくつもの通路があった。
ルアンはその地図を見たまま、針尾蜥蜴のことや、昨日見た青い光を口に出さなかった。ここで全部を一つにつなげれば、話は分かりやすくなる。けれど、分かりやすいことと、本当にそうであることは違う。
リサは二地点の位置をしばらく見比べたあと、明日は両方を測り直すことに決めた。今日ルアンたちが測った南側は別の班を出し、東側は測定する位置を増やすという。
「導灯も見とけ。色だけじゃなく出力もだ」
ダグが言うと、リサはすでにそのつもりだと頷いた。
話が決まり、二枚の記録は通常の点検記録とは別の束へ置かれた。ルアンも自分の記録を受け取り、提出欄へ署名する。
文字を書きながら、今日歩いた道を思い出した。
四基目から排水溝まで。
排水溝から五基目まで。
何度か通った、同じはずの道だった。
管理院を出た時には、外はもうかなり暗くなっていた。吐いた息が一瞬だけ白く見え、ルアンは仕事着の上に羽織った外套の襟を少し上げる。ダグも隣で手袋をはめながら、大門市場の方へ歩き出した。
しばらく並んで歩いてから、ルアンは口を開いた。
「ダグさん。明日、測り直して同じだったら?」
ダグはすぐには答えなかった。片方の手袋を指先まで引き上げてから、前を向いたまま少し考える。
「その時は、今日より一個分かる」
ルアンには、それだけでは足りないように思えた。
「それだけですか?」
「それで十分だろ」
ダグは歩く速さを変えなかった。
昨日までなら、何か一つ答えが増えれば少し安心できたかもしれない。けれど今は、調べるたびに知らなかったことが増え、同じはずだったものまで確かめ直す必要が出てきている。
それでも、分からないままにしておくよりはいい。
ルアンは冷えた指を外套の袖へ少し引っ込め、ダグの隣を歩いた。背後では迷宮大門の灯りが、いつもと変わらない色で点いていた。




