第40話 違う深さ
三日後の朝、七番倉庫の床は思っていたより冷えていた。
ルアンは壁際へ置いた荷物の横に座り、靴紐をほどいて右脚を伸ばした。外では朝の冷え込みが強くなっているらしく、石造りの倉庫にもその寒さが残っている。床へ触れた手のひらが冷たく、長く座っていると腰のあたりまで冷えてきた。
今日は灯守の勤務はない。午後にはセイン、ミレーナ、フィナと合流することになっているので、午前中だけ自脈の練習をするつもりだった。以前なら時間があればぎりぎりまで繰り返していただろうが、午後に迷宮へ入る日に身体を疲れさせる意味はない。
ルアンは右脚へ意識を向け、胸の奥にある魔力を細く下へ送った。腰を抜け、腿の内側を通り、膝の手前まで来たところで流れが少し鈍くなる。勢いをつけると道が細くなり、逆に慎重になりすぎれば途中で止まる癖は、まだ完全には消えていなかった。
それでも以前のように、脚へ通しただけで全体が重くなることは減っている。膝を越え、足首の近くまで届かせたところで止めると、痺れはないものの脹脛の奥にわずかな張りが残った。
「今日はここまでにしておこう」
ルアンは魔力を切り、脚を軽く揉んだ。誰もいない倉庫で口にすると少し変な感じがしたが、もう一度できそうだからこそ、今日はやめておくことにした。
昼前には月兎亭へ戻り、早めの食事を済ませた。マーサが出したのは、いつもの豆の煮込みではなく、細かく切った根菜と肉を入れた濃い色のスープだった。
「これ、前なかったよね」
「寒くなってきたからね。朝から豆ばっかりじゃ、作る方が飽きるんだよ」
そんな理由なのかと思ったが、味はよかった。匙ですくった根菜は柔らかく、朝から冷えていた身体が内側から少しずつ温まっていった。
食事を終えて外へ出ると、朝ほどではないものの日陰には冷たい空気が残っていた。新しく買った冬服を着て、大門市場を抜けて探索者組合へ向かうと、三人はすでに入口の近くに揃っている。
セインは壁際で槍の石突きを確かめ、ミレーナは鞄の中身を数えていた。フィナはその隣で薄い手袋を外し、冷えた指を擦っている。
「時間ちょうどだよ」
ルアンが言うと、セインは何か言いかけたものの、自分たちの方が早かっただけだと思い直したらしく口を閉じた。フィナと挨拶を交わし、四人で組合の中へ入る。
今日は午後からなので、深い場所へ入る仕事は最初から避けることにした。日が短くなってきた今、朝と同じ感覚で仕事を選べば、地上へ戻る頃にはすっかり暗くなってしまう。
フィナが見つけたのは、浅層東側の旧休憩所から空の保存箱を四つ回収する仕事だった。もともとは水や乾燥食を置いていたものだが、新しい休憩所へ移されたため、古い木箱だけが残されているらしい。
「銀貨十二枚。四人なら三枚ずつね」
ミレーナが報酬を確認した。木箱そのものは軽く、経路もほとんどが既知の場所だったので、午後から入る仕事としてはちょうどいい。
受付を済ませ、四人は迷宮大門をくぐった。
地上の冷えが遠ざかり、代わりに湿った石の匂いが濃くなっていく。数日前に三人で歩いた時とは違い、今日は振り返らなくてもフィナの足音が後ろから聞こえていた。
しばらく進んだところで、先頭のセインが歩調を緩めた。
「ここ、前からこんなに狭かったか?」
ルアンも顔を上げる。左右の壁が少し近く、二人並べないほどではないものの、以前通った時より窮屈に感じた。
ミレーナは壁際へ寄り、床から天井近くまで目で追った。落石の跡も、大きく削れた場所も見つからない。
「私、ここを何度も通ってるわけじゃないから、元からだったって言われたら分からない」
フィナは壁ではなく、通路の奥へ片手を向けた。指先でしばらく空気を確かめたところ、風そのものは普通に流れているようだった。
ルアンも近くの導灯を確認する。壁が近いせいで光が強く跳ね返っているようにも見えるが、色も明るさも普段と変わらない。以前の幅を測った記録を持っているわけでもなく、四人とも「狭く感じる」以上のことは言えなかった。
「帰りに、もう一回見よう」
ルアンが言うと、三人も頷いた。
旧休憩所までは、その後何も起きなかった。壁際には四つの木箱が重ねられており、中身はすべて空で、底や角にも目立った破損はない。セインとフィナが一つずつ持ち上げて重さを確かめたところ、一人一箱なら問題なく運べそうだった。
四人は少し休んでから戻ることにした。フィナは水を飲み、ミレーナは干した果物を口へ入れ、セインは座るなりパンを取り出す。
「昼、食べたよね?」
「これは午後の分」
「間食って言うのよ、それ」
ミレーナが呆れたように言い、フィナが小さく笑った。以前なら三人のやり取りを眺めていることが多かったが、今は笑うのも、話へ入るのも少し早くなっている。
四人でいる時の沈黙も、前とは違った。誰かが話さなくても次の言葉を探しているような気まずさはなく、水を飲む者がいて、荷物を確かめる者がいて、壁へ背を預ける者がいても、それぞれ同じ場所で休んでいるだけだった。
休憩を終えると、四人は木箱を一つずつ持って帰路についた。箱そのものは軽いが、両手を使うぶん足元が見にくいため、ルアンは胸より少し低い位置で抱え、横から床を確認しながら歩く。
しばらくして、先頭のセインが足を止めた。
「止まる」
一言で、後ろの三人も同時に止まった。
セインは木箱を床へ置くなり槍へ手を伸ばした。前方の通路は緩く曲がっており、導灯の光も途中までしか届かない。ルアンたちも箱を下ろし、音を立てないようにその先を見る。
すぐには何も現れなかった。
やがて石床を硬いものが擦る音がした。ざり、と一度鳴って止まり、少し間を置いて、また同じ音がする。セインが槍を構え、ルアンも右腕へ魔力を流す準備をした。
曲がり角の向こうから、細長い頭が現れた。
低い姿勢のまま、灰褐色の身体が少しずつ通路へ出てくる。背中から伸びた尾の先端だけが硬く尖り、石床へ触れるたびに、さっき聞こえた乾いた音を立てていた。
ルアンは、その姿を知っていた。
「針尾蜥蜴……」
以前襲われた個体よりは少し小さい。それでも尾が床を擦る音を聞いた瞬間、右脚へ無理に魔力を流し、身体が動かなくなるまで使った日の感覚が戻ってきた。
針尾蜥蜴そのものが珍しいわけではない。ただ、ルアンがこれまで見聞きした限りでは、もっと深い場所にいる魔物だった。
ルアンが以前遭遇したのは中層だった。少なくとも、この辺りの浅層を普通に歩いていて出会う種類ではない。ミレーナも同じことに気づいたらしく、魔物から目を離さないまま声を落とした。
「ここ、浅すぎない?」
フィナも少し後ろで木箱から離れ、逃げる方向を確かめている。迷い込んだ一匹かもしれないと口にしたが、ミレーナも可能性として否定しないだけで、そうだとは言わなかった。
針尾蜥蜴は四人を見たまま、舌を短く出した。頭を左右へ動かし、しばらく空気を探るような仕草をしたあと、身体を低くする。
セインの槍先がわずかに上がり、ルアンも右腕へ魔力を流す準備をした。しかし蜥蜴は飛びかかってこず、尾を一度強く床へ打ちつけると身体の向きを変え、そのまま来た道へ戻っていった。
四人は追わなかった。尾の擦れる音が遠ざかり、完全に聞こえなくなるまでその場で待ったあと、セインが前方を警戒し、ミレーナが曲がり角の床へしゃがみ込む。
薄く砂の積もった部分には爪の跡が残っていた。一匹分だけで、少なくとも近くの壁穴から急に出てきたわけではないらしい。ミレーナが跡の向きを確かめると、針尾蜥蜴はより深い側の通路から歩いてきていた。
その時、すぐ近くの導灯が一度だけ揺れた。
光量が落ちたわけでも、消えかけたわけでもない。白い光の中へ、ほんの一瞬だけ青みが混じり、次の瞬間には元の色へ戻った。
ルアンは無意識に息を詰めた。
以前、壁の内側に空洞が見つかった場所でも、導灯の見え方がおかしくなっていた。ただ、あの時は片側の壁だけ光が届きにくく、妙に暗く見えた。今のように、光そのものの色が変わったわけではない。
「今の見た?」
三人が導灯を見る。ミレーナは床を見ており、セインは通路の先を警戒していた。フィナも変化そのものは見ていなかったらしく、ルアンが声を掛けた時には、もう普通の白い光へ戻っていた。
ルアンは導灯へ近づいたが、触らなかった。外殻にも手を掛けず、少し離れた位置から明るさと色を見直す。
今は、何もおかしくない。
「少し青く見えた。前の異変を思い出したけど、見え方は違った」
フィナが、以前の異変と同じものなのか尋ねる。
「分からない。あの時とは違うし、今のも一瞬だったから」
浅層には普通いない魔物と、一瞬だけ変わった導灯。二つに関係がある証拠はなく、たまたま同じ場所で起きただけかもしれない。
ミレーナは床の爪跡から立ち上がった。
「追わないわよ」
「うん。仕事は箱を持って帰ることだから」
ルアンが答えると、それ以上話す必要はなかった。
四人は木箱のところへ戻り、再び一つずつ持ち上げた。箱そのものは軽かった。それでも今は、両手が塞がったまま歩くことが少し気になった。さっきのように何か現れれば、まず箱を置かなければならない。
セインが先頭を歩き、ルアンがその後ろに続く。ミレーナとフィナも少し間隔を取り、必要以上に急がず進んだ。帰り道では自然と会話が減り、それぞれが周囲を見る時間の方が長くなっていた。
セインは前方へ何度も目を向け、ミレーナは床や壁の状態をいつもより丁寧に見る。フィナも時々歩調を緩め、手袋越しに空気の流れを確かめていた。誰かが怖がって黙っているというより、四人ともさっき見たものを自分なりに考えているようだった。
行きに狭く感じた場所まで戻ると、四人はもう一度足を止めた。
見直しても、やはりセインとルアンには通路が窮屈に感じられた。ミレーナが壁と床を確認したが、落石や削れた跡は見つからず、ルアンが導灯を見ても今度は色も明るさも普通だった。
フィナは木箱を床へ置き、手袋を外した。片手を胸の高さへ上げ、しばらく黙って空気を待つ。
「風は通ってます。でも、少しだけ右から来てる気がします」
「行きも同じだった?」
ルアンが尋ねると、フィナは首を横に振った。
「行きは、そこまで丁寧に見てなかったので。比べられないです」
それ以上考えても、四人だけでは答えが出なかった。通路は歩けるし、壁も崩れていない。導灯も今は普通に光り、針尾蜥蜴もすでに姿を消している。
分からないものを、分かったことにする理由はなかった。
ルアンは木箱を持ち直し、三人を見る。
「戻ろう」
迷宮大門を出る頃には、外はすでに夕方の色になっていた。昼より冷えた空気が頬へ当たり、フィナは外へ出るなり外套の前を閉じる。セインも槍を持ち直しながら空を見上げ、日が落ちるのがずいぶん早くなったと呟いた。
探索者組合へ戻ると、四つの箱を渡し、報酬の確認より先にルアンは針尾蜥蜴のことをゴードへ報告した。浅層東側、旧休憩所から戻る途中、一匹だけで、追ってはいない。ゴードは必要なことを順番に確かめながら地図を出し、ルアンが指した場所へ小さな印を付けた。
「見間違いじゃないな?」
「はい。前に襲われたことがあるので、姿は分かります」
いつもの気の抜けた表情は少し薄れていた。
続けて、導灯の色が一瞬だけ青く見えたことも話した。変化を見たのはルアンだけで、三人が確認した時には元へ戻っていたこと、通路が狭く感じられたこと、ミレーナが見た範囲では落石の跡がなかったことも、そのまま伝える。
フィナも風向きについて話したが、行きとの比較はできないと付け加えた。ゴードは誰かの推測を一つの答えにまとめようとはせず、それぞれの話を地図の脇へ短く書き込んだ。
しばらく考えたあと、ゴードは奥へ消えた。戻ってきた時には、ダグが一緒だった。
「またお前か」
顔を見るなり言われ、ルアンは眉を寄せる。
「僕がやったみたいに言わないでくださいよ」
「やってねえならいい」
ダグは地図へ視線を落とし、針尾蜥蜴の出た場所を確認した。少しの間そこを見たあと、この辺りではまず見ないとだけ言った。
「絶対にいないわけじゃないんですか?」
「魔物に絶対なんかあるか」
それはそうだった。けれど、普段なら見かけない場所にいたという事実まで消えるわけではない。
ダグは次に導灯のことを尋ねた。
「前のと同じか?」
「似てるところはあります。でも、見え方は違いました。同じとは言い切れません」
ルアンはそう答えた。見たのは一瞬で、他の三人は確認していない。前と同じ異変だったと断定できるほどの材料はなかった。
ダグはルアンを少し見てから、地図へ視線を戻した。
「明日、管理院が直接見に行く」
ルアンも明日は勤務だが、担当は別の場所だという。気にはなったものの、自分が行く必要のある仕事ではないことも分かっていた。
「気になるのと、行く必要があるのは別だ」
「はい」
以前にも似たことを言われた気がした。ルアンは素直に頷いた。
報酬の銀貨十二枚を四人で分け、組合を出た頃には通りの灯りが目立ち始めていた。食堂や屋台から夕食の匂いが流れてきていたが、いつもなら真っ先に何を食べるか言い出すセインも、今日はしばらく黙って歩いている。
ミレーナは何かを考えながら足元を見ており、フィナも時々自分の指先へ目を落としていた。やがてフィナが、針尾蜥蜴は本当にあの辺りには来ないのかと尋ねると、セインもミレーナも浅層で見たことはないと答えた。
それだけなら、迷い込んだ一匹だったのかもしれない。
ルアンは歩きながら、これまでに見た異変を思い返した。前には片側だけ暗く見える導灯があり、今日は光が一瞬だけ青くなった。あの時は壁の内側に空洞があり、今日は浅い場所にいるはずのない魔物がいた。さらに行きも帰りも狭く感じる通路まである。
どれも、それ一つなら偶然で済むのかもしれない。狭く感じた通路に至っては、本当に最初から同じ幅だった可能性さえある。
けれど、偶然だと言うには、少しずつ数が増えていた。




