第39話 三人の日
三日後の朝、月兎亭を出たところで、ルアンの息が白くなった。
ほんの一瞬だった。試しにもう一度吐いてみると、今度は薄く曇っただけですぐに消えたが、それでも数日前とは空気が違う。ルアンは新しく買った冬服の袖へ手を半分隠し、冷えた指先を少し曲げた。
袖は、ちゃんと手首まで届いている。少し大きめを選んだので腕を伸ばしても短くならず、肩にもまだ余裕があった。
「今度はちゃんと長いね」
入口から顔を出したマーサが言った。
「ちゃんと買ってきたよ」
「見れば分かるよ」
「言われた日に買ったからね」
「買ったならいいさ。ほら、扉閉めな。寒い」
マーサに追われるように外へ出され、ルアンは扉を閉めた。新しい冬服は銀貨十九枚の靴ほど高くはなかったが、今月の財布を思えば安い買い物でもない。それでも今朝の冷え方を考えると、買っておいてよかったらしい。
今日は灯守の勤務はない。昨日と一昨日はダグと導灯の点検に回っていたので、セインたちと迷宮へ入るのは数日ぶりになる。
ただし、今日待ち合わせているのは二人だけだった。
昨夜、仕事帰りに七番倉庫へ寄った時、フィナが翌日の予定を話した。
「明日は療院です。夕方までは抜けられないと思います」
いつもの鞄を膝の上に置きながら、フィナは少し申し訳なさそうに言った。
「じゃあ明日は三人だね」
ルアンが答えると、セインは椅子にもたれたまま頷いた。
「俺らだけで何かやるか」
「三人でできる仕事ならね」
ミレーナはそう言ってから、机の上に置いていた道具を鞄へ戻した。
「フィナがいないのに、四人でやるつもりだった仕事を勝手に三人で片づけるのはなし」
「分かってる」
「セインに言ってる」
「俺も分かってるって」
フィナは二人のやり取りを聞いて、小さく笑った。そのあと少し考えてから、「仕事が早く終わったら、あとで合流してもいいですか」と言ったので、白樹療院の近くで時間が合えば何か食べようという話だけ決めた。
今朝は、そのフィナがいない。
ルアンは大門市場を抜けながら、いつもより少し早い歩調で探索者組合へ向かった。屋台の鍋から上がる湯気が冷たい空気の中でよく見え、通りには厚手の外套を着た人が増えている。果物を並べていた店先でも、今は干した豆や根菜、塩漬け肉の方が広い場所を占めていた。
探索者組合の前では、セインが壁にもたれて待っていた。今日は厚手の外套をきちんと着ており、襟元まで閉じている。
「忘れなかったんだ」
ルアンが言った。
「いつまで言うんだよ」
「一回ちゃんと着てきただけで褒められるのも変よね」
後ろから来たミレーナが言うと、セインは二人を交互に見た。
「またお前ら二人してそれか」
「僕は褒めたよ」
「絶対褒めてないだろ」
三人で組合へ入ると、朝の依頼札の前には何組か探索者が集まっていた。ルアンはいつものように空いているところから札を見ていったが、四人で選ぶ時より何となく視線の置き場が違う。
フィナがいないから危険な仕事を避ける、という話ではない。そもそも彼女がいる時でも、治してもらうことを前提に危険を選ぶつもりはなかった。ただ、療院の知識や治療師の同行を条件にしている依頼は、今日は最初から候補に入らない。
「これ、どう?」
ミレーナが一枚を指した。
浅層北西側の旧運搬路から、使われなくなった折り畳み式の荷台を二台回収する仕事だった。新しい運搬路が使われるようになったため、古い荷台だけが壁際へ残されているらしい。
「銀貨十四枚」
セインが報酬を読んだ。
「三人で割れないな」
「依頼を決める基準がそこなの?」
「気にはなるだろ」
「銀貨四枚ずつ取って、残り二枚は共通で使う分にすればいいじゃない」
「それでいい」
セインの返事があまりに早く、ミレーナが少しだけ眉を上げた。
ルアンは地図を確認する。目的地までの大半は知っている経路で、荷台も一台ずつなら三人で十分運べる大きさだという。危険度も低く、今日の仕事としてはちょうどよさそうだった。
「これにしようか」
「異議なし」
「私も」
受付へ札を持っていくと、ゴードは三人を一度見渡した。
「今日は一人足りないな」
「フィナは療院です」
ルアンが答える。
「そうか。まあ、こいつなら三人で足りる」
ゴードは地図へ二つの回収地点を書き込み、荷台の車輪には固定用の留め具があることを説明した。壊れて動かない場合は無理に運ばず、位置と状態だけ報告すればいいという。
迷宮大門を抜けると、三人は自然にいつもの間隔で歩き始めた。
セインが少し前を行き、その後ろをルアンとミレーナが歩く。湿った石の匂いと靴音が戻ってきて、地上の冷気も次第に薄くなっていった。
十数歩進んだところで、ルアンは一度だけ後ろを振り返った。
誰もいない。
分かっていたことなのに、そこにあるはずのものが一つ抜けたような感じがした。
「どうした?」
セインが前から聞く。
「いや。なんでもない」
「フィナ探した?」
ミレーナが横から言った。
ルアンは少し迷ってから頷いた。
「……ちょっとだけ」
「私もさっき一回振り返った」
「ミレーナも?」
「何よ」
「いや、なんとなく」
ミレーナはそれ以上言わず、前へ視線を戻した。何度か一緒に歩いただけでも、人がいる場所というのは身体が勝手に覚えるらしい。
それでも、三人になったから歩きにくいわけではなかった。セインの歩幅は相変わらず大きく、ミレーナは足元の状態を見ながら必要なところだけ速度を落とす。ルアンも二人の歩き方には、もうかなり慣れている。
最初の荷台は、地図に記された通り壁際へ置かれていた。
木と鉄で作られた低い台に四つの小さな車輪が付き、長い持ち手だけが内側へ折り畳まれている。長く使われていなかったらしく表面には薄く埃が積もっていたが、見たところ大きな破損はなかった。
「これなら動くな」
セインがしゃがみ込み、車輪を手で回して確かめた。
「蹴らなかったわね」
「俺だって成長するんだよ」
「昨日何かあった?」
「何もなくても成長する」
ミレーナは返事をせず、反対側の車輪へ回った。ルアンも荷台の下を覗き、留め具と持ち手の状態を確認する。
「ここ、ちょっと下がってない?」
ルアンが言うと、ミレーナが荷台から少し離れて見る。
確かに片側だけ低い。車輪を調べると、壊れてはいないものの軸が少し沈み、まっすぐ押すと左へ流れる癖がついていた。
「空だから運べると思う」
ミレーナが言った。
「じゃあ俺が押す」
「坂では一人で支えないでよ」
「分かってる」
セインが試しに数歩押すと、荷台は少し左へ寄った。三人はその癖を確認し、一台目はそのまま回収することにした。
二台目の場所へは、空の荷台を押しながら向かった。
車輪が石床を転がる音は、普段の足音よりよく響く。セインが前方を確認し、ミレーナは傾いた車輪を時々見ながら歩き、ルアンは地図と通路の分岐を照らし合わせた。
途中でセインが左へ曲がろうとした。
「そっちじゃないよ」
ルアンが言うと、セインが足を止めた。
「え?」
「次は右」
「前に来た時、左じゃなかったか?」
「その時と目的地が違うでしょ」
ミレーナが横から言った。
セインは分岐と地図を見比べ、それから素直に右へ向かった。フィナがいれば一度地図を覗き込んだかもしれないが、今日はミレーナの返事が早く、セインもそれで納得した。
誰かが一人いないだけで、同じ三人の会話にも少し違う形ができる。
二台目の荷台は、地図に書かれていた状態とは違っていた。
壁へ立てかけられているはずが、横倒しになっている。
「倒れてるね」
ルアンが立ち止まった。
セインもすぐには近づかず、少し離れたところから周囲を見る。荷台の近くには拳より小さな石片がいくつか散り、車輪の一つがその間に半分埋まっていた。
「上から落ちた?」
セインが天井を見上げる。
目立つ亀裂はない。
ミレーナは荷台の周囲をゆっくり一周し、石片の一つを拾った。指で表面を撫でてから、今度は壁へ顔を寄せる。
「誰かが倒しただけかもしれない」
「石が落ちて倒れたんじゃなくて?」
「このくらい落ちたなら、もう少し上に剥がれた跡がありそうだけど……見える範囲にはないわね」
ルアンも近くの壁と床を見た。石片は荷台の下にも入り込んでいるが、倒れてから転がり込んだのか、先に落ちていたところへ荷台が倒れたのかまでは分からない。
すぐ近くには導灯があった。
ルアンはそちらへ近づき、灯りと外殻を確認する。明滅はなく、光の色にも影の出方にも不自然なところはない。
「導灯は普通」
ルアンが言うと、ミレーナも壁から少し離れて見上げた。
「壁も、今すぐ崩れそうには見えない」
セインは二人から少し距離を取り、前後の通路へ耳を澄ませる。
「変な音もしないな」
三人はそのまましばらく待ったが、石が追加で落ちることも、床から振動が伝わってくることもなかった。
「起こしてみる?」
「ゆっくりなら」
セインが荷台の上側、ルアンが下側を持ち、ミレーナが車輪の位置を見ながら声を掛ける。少しずつ重さを移して起こすと、下にあった石片がいくつか転がったものの、荷台そのものに目立った破損はない。
セインが四つの車輪を順番に回す。
「全部動く」
「留め具も大丈夫」
ミレーナも反対側を確かめて頷いた。
地図に書かれていた状態と違うことだけ覚えておき、二台とも持ち帰ることにした。
帰りは一台をセインが押し、もう一台をルアンとミレーナが扱った。二台並べると通路を塞ぐ場所があるので、狭いところでは縦一列になり、坂では前後から荷台を支える。
誰が前を見る、誰が後ろを見ると、そのたびに役割を言葉で決めることはなかった。それでもセインが通路の先を確かめる間はルアンが荷台を押さえ、ルアンが導灯を見る時にはミレーナが車輪を止める。誰かが作業を始めれば、残った二人のどちらかが自然に周囲へ視線を向けるようになっていた。
途中で何度か、
「止まる」
と声が上がった。
その一言があれば、前の人も後ろの人も同時に足を止められる。荷台がある日は、それだけで随分歩きやすかった。
ところが坂を下りきったところで、セインだけが何も言わずに止まった。
後ろから押していた荷台がわずかに進み、角がルアンの踵へ当たる。
「痛っ」
ルアンが足を引くと、セインがすぐに振り返った。
「悪い」
「止まる時、言うって決めたでしょ」
「決めたっけ?」
「さっきからそうしてるじゃない」
後ろの荷台を押さえていたミレーナが、呆れたように息を吐いた。
「じゃあ今決める。止まる時は言う」
「はい」
「返事だけはいいのよね」
「ちゃんとやるって」
セインが少し不満そうに前を向いたので、ルアンは笑いながら踵を確かめた。痛みはもうほとんどなく、靴にも傷はついていない。
「もういいよ。行こう」
「今度は言う」
「うん」
三人は再び荷台を押し始めた。
迷宮大門へ戻った頃には、地上の日がかなり傾いていた。地下ではほとんど変わらなかった気温が、大門を抜けた途端に一段下がり、汗の引いた首元へ冷たい空気が触れる。
ルアンは新しい冬服の袖を整えた。セインも荷物に括っていた外套を着直し、ミレーナは手袋をはめながら組合へ向かう。
回収した荷台を渡すと、ゴードは一台目の車輪よりも、二台目が倒れていたことを詳しく聞いた。
「石が散ってたんだな?」
「はい。ただ、どこから落ちたかは分かりませんでした」
ルアンが答える。
「壁は?」
「ミレーナが見ました。崩れそうな場所はなかったです」
「導灯は?」
「普通でした」
ゴードは一度だけ荷台へ目をやり、地図の回収地点へ印を付けた。
「分かった。管理院には場所だけ回しとく」
「お願いします」
「お前らはもう見に行くなよ」
「行きませんよ」
ルアンが答えると、ゴードは少しだけ笑った。
報酬の銀貨十四枚は、三人で四枚ずつ受け取った。残った二枚をどうするか尋ねられる前に、ミレーナが小さな革袋を取り出して入れる。
「共通分」
「何に使う?」
セインが覗き込む。
「縄とか布とか、みんなで使うもの」
「肉串は?」
「自分で買って」
「四人で食ったら共通じゃないのか」
「ならない」
ミレーナは革袋の口を締め、自分の鞄へ入れた。ルアンもその扱いに異論はなかったし、次に必要なものが出た時に毎回細かく割るより分かりやすそうだった。
組合を出ると、空はまだ明るいものの、建物の影は長く伸びていた。フィナの仕事が終わるにはちょうどよさそうな時間になっている。
「白樹療院の方、行く?」
ルアンが聞く。
「行こうぜ。腹減った」
セインがすぐに答える。
「朝からそれしか言ってない気がする」
「朝とは別の腹だろ」
「どう別なのよ」
ミレーナが呆れながらも、療院のある通りへ歩き出した。
白樹療院から少し離れた市場通りに、ミレーナが知っている食堂があった。赤い煉瓦をかたどった小さな看板の下に、赤煉瓦亭と書かれている。
「ここ?」
ルアンが店を見上げる。
「安いし、仕事着のままでも入りやすいわよ」
「量は?」
「普通」
「じゃあ二つ頼めばいいな」
「一つ食べてから考えなさい」
鉄鍋亭より少し明るい店内には長い木の卓が並び、市場帰りらしい職人や荷運び人が何組も座っていた。酒を飲んでいる客もいるが騒がしくはなく、厨房からは焼いた肉と温かいパンの匂いが流れてくる。
三人は壁際の卓へ座り、根菜と細く切った肉を煮てパンに挟んだ料理を頼んだ。鉄鍋亭の大皿ほど量はないが、仕事帰りに食べるには十分そうだった。
「フィナ、ここ分かるかな」
ルアンが言う。
「昨夜、療院の近くって言っただけでしょ」
「私が迎えに行くつもりだったのよ」
ミレーナが答えた。
「じゃあ俺待ってる」
「食べたいだけでしょ」
「料理来たら冷めるだろ」
「まだ来てないわよ」
結局、ミレーナが席を立とうとしたところで、入口の扉が開いた。
フィナだった。
療院の仕事着の上から外套を羽織り、髪も朝より少し乱れている。店内を見渡して三人を見つけると、疲れていた顔が少しだけ緩んだ。
「見つけました」
「よく分かったね」
ルアンが言うと、フィナは席まで来て鞄を下ろした。
「療院を出たところで、ここの店員さんに三人組が来なかったか聞きました。銀髪の人がいるって言ったら、すぐ教えてくれました」
「便利だな、ルアン」
「僕を目印みたいに言わないでよ」
フィナは空いていた席へ腰を下ろし、外套の前を少し緩めた。座った途端、肩から力が抜けるのが分かり、朝から療院で働いていた疲れがようやく出てきたように見えた。
「仕事、どうでした?」
フィナが聞く。
「荷台を二台回収した」
「地味だった」
セインが言う。
「でも銀貨十四枚」
ミレーナが付け加える。
フィナは少し考えてから三人を見た。
「三人で?」
「うん」
「ちゃんと帰ってきましたね」
何気ない言い方だった。
ルアンは少し笑った。
「フィナがいなくても、それくらいはできるよ」
「知ってます」
すぐに返され、セインまで笑った。
料理が届くまで、三人は今日のことを順番に話した。最初の荷台の車輪が曲がっていたこと、セインが止まる時に声を掛けずルアンの踵へ当てたこと、それから二台目が地図とは違う状態で倒れていたこと。
最後の話になると、フィナは少し姿勢を直した。
「石が落ちてたんですか?」
「周りに散ってた。でも、上に剥がれた跡は見つからなかった」
ルアンが答える。
「風は?」
「特に変だとは思わなかった」
セインが言い、ルアンも記憶を辿る。
「僕も。導灯も普通だったよ」
「そうですか」
フィナはそれ以上追及しなかった。自分がその場で見ていないことを、想像だけで決めないのだろう。
やがてフィナの料理も運ばれ、四人の前から湯気が上がった。朝から別々の場所で仕事をしていたのに、夕方には同じ卓を囲んでいることを、ルアンは少し不思議に思う。
三人で迷宮へ行く日があってもいいのだろう。
二人の日もあるかもしれないし、誰とも予定が合わない日は、一人で灯守の仕事をして月兎亭へ帰るだけかもしれない。一緒に行こうと決めたことは、毎日同じ場所にいることとは違う。
ルアンはパンをちぎり、煮込んだ肉と一緒に口へ入れた。向かいではセインがすでに自分の皿を半分以上空け、ミレーナはそれを見て呆れている。フィナは熱い根菜を少し冷ましてから食べていた。
「次は、いつ行きますか?」
フィナが食事の途中で聞いた。
「明日」
セインが即答する。
「私は明日も療院です」
「じゃあ明後日」
「僕は明後日、ダグと点検」
「じゃあいつだよ」
セインが本気で困ったような顔をしたので、ミレーナは鞄から小さな紙を取り出した。自分の回収仕事の予定を指で追い、フィナも療院の勤務を思い出すように視線を少し上げる。
「三日後の午後なら、私は空いてる」
「私も午後なら大丈夫です」
二人の答えを聞いて、ルアンも次の灯守勤務を頭の中で確かめた。
「僕もその日は非番」
三人の予定が揃ったところで、セインが胸を張る。
「俺はいつでもいい」
ルアンとミレーナとフィナが、ほとんど同時にセインを見た。
「……何だよ」
「働いてる?」
「働いてるよ」
本気で不満そうな顔をするので、三人とも笑った。セインも少し遅れて笑い、残っていたパンを口へ放り込む。
外では日が落ち始め、窓の向こうを歩く人たちが外套の襟を上げていた。四人の予定がいつでも揃うわけではない。それでも、それぞれの仕事へ戻ったあとに、また同じ日に空く場所を探せばいい。
次に四人が揃うのは、三日後だった。




