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第38話 見る場所

二日後の朝も冷えた。


昨日は一日、ダグと導灯(どうとう)の点検に回っていた。迷宮の中にいる間はそれほど気にならなかったが、夕方に地上へ戻った途端、袖口から入った風がやけに冷たく感じられた。去年から着ている冬服が短くなっていることを、一度気にし始めるとどうにも目につく。


ルアンが月兎亭(げっとてい)の食堂へ下りると、入口の扉が開くたびに冷たい空気が床を這ってきた。今日も同じ仕事着を着ているが、パンへ手を伸ばすたびに手首が少し覗く。昨年はこんなことはなかったはずなのに、服の方が縮んだのか、自分の腕が伸びたのか、まだ少し納得しきれていなかった。


「今日、帰りに服見てくるよ」


朝食を運んできたマーサに言う。


「やっとその気になったかい」

「昨日はダグと一日点検だったから」

「じゃあ今日は早く帰ってきな」

「それはまだ分かんないよ」


マーサが眉を上げる。


「服一枚買うのに、何日かけるつもりだい」

「買うとはまだ言ってないよ。見るだけ」

「見て、短い袖のまま帰ってきたら承知しないよ」


ルアンは何か言い返そうとしたが、昨日一日、袖口から入る冷気が気になっていたのも事実だった。仕方なく豆の煮込みをパンですくい、口へ運ぶ。


今日は灯守(ともり)の勤務はない。三人とも時間が合ったので、探索者組合の前で待ち合わせることになっていた。ただ、そこで何の仕事を受けるかまでは決めていない。


早く終われば市場へ寄れるだろうが、依頼によっては帰りが遅くなる。服を見るなら仕事を決める前に行けばいいのかもしれないが、朝から冬物を抱えて迷宮へ入るのも嫌だった。


「帰りにちゃんと行くよ」


もう一度言うと、マーサは「そうしな」とだけ返した。


朝食を終えて部屋へ戻り、荷物を確かめる。水、布、簡単な食べ物、手袋。新しく買った靴の紐を締め直してから外套(がいとう)を羽織り、ルアンは月兎亭を出た。


通りへ出ると、日差しはあるのに空気はまだ冷たい。大門市場の店先では根菜や乾燥豆が目立つようになり、湯気の立つ鍋を出している屋台も少しずつ増えていた。少し前までは見なかった光景の間を抜けながら、ルアンは三人の待つ探索者組合へ向かった。


探索者組合の前へ着くと、今日はセインが厚手の外套を着ていた。前に会った時より明らかに暖かそうな格好で、襟元まできちんと閉じている。


「ちゃんと着てきたんだ」


ルアンが言う。


「俺だってこの前言われたことくらい覚えてる」

「へえ」


後ろから来たミレーナが、少しだけ感心したように言った。


「何だよ、その反応」

「三日くらいかかると思ってた」

「俺を何だと思ってんだ」

「セイン」


ミレーナはそれだけ答え、組合の扉を開けた。


少し遅れて来たフィナは薄い手袋をしていた。中へ入るとすぐに外し、指を軽く握ったり開いたりしている。


「寒かった?」

「昨日より少し。朝は手が冷たくなるので」

「療院でも?」

「治療の前は温めます。冷たい手で触ると驚かせてしまうので」


そんなことまで考えるのかとルアンは思ったが、フィナにとっては当たり前なのだろう。四人で依頼札の前へ移ると、今日はそれほど混んでいなかった。


「これ、どう?」


ミレーナが一枚を指す。


浅層西側の古い運搬路に設置された補助索(ほじょさく)を、二か所交換する仕事だった。傾斜のある通路で、荷物を運ぶ人間が身体を支えるために使う太い縄らしい。新しい縄と固定具は支給され、古いものを持ち帰れば完了になる。


「銀貨十六枚」


セインが読む。


「四人で四枚ずつね」

「作業自体は難しくなさそう」

「だからいいんじゃない?」


ミレーナは地図も確かめた。目的地までは既知の経路が続き、危険度も低い。ルアンも異論はなく、フィナも頷いた。


受付で手続きをすると、縄を巻いた大きな束を二つ渡された。見た目ほど重くはないものの、片手で持ち続けるには邪魔になる。


「俺、両方持てるぞ」


セインが言う。


「一つでいいよ」

「何で?」

「もう一つ僕が持つから」

「別に二つでも」

「帰りに古い縄が増えるでしょ」


横からミレーナが言うと、セインは「ああ」と納得した。フィナが小さく笑ったのを見て、セインは少しだけ不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。


迷宮大門を抜け、四人は西側の通路を進んだ。


昨日と同じように、地下へ入るにつれて地上の冷たさが遠のいていく。ルアンも途中で外套の前を開け、セインは早々に脱いで丸めたものを荷物の上へ括(くく)りつけた。


「ほら、やっぱり暑くなった」

「帰りに忘れないでよ」


ミレーナが言う。


「括ってあるんだから忘れないだろ」

「荷物ごと忘れなければね」

「そんな奴いるか?」

「あなたなら可能性はある」


セインは反論しようとしたが、その前を歩いていたフィナが振り返って笑ってしまったので、結局何も言わなかった。


最初の補助索は、細長い坂道の途中にあった。


片側の壁に二本の鉄製固定具が打ち込まれ、そこへ太い縄が渡されている。見たところ切れそうなほど傷んではいないが、表面はかなり毛羽立っていた。


「使えなくなる前に替えるんだね」


ルアンが縄を触る。


「切れてからじゃ遅いでしょ」


ミレーナは固定具の根元へ指を当て、少し力をかけた。


「こっちはまだ使える。縄だけ交換でいいと思う」

「じゃあ外すか」


セインが手を伸ばす。


「待って。結び目の形を見てから」


ミレーナが止めた。


四人は揃って壁際へ寄った。固定具に巻かれた縄の通し方をルアンが確認し、ミレーナが結び目を指で解きながら構造を見る。セインはすぐ横から覗き込み、フィナも後ろから少し身体を傾けていた。


「これを先に抜いて――」


ミレーナが言いかけた時、背後で小さな音がした。


フィナが先に振り返る。


「何かいます」


三人もほぼ同時に後ろを見る。


通路の端で、灰色の岩鼠(いわねずみ)が荷物の匂いを嗅いでいた。大きな個体ではなく、こちらに向かってくる気配もない。


「あっち行け」


セインが槍の石突きを床へ軽く打ちつけると、岩鼠は身体を震わせ、そのまま壁際の隙間へ逃げていった。


しばらく誰も話さなかった。


ミレーナが、まだ手にしていた縄を見る。


「四人いたのに、全員ここ見てたわね」

「見てたね」


ルアンも言った。


「俺は周り見てたぞ」

「今は見てなかったでしょ」

「今は縄見てた」

「だから言ってるのよ」


セインが口を閉じる。


危険な魔物ではなかったからよかったが、もっと厄介なものだったら同じでは済まなかった。四人いるから周囲を見る目も増えたと思っていたのに、四人揃って一つの結び目を眺めていた。


「作業する人と、見てる人を分けた方がいいかな」


ルアンが言う。


「そうね。少なくとも全員で同じことする必要はない」


ミレーナが答えた。


「じゃあ俺が見張る」

「ずっと?」

「別にいいぞ」

「セインだけがずっと見張りだと、作業を覚えないでしょ」


そこまで言ってから、ミレーナがルアンを見る。


「全部決める?」


突然聞かれ、ルアンは少し考えた。


昨日、誰がどうするか分からなければ自分が決めると言ったばかりだった。けれど今は、まだ誰も困っていないし、答えが一つに決まっているようにも思えない。


「先に、どうしたいか聞いていい?」

「もちろん」


ミレーナはあっさり頷いた。


セインは前方を見るのがいいと言った。歩いている時から一番先にいることが多く、音を拾ったり、魔物を見たりするならその方がやりやすいらしい。


「でも作業もやる。交代でいいだろ」

「うん」


フィナは少し考えてから口を開いた。


「私は、後ろを見ます」

「後ろ?」

「前はセインが見てくれるなら。さっきも、後ろから来ましたし」


言われてみればそうだった。


「ずっと振り返ってなくていいよ」

「はい。作業もしたいです」


最後の一言だけ、少し強かった。


ミレーナが笑う。


「じゃあ、作業する二人、前を見る一人、後ろや周りを見る一人。途中で替えればいいんじゃない?」

「それがよさそう」


ルアンは頷いた。


最初の縄は、ミレーナとルアンが交換することになった。セインは坂の上側に立ち、フィナは下側から時々後方の通路も確認している。


古い縄を外し、新しい縄を同じように固定する。途中でルアンが結び方を一度間違え、ミレーナに無言でほどかれた。


「今の違った?」

「違った」

「どこ?」

「ここ」

「分かんない」

「じゃあ見て」


今度は二人だけで結び目を見た。


セインとフィナは見なかった。


それだけのことなのに、さっきより周囲が広く感じた。


一か所目を終えると、古い縄を巻き直して荷物へ加えた。帰りは確実に重くなるので、セインが新しい縄の残りを持ち、ルアンが古い縄を持つことにする。


「次は俺も替える」


歩き出してすぐ、セインが言った。


「結び方見てなかったでしょ」

「途中から見た」

「見張りは?」

「ちょっと見た」

「どっちよ」

「両方」


ミレーナは呆れていたが、完全には否定しなかった。


二か所目へ向かう途中、狭い段差があった。


高さはそれほどないが、フィナには少し歩幅が大きい。ルアンが手を出そうとした時、同時にセインも振り返り、さらにミレーナも「そこ滑るわよ」と声を掛けた。


フィナは三人を見た。


「大丈夫です」


自分で壁へ手をつき、慎重に降りる。


「……三人とも同時に言わなくていいです」

「ごめん」


ルアンが先に謝った。


「俺は手出しただけだぞ」

「私も言っただけ」

「二人とも同じだよ」


フィナは怒ってはいなかった。けれど、少しだけ困ったような顔をしていた。


また同じところを三人で見ていた、とルアンは思った。


二か所目の補助索は、一か所目より傷んでいた。


縄だけでなく、下側の固定具が少し緩んでいる。ミレーナが触れると、鉄の根元で細かな石粉が落ちた。


「これは場所を変えた方がいい」


ミレーナが言う。


「同じ穴は使えない?」

「使えても、長くは持たないと思う。少し横へずらしたい」


壁を叩きながら、固定できそうな場所を探す。


「ここなら固い」

「そこだと縄、高くなりませんか?」


フィナの言葉に、三人も新しい位置を見る。今より少し高くなる。ルアンやセインなら気にならない程度だが、背の低い人には持ちにくくなるかもしれなかった。


「じゃあ少し下?」


ルアンが聞く。


ミレーナは壁の状態を確認する。


「下でもいける。ただ、十センチくらい右ね」

「通る時、邪魔にならない?」

「坂の内側だから大丈夫だと思う」


セインが実際に立って、縄を握る位置を確かめた。フィナもその隣に立ち、手を伸ばす。


「これなら使いやすいです」

「じゃあここにしよう」


今度はセインとミレーナが固定具を打ち直した。


ルアンは前方を見ながら、時々作業の音を聞く。フィナは後ろを確認しつつ、新しい縄が床へ擦らないようまとめて持っていた。


途中で一度、セインの打ち方が強すぎるとミレーナに怒られた。


「石まで割ったらどうするの」

「入らないんだよ」

「だからって力だけでどうにかしないで」

「じゃあ代われ」

「代わる」


本当に代わった。


ルアンは少し笑ったが、前から目は離さなかった。


交換を終えた後は、四人で実際に補助索を使って坂を上り下りした。


ルアン、セイン、ミレーナ、最後にフィナ。握る高さにも張りにも問題はなく、固定具も動かない。


「これでいいね」


ルアンが言う。


「最初より使いやすいかも」


フィナが新しい縄から手を離す。


「位置変えたからね」

「フィナが言わなかったら高くなってたわ」


ミレーナが道具を片づけながら言った。


フィナは返事をせず、少しだけ嬉しそうに縄を見た。


帰り道では、自然に歩く位置が少し変わっていた。


セインが前を歩き、その少し後ろをルアンとミレーナが並ぶ。フィナは最後尾ではなく、三人の後ろが見える位置を歩きながら、時々振り返って後方を確かめていた。


誰かが決めたわけではない。


それでも、全員で同じ場所を見ることは減っていた。


迷宮大門を出ると、地上は朝より暖かかったが、陽はもう西へ傾き始めていた。仕事は予定より少し早く終わったらしい。


「服、見に行けそうですね」


フィナがルアンの袖を見て言った。


「……なんで分かったの?」

「袖を何回か引っ張ってたので」


見られていた。


ミレーナまで袖を見る。


「ほんとに短いわね」

「去年の服だから」

「買いなさい」

「今朝も宿で言われた」

「じゃあ買いなさい」

「二人に言われると逃げ道がないな」


セインが笑った。


「俺も行く。何か食おうぜ」

「服を見に行くんだけど」

「見終わったら食えるだろ」

「まだ昼食べてからそんな経ってないでしょ」

「迷宮入ったら腹減るんだよ」


結局、四人で大門市場まで歩いた。


ルアンが冬物の店を見る間、セインは近くの屋台から漂う焼いた肉の匂いばかり気にしていた。ミレーナは勝手に生地を触って厚みを確かめ、フィナは袖の長さを見る。


「これなら来年も着られるんじゃない?」


ミレーナが少し大きめのものを選ぶ。


「大きすぎない?」

「また伸びたら?」

「そんなに伸びるかな」

「今年伸びたんでしょ」


ルアンは自分の腕を見る。


去年の自分と並ぶことはできないので、どれくらい変わったのかは分からない。ただ、今着ている服の袖が短いことだけは確かだった。


結局、濃い灰色の厚手の冬服を一着買った。


安くはなかったが、布地はしっかりしていて、肩にも少し余裕がある。ミレーナが値段と縫い目を確認し、「これならいいんじゃない」と言ったので、ルアンもそれ以上迷わなかった。


店を出る頃には、セインが本当に屋台で肉串を買っていた。


「食う?」


一本差し出される。


「買ったの?」

「四本」

「最初から?」

「全員食うと思って」

「私いらないって言ったらどうするのよ」


ミレーナが言いながら一本取った。


フィナも少し迷ってから受け取り、ルアンも最後の一本をもらう。温かい肉から湯気が立ち、冷え始めた風の中では、思ったよりおいしかった。


四人で歩くようになっても、全員が同じことをする必要はない。


ルアンは肉串を食べながら、昼間の結び目を思い出していた。誰かが前を見ている時、別の誰かが後ろを見ていればいい。誰かが気づかなかった高さを、別の誰かが見つけることもある。


次は、もう少しうまくやれそうな気がした。

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