第37話 四人分の歩幅
朝、窓を開けたルアンは、すぐに閉めた。
冷たい空気が寝起きの顔へまともに当たり、思っていたより寒かった。数日前までなら窓を開けたまま着替えていたのに、今朝はそれをする気になれない。吐いた息が白くなるほどではなかったが、冬が近づいていることは、もう十分に分かった。
箪笥から去年の冬服を引っ張り出し、久しぶりに袖を通す。去年の寒い時期に着ていたもので、肘や肩にはまだ目立った傷みもない。ところが腕を伸ばしてみると、袖口が手首より少し上までしか来なかった。
「あれ」
洗って縮んだのかと思い、反対の腕も伸ばしてみる。どちらも同じだった。
そのまま階下へ降りると、月兎亭の食堂では、マーサが大鍋を火に掛けていた。いつもの豆の煮込みより湯気が多く、入口近くに座っている客の何人かは、まだ外套を脱いでいない。
「おはよう」
「おはよう。今日は冷えるよ」
マーサはそう言ってから、ルアンの服を見る。
「それ、去年のだね」
「うん。でも袖が短くなってる」
「そりゃ、坊やの腕が伸びたんだろ」
「服が縮んだんじゃない?」
「去年から少しも大きくなってないと思うのかい」
よく分からない理屈だと思ったが、袖口を引っ張っても長くはならなかった。着られないほどではないので今日はそのままにしようとすると、マーサが「今度ちゃんと買いな」と念を押してきた。
「靴買ったばっかりなんだけど」
「だから何だい」
「お金が減る」
「働いてるだろ」
「減るのは同じだよ」
「必要なものに使う金まで惜しむんじゃないよ」
ルアンは何か言い返そうとしたが、うまい言葉が浮かばなかった。仕方なく、豆の煮込みをパンですくって口へ運んだ。
今日はルアンの非番で、たまたま三人とも予定が空いていた。昨日、七番倉庫でこれからも一緒に行こうと話したばかりだったので、午前中から四人で探索者組合へ行くことにしている。
探索者組合へ向かう頃には日が出ていたが、通りの空気はまだ冷たかった。大門市場では、果物を高く積んでいた店の一角に根菜や乾燥豆が増え、薪を束ねて売る店の前には朝から何人か客が並んでいる。前を通った屋台では湯気の立つ汁物を売り始めており、少し前までは見なかった光景だった。
組合の前には、すでにセインがいた。
「遅い」
「待ち合わせより五分前だよ」
「俺は十分前からいる」
「珍しいね」
「寒くて目ぇ覚めた」
セインは腕を組みながら、何度か肩を動かしている。いつもの薄い上着の上に革の胴着を着ていたが、それでも少し寒そうだった。
「もう少し厚いの着れば?」
「昼には暑くなるだろ」
「たしかに迷宮に入ったら今より暖かいかもしれないしね」
「だろ? 俺はちゃんと考えてる」
「そこだけ聞くとね」
話しているうちにミレーナが来た。彼女は茶色の外套の襟を少し高く立て、肩からいつもの鞄を下げている。中へ入る前に二人を見るなり、セインの服装へ視線を止めた。
「寒くないの?」
「さっきルアンにも言われた」
「じゃあ聞きなさいよ」
「迷宮入れば平気だって」
「帰りは地上でしょ」
「その時考える」
「遅いのよ」
最後にフィナがやってきた時には、頬が少し赤くなっていた。療院の仕事着ではなく、前回と同じ動きやすい服に厚手の外套を重ね、首元には細い布を巻いている。
「おはようございます」
「おはよう。寒かった?」
「少し。朝、息が白くなりました」
「ほんとに?」
「家を出た時だけです。今はもう出ません」
ルアンも試しに息を吐いてみたが、白くはならなかった。日の当たる場所では、朝より気温が上がってきているらしい。
四人で組合へ入ると、依頼札の前はいつもより少し混んでいた。東側の一部がまだ通行止めになっているため、そちらへ向かう仕事がいくつか延期され、比較的安全な経路の依頼へ人が集まっているようだった。
「昨日より減ってるな」
セインが札を眺める。
「東側の依頼が止まってるからでしょ」
ミレーナが答えた。
ルアンは壁に貼られた通行制限の紙を見る。先日見つけた異変の周辺は、まだ管理院が調査中になっていた。昨日ダグから聞いた以上のことは書かれていない。
「こっちは?」
フィナが一枚を指した。
南西側の中層手前で使われていた古い測量杭を回収する仕事だった。経路の測り直しが終わり、目印として打たれていた六本の杭が不要になったため、番号を確認しながら抜いて持ち帰るらしい。
「銀貨十二枚」
ミレーナが報酬を見る。
「四人なら三枚ずつか」
「少ない?」
「楽なら妥当。杭の重さ次第ね」
ゴードに聞くと、一本ずつなら大した重さではないが、六本まとめればそれなりになるという。道も大部分は既知の経路で、前回の白鈴草採取より浅い場所だった。
「これでいいんじゃない?」
セインが言った。
ルアンは依頼札をもう一度見てから頷く。
「うん。これにしよう」
「ずいぶん早いわね」
ミレーナが少し意外そうに言う。
「最初から四人で受ける仕事だし、今日は知ってる道の方がいいかなと思って」
「前も四人だったでしょ」
「前は仕事を決めてからフィナが入ったから。今回は最初から四人」
その言葉に、フィナが少しだけ目を丸くした。
ミレーナも一度フィナを見てから、依頼札へ視線を戻す。
「……まあ、それならいいと思う」
正式に依頼を受け、四人は六本の番号と位置が書かれた簡単な地図を受け取った。杭を抜くための小さな鉄槌と革手袋も借り、荷物を分ける。
迷宮大門をくぐると、冷えていた頬が少しずつ戻ってきた。地下へ降りるにつれて外気の冷たさは薄れ、代わりにいつもの湿った石の匂いが強くなる。フィナは途中で外套の前を開き、ミレーナも襟元を緩めていた。
「地上より暖かいですね」
「入口から離れると、季節の差は小さくなるよ」
ルアンが答える。
「冬も?」
「浅いところは入口から冷気が入るけど、奥へ行くとあんまり変わらない」
「じゃあ冬は、出てきた時が寒そうですね」
「それが嫌なんだよな」
セインが前を歩きながら振り返る。
「汗かいて出たら最悪」
「だったら汗かきすぎないように歩けばいいでしょ」
「ミレーナ、そういうの調整できんの?」
「少なくとも走り回らなければね」
一つ目の杭までは、特に問題なく着いた。
壁際に打ち込まれた木の杭には黒い数字が書かれている。ルアンが地図の番号と照らし合わせ、セインが周囲を見ている間にミレーナが根元の状態を確認した。
「これ、真っ直ぐ引いたら折れるかも」
「なんで?」
ルアンが聞く。
「下が少し膨らんでる。湿って木が広がったんじゃない?」
「じゃあ掘る?」
「少しだけ」
周囲の石と土を削ってから、セインが両手で杭を引いた。最初は動かなかったが、左右へ小さく揺らすと、鈍い音を立てて抜ける。
「一本」
「あと五本」
フィナが地図の番号に小さく印を付けた。
二本目、三本目も順調だった。
三本目を抜いたところで、セインがいつもの癖で少し先へ歩き始めた。十歩ほど進んだところで、ルアンは地図から顔を上げる。
「セイン、ちょっと待って」
「ん?」
「次、右じゃなくて左だよ」
「え、そうだっけ」
セインが戻ってくる。
「あと、少し離れすぎ」
「これくらい平気だろ」
「平気かどうかじゃなくて、四人で来てるから」
言ってから、自分でも少しだけ驚いた。
以前なら、セインが先へ行けば自分が追いつけばいいと思っていた。けれど今は、誰か一人だけが先に見えなくなる方が気になった。
セインは何か言い返すかと思ったが、地図とルアンを見比べてから肩をすくめた。
「分かった。じゃあ十歩まで」
「なんで十歩」
「五歩じゃ近い」
「別に数字決めなくていいよ」
「決めた方が分かりやすいだろ」
「そこで急に几帳面になるのね」
ミレーナが呆れた声を出した。
四本目の場所へ着いた頃、フィナが自分から声を掛けた。
「少し休んでもいいですか?」
ルアンはすぐに頷いた。
「もちろん」
前回までは、歩き方が変わったのを誰かに見つけてもらってから休んでいた。今日はまだ息も乱れておらず、足にも痛みはなさそうだった。
四人は通路の端にある平らな場所へ腰を下ろした。フィナは水を一口飲んでから、自分で靴紐を確かめる。
「足?」
「大丈夫です。痛くなる前に休んだ方がいいって言われたので」
「誰に?」
「三人に」
フィナが言うと、セインが笑った。
「俺は言ってない気がする」
「一緒に笑ってました」
「じゃあ参加してたな」
「そういう数え方なの?」
ルアンも水を飲みながら笑った。
昼には少し早かったので、食事は残り二本を回収してからにすることにした。休憩を終える時、フィナは誰かに促される前に立ち上がり、靴の具合をもう一度確かめている。
五本目はすぐに見つかった。
ところが六本目のあるはずの場所へ着いても、杭が見当たらない。
「番号、合ってる?」
セインが周囲を見回す横で、フィナが地図を確かめる。
「六番はここです」
ルアンも位置を見直した。近くには導灯があり、分岐からの歩数も地図と合っている。杭が打ち込まれていたらしい小さなくぼみも残っているのに、肝心の杭だけがなかった。
「誰か抜いた?」
「抜いたなら、普通は持って帰るんじゃない?」
ミレーナはそう言いながらしゃがみ込み、くぼみの周りへ目を凝らした。
少し離れた場所まで目を走らせると、床に薄い擦れ跡が残っていた。何か細長いものを引きずったような跡が、壁際へ向かって続いている。
「こっち」
ミレーナが立ち上がる。
四人で跡を辿ると、すぐ近くの浅い溝へ出た。天井から落ちる水が細く流れており、その先の石に何かが引っ掛かっている。
「ある」
セインが指した。
杭は横倒しになり、半分ほど水に浸かっていた。
「雨で流れた?」
フィナが聞く。
「ここは雨が直接入る場所じゃないよ」
ルアンは天井を見る。水滴が一定の場所から落ち、細い溝へ集まっていた。
「上から落ちる水が増えたか、誰かが抜いたあと、ここまで流れたんだと思う」
「でも、誰が抜いたんですか?」
ルアンは少し考えたが、答えは出なかった。
「分からない。杭が傷んで、自然に抜けたのかもしれないし」
ミレーナは水の中から杭を拾い上げ、根元を確かめる。
「折れてないし、土もほとんど付いてないわね」
「じゃあ、やっぱり誰かが抜いた?」
「可能性はある。でも、決めつけるほどじゃない」
ルアンもその言葉に頷いた。
以前なら、理由が分からないことが気になって、周囲をもっと探したかもしれない。けれど今日は杭を回収する仕事で、危険なものが見つかったわけでもない。位置と状態だけ覚えておけば、戻って報告できる。
「持って帰ろう。抜けてたこともゴードさんに言えばいいよ」
「うん」
セインが杭を受け取った。
六本揃ったところで、少し広い場所へ移って昼食にした。
ルアンがパンを取り出す横で、フィナも包みを開く。前回より一回り大きなパンに薄いチーズが挟まれ、干した果物も最初から一緒に入っていた。
ルアンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
フィナも何も言わず、普通に食べ始める。
それでいいような気がした。
帰りは、抜いた杭を二本ずつセインとルアンが持ち、残り二本をミレーナが一本、フィナが一本持つことになった。ルアンは最初、フィナの分も持とうかと考えたが、彼女は自分で持ち方を変えながら問題なく歩いている。
「重くない?」
一度だけ聞く。
「大丈夫です。重くなったら言います」
「うん」
それ以上は手を出さなかった。
迷宮大門へ戻った時には、地上の日がかなり傾いていた。地下から出た途端、汗の引いた首元へ冷たい風が入り込み、セインが大きく肩をすくめる。
「寒っ」
「だから言ったでしょ」
ミレーナが外套を閉じながら言う。
「昼は平気だったんだよ」
「帰りもあるって朝言ったわよね」
「明日から厚いの着る」
「明日覚えてればね」
フィナも外套の前を閉じる。ルアンは袖口から少し出た手首に冷気が当たるのを感じ、やはり冬服は買い替えた方がいいのかもしれないと思った。
探索者組合で六本の杭を渡すと、ゴードは最後の一本だけ少し長く見た。
「これ、水に落ちてたのか?」
「はい。打ってあった場所から少し離れた溝に」
ルアンが答える。
「抜けた跡は?」
「ありました。でも、誰かが抜いたかどうかまでは分かりません」
「そうか」
ゴードは地図に何かを書き込み、それ以上は言わなかった。
報酬の銀貨十二枚を受け取ると、ミレーナがその場で四等分した。三枚ずつ受け取ることにも、もう誰も戸惑わない。
組合を出る頃には、空の色が朝よりずっと早く暗くなり始めていた。
「飯行こうぜ」
セインが言う。
「今日は早いわね」
「寒いから温かいもん食いたい」
「いつも食べたいでしょ」
「今日は理由がある」
結局、四人で鉄鍋亭へ向かった。
店へ入ると、以前はなかった大きな鍋が厨房の奥で煮えていた。根菜と塩漬け肉の匂いが漂い、席へ着く前からセインがそちらを見ている。
「これ何?」
「冬前から出る煮込みだよ」
店員が答える。
「じゃあそれ」
「まだ値段聞いてないでしょ」
ミレーナが止める。
「いくら?」
「銅貨七枚」
「じゃあそれ」
結局、全員同じものを頼んだ。
運ばれてきた器からは湯気が立ち、冷えていた指先まで少しずつ温まっていく。大きく切られた根菜は柔らかく、塩気の強い肉と一緒に食べるとパンがよく進んだ。
「これ、冬になったら毎回食おう」
セインが言う。
「毎回?」
「安いし、量あるし、温かい」
「三つも理由があるなら止めないわ」
ミレーナも匙を動かしながら答える。
フィナは熱い根菜を少し冷ましてから口に入れ、ほっとしたように息を吐いた。ルアンは三人を見ながら、自分も匙を取る。
朝は、四人で仕事を受けるということを少し特別に考えていた。
けれど一日歩いてみれば、休む時には誰かが休みたいと言い、見つからない杭があれば四人で探し、持てる荷物はそれぞれ持った。特別な決まりがなくても、少しずつ四人の歩き方ができていくのかもしれない。
外では、店へ入った時より風が強くなっていた。
明日の朝は、今日より少し寒くなりそうだった。




