第36話 一緒に行こう
翌朝、ルアンはいつもより少し早く目が覚めた。
まだ起きる時間には早く、窓の外も薄暗い。寝直そうと目を閉じたものの、前日のことが頭に浮かび、結局しばらく天井を見ていた。導灯の異変ではなく、七番倉庫でフィナに「次も四人で行こう」と答えた、その後のことだった。
そろそろ、ちゃんと言った方がいい。
昨日はそう思ったのに、何をどう言えばいいのかまでは考えていなかった。
布団の中で考えていても仕方がなくなり、ルアンは起き上がった。顔を洗い、歯を磨いてから髪を水で押さえたが、後頭部の一束だけがどうしても跳ねたまま戻らない。何度か直しているうちに面倒になり、そのまま階下へ降りた。
月兎亭の食堂では、マーサが朝の支度を始めていた。まだ客はほとんどおらず、鍋から立つ湯気と、薪の爆ぜる音がいつもよりよく聞こえる。
「今日は早いね」
「目が覚めた」
「仕事?」
「うん」
「なら食べてきな。空っぽで迷宮入るんじゃないよ」
マーサは豆の煮込みとパンを出したあと、ルアンの頭を見た。
「そこ、跳ねてるよ」
「直したんだけど」
「直ってないね」
「もういいや」
「そういうところは気にならないんだねえ」
何が「そういうところ」なのか聞こうかと思ったが、また話が長くなりそうなのでやめた。ルアンはパンを煮込みへ浸しながら、今日の仕事のことを考えた。
昨日の注意札交換は、三つ目を残したままになっている。あの場所が今どうなっているのか気にはなったが、今日はダグと通常の導灯点検へ入る予定だった。
管理院へ着くと、ダグはすでに道具を並べていた。
「おはようございます」
「おう。寝たか」
「寝ました」
「昨日のところ気になって眠れなかった、とかじゃねえだろうな」
「少しは気になりましたけど、寝ました」
「ならいい」
ダグは工具帯をルアンへ渡した。
「昨日の場所は、壁の内側に空洞ができてる。原因はまだ調べてる途中だ」
「導灯は?」
「本体に目立った異常はない。光が変だった理由もまだ分からん」
「そうですか」
もっと聞きたかったが、ダグの顔を見る限り、今の段階で話せることはそこまでらしい。
「今日は十一号から十七号。普通の点検だ」
「はい」
「普通だからって勝手に面白くしなくていいぞ」
「しませんよ」
「お前は自分で面白くしてる自覚がないからな」
「昨日は何もしてません」
「昨日はな」
一言多いと思ったが、ルアンは言い返さずに工具帯を腰へ巻いた。
その日の点検は、本当に何も起こらなかった。
十二号の固定具を締め直し、十四号の外殻についた泥を拭き、十六号では魔石の光量を確認した。途中で荷運びの一団とすれ違い、戻り道では探索者二人に道を聞かれたが、それ以外はいつもの仕事だった。
以前なら、何も起こらない日は少し物足りなく感じていたかもしれない。
今日はそうでもなかった。
導灯が普通に点き、人が普通に道を歩き、自分たちも普通に帰る。その方がいい日もあると、最近は少し思うようになっていた。
昼を過ぎて管理院へ戻り、点検表を書き終える。ダグに確認してもらってから道具を片づけると、今日はそこで仕事が終わった。
「七番行くのか?」
出口へ向かうルアンの背中に、ダグが声を掛けた。
「少しだけ」
「自脈?」
「今日はやりません」
「珍しいな」
「話したいことがあるから」
「誰と?」
「三人と」
「そうか」
ダグはそれ以上聞かなかった。
管理院を出ると、午後の日差しが大門前の石畳を白く照らしていた。数日前まで続いていた雨の名残はほとんど消え、濡れていた店先の天幕も乾いている。ルアンは市場を抜けながら、何を言うかもう一度考えた。
一緒に仕事しない?
それでは、今までと変わらない。
また四人で行こう。
それも昨日もう言った。
仲間になってほしい。
口の中で考えてみたが、少し大げさな気がした。
考えているうちに七番倉庫へ着いた。
扉を開けると、まだ誰もいない。ルアンは壁際の荷物を見てから、中にある木箱を四つ集めた。今までは三つあれば足りていたが、最近はフィナが来るたびにどこかから一つ持ってきている。
せっかくなので、最初から四つ並べた。
それから棚の位置を少し直し、床に落ちていた細い革紐を拾って道具箱へ戻す。特にやる必要のないことまでしているうち、外から足音が聞こえてきた。
最初に来たのはセインだった。
「お、いるじゃん」
「うん」
「何してた?」
「片づけ」
「また?」
セインは倉庫へ入ると、いつもの場所へ槍を立て掛けた。並べられた木箱を見て一つ眉を上げる。
「四つになってる」
「うん」
「フィナの分?」
「うん」
「ふうん」
セインはそこで笑った。
「まあいいや」
少し遅れてミレーナが来た。手には紙袋を持っており、倉庫へ入るなり机の上へ置く。
「市場で焼き菓子が安かったから買ってきた」
「安かったから?」
セインが聞く。
「閉店前で残ってたの。味は普通」
「食っていい?」
「四人揃ってから」
「一個くらい」
「駄目」
「なんで」
「四つしかないから」
セインは渋々手を引いた。
最後に来たのはフィナだった。
仕事帰りらしく、外套の下には療院の服を着ている。髪もまだ仕事用にまとめたままで、入ってきた時には少しだけ薬草の匂いがした。
「遅くなりました」
「まだそんなに待ってないよ」
ルアンが答える。
フィナは中へ入り、いつもの壁際を見る。そこにはすでに彼女の鞄を置ける場所が空いていた。
少しだけ迷ってから、そこへ鞄を置く。
「今日は何か仕事ですか?」
ミレーナが焼き菓子を四つに分けながら首を振った。
「今日は仕事じゃないみたいよ。ルアンが話あるんだって」
「俺も今知った」
「そうなんですか?」
三人の視線がルアンへ集まった。
いきなり始めることになった。
さっきまで市場を歩きながらいくつも言い方を考えていたのに、三人を前にすると、どれも少し違う気がする。
ルアンは手に持っていた焼き菓子を一度机へ置いた。
「最近、三人と一緒に仕事すること増えたでしょ」
「増えたな」
「そうね」
「はい」
セインが菓子を食べながら答え、ミレーナとフィナも頷いた。
「前は、僕一人で仕事してることが多かったし、迷宮に入る時もダグさんと一緒か、一人で行くことが多かったんだけど」
そこまで言って、ルアンは少し言葉を探した。
「最近は、誰かと一緒に行く方がいいと思うことが増えた」
セインが食べる手を止めた。
ミレーナも何も言わずに聞いている。
「セインは、僕が見てないところを見てるし、ミレーナは僕が分からないことを知ってる。フィナも、この前みたいに僕が気づかないことを見つけるし……」
言いながら、少し恥ずかしくなってきた。
褒めるために呼んだわけではないのに、思っていることを順番に言うと、そういう話に聞こえる。
「だから」
ルアンは一度息を吸った。
「これからも、僕と一緒に行かない?」
倉庫の中が少し静かになった。
最初に口を開いたのはセインだった。
「今さら?」
「え?」
「いや、もう行ってるじゃん」
セインは本気で不思議そうな顔をしていた。
「そうなんだけど」
「俺、てっきりもうそういう感じなんだと思ってた」
「そういう感じって何」
「一緒に迷宮行く感じ」
「だから、それをちゃんと聞いてるんだけど」
「じゃあ行く」
返事が軽すぎる。
ルアンが少し拍子抜けしていると、ミレーナが焼き菓子の欠片を指先で払った。
「一つ確認」
「何?」
「報酬分配は?」
ルアンは少し考えた。
「基本は均等でいいと思う。でも必要経費がある仕事なら、先にそこを引く」
「装備を壊した時は?」
「自分のミスなら自分。みんなで避けられなかったことなら、みんなで負担する」
「治療費は?」
「仕事中の怪我なら、みんなで出した方がいいと思う」
ミレーナは黙って聞いていた。
「依頼を受けるかどうかは?」
「一人でも嫌なら、一回ちゃんと理由を聞く。それでも納得できなかったら受けない」
「一人だけ休みの日は?」
「その人抜きで勝手に四人の仕事にしない」
「誰が決めるの?」
「何を?」
「最後に意見が割れた時」
そこでルアンは少し止まった。
今まで、そこまで考えたことはなかった。
「……僕が決めることもあると思う」
答えると、ミレーナの目が少し細くなった。
「全部?」
「全部じゃない。分かる人が決めた方がいいこともあるでしょ。素材ならミレーナの方が分かるし、戦いならセインの方が分かる。怪我のことならフィナだし」
「じゃあ、誰にも分からない時は?」
「みんなで考える。それでも決めないといけないなら……」
ルアンは少し考えてから続けた。
「僕が決める」
口にすると、思ったより重かった。
それでも、嫌ではなかった。
「外したら?」
「謝る」
「それだけ?」
「次は外さないように考える」
ミレーナはしばらくルアンを見ていた。その顔からは、賛成なのか反対なのか分からない。
やがて、小さく息を吐いた。
「まあ、いいんじゃない」
「それ、いいってこと?」
「そう言ってるでしょ」
「分かりづらい」
「分かりなさいよ」
セインが横で笑った。
「結局ミレーナも行くんじゃん」
「条件確認してただけ」
「細かいな」
「こういうの最初に決めとかないと、後で揉めるのよ」
ミレーナはそう言ってから、残っていた焼き菓子を口に入れた。
最後に、フィナが残った。
さっきから何も言わず、膝の上で両手を重ねている。
ルアンはフィナを見る。
「フィナは?」
呼ばれると、フィナは少しだけ背筋を伸ばした。
「……私も、ですか?」
「うん」
「でも、私は二人みたいに戦えないですし、迷宮のこともまだ全然知らないです」
「僕も知らないこと多いよ」
「でもルアンは仕事で入ってます」
「フィナも仕事で入ったでしょ」
フィナは一度口を閉じた。
「治療が必要ない時、何もできないこともあります」
「この前、何もしてなかった?」
「……埃は見つけました」
「白鈴草も見てくれたし、包帯の傷みも分かった。怪我した人がいた時は治してくれた」
ルアンはそこまで言ってから、少し考えた。
「でも、治せるから来てほしいわけじゃないよ」
フィナが顔を上げた。
ルアン自身も、言ってからようやくそうなのだと分かった。
フィナが治療できることは助かる。けれど、それだけなら療院から必要な時に人を呼べばいい。今ルアンが聞いているのは、そういうことではなかった。
「フィナが一緒に来たいって言ってたから。僕も、一緒に行きたいと思った」
フィナはしばらく何も言わなかった。
俯いた顔の横で、まとめていた髪が少しだけ揺れる。笑っているわけでも、泣きそうなわけでもない。ただ、何度か瞬きをしてから、ゆっくりルアンを見る。
「……行きたいです」
「うん」
「次だけじゃなくても、いいんですか?」
「そのつもりで聞いた」
フィナの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「じゃあ、行きます」
今度の返事には迷いがなかった。
セインが両手を膝へ打ちつけるようにして立ち上がった。
「決まりだな」
「何が?」
ルアンが聞く。
「四人で行くって話」
「そうだけど」
「じゃあ次の仕事探しに行こうぜ」
「今から?」
「まだ組合開いてるだろ」
「今日は話をする日だったんじゃないの?」
ミレーナが呆れる。
「話終わったじゃん」
「終わったけど」
「だったら行ける」
「そういうところだけ早いのよ」
セインはもう槍へ手を伸ばしている。
フィナがその様子を見て笑った。
少し前までなら、セインとミレーナの言い合いを見ても、困ったように黙っていた。最近はこういう時、笑うことが増えた。
ルアンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
「今日はもういいんじゃない?」
そう言うと、セインが不満そうに振り返った。
「なんで」
「フィナ、仕事終わりでしょ」
「私は大丈夫です」
「大丈夫でも、今日はいいよ」
フィナの顔色は悪くない。歩き方にも疲れは出ていない。
それでも、朝から療院で働いたあとにここまで来ている。明日探しても仕事はなくならない。
「明日でもいいでしょ」
ルアンが言うと、ミレーナも頷いた。
「賛成。私も今日は帰る」
「多数決かよ」
「三対一ね」
「フィナまだ何も言ってねえじゃん」
「私は……明日でいいです」
セインは天井を見た。
「全員敵だ」
「誰も敵じゃないよ」
ルアンが言うと、フィナがまた笑った。
しばらく四人でくだらない話をしてから、今日は解散することになった。ミレーナは市場へ寄って帰ると言い、フィナは明日の療院が早いのでそのまま帰る。セインだけは最後まで「飯くらい行こう」と言っていたが、結局一人で鉄鍋亭へ向かった。
倉庫の前で三人を見送り、ルアンは中へ戻った。
静かになった室内には、木箱が四つ並んでいる。
セインが座っていた箱。ミレーナが使っていた箱。フィナが座った箱。そして自分の箱。
少し前まで、ここは一人で自脈を試すための場所だった。
誰にも見られず、失敗しても自分だけでやり直せる。それが楽だったし、その方が早いと思っていた。
今は槍を置く場所があり、回収道具を置く棚があり、壁際には小さな鞄一つ分の空間がある。
物が増えたぶん、少し狭くなった。
ルアンは四つの木箱を見てから、さっきまでフィナが座っていた一つを少しだけ机の方へ寄せた。次に来た時、話しやすい方がいい。
扉を閉める前に、一度だけ倉庫の中を振り返る。
明日から急に何かが変わるわけではない。セインは相変わらずよく食べるだろうし、ミレーナは細かいところまで確認するだろう。フィナもまだ迷宮に慣れていないし、自分だって強くなったとは言い難い。
それでも、次に迷宮へ入る時は、最初から四人だ。
ルアンは扉を閉め、鍵を掛けた。
それから、少しだけ笑って帰り道へ向かった。




