第35話 四人で見る
新しい靴は、まだ少し硬かった。
前の仕事を終えた帰り、ルアンはようやく大門市場の靴屋へ寄った。結局、ミレーナに言われる前から気になっていた厚手の革靴を買い、それから二日ほど街の中で履いて慣らしている。今朝も右の踵にわずかな当たりを感じたので、いつもより厚い靴下を選んだ。
月兎亭の食堂で朝食を食べていると、マーサが新しい靴に気づいた。
「やっと買ったのかい」
「前のもまだ履けるよ」
「なら、そっちは晴れた日にでも履きな」
「そうする」
「前の靴、穴が開くまで履くんじゃないよ」
「まだ穴は開いてないよ」
「だから、開く前に替えなって言ってるんだよ」
マーサは呆れたように厨房へ戻った。ルアンは豆の煮込みをパンですくいながら、古い靴をいつまで使うか考えたが、今決めることでもない。考えるのをやめ、残りのパンを口に運んだ。
探索者組合へ着くと、セインとミレーナはすでに依頼札を見ていた。少し遅れてフィナもやってきたが、前回借りていた革靴は今日はきちんと足になじんでいるようで、歩き方にも違和感はない。
「踵、大丈夫?」
ルアンが聞くと、フィナは少し笑った。
「もう赤くなってないです」
「よかった」
「ルアンは?」
「僕?」
「靴、新しいです」
「分かる?」
「前のより色が濃いので」
そこまで見ていたのかと思っていると、横からミレーナが口を挟んだ。
「買ったのね」
「買った」
「いくら?」
「銀貨十九枚」
「底は?」
「厚い」
「縫い目は?」
「二重」
「革は?」
「店の人が牛革だって」
「なら悪くないわね」
どうやら合格らしい。
「靴一足買うだけで審査厳しすぎない?」
セインが言う。
「長く使うものだからよ」
「俺の時そんなに聞かなかっただろ」
「セインは自分で選べるでしょ」
「ルアンは?」
「まだ怪しい」
「僕も選べるよ」
「前の靴、底があそこまで減るまで履いてた人が?」
反論できず、ルアンは依頼札を見ることにした。
今日の仕事は、東側の中層手前に設置されている注意札の交換だった。探索者組合が管理している木製の札で、分岐や足場の悪い場所に立てられている。三か所を回って古い札を外し、新しいものへ取り替えれば終わりだった。
「地味だな」
「仕事なんて、だいたい地味よ」
ミレーナは札の内容を確認する。報酬は銀貨十六枚で、危険度も低く、目的地は四人がすでに歩いたことのある範囲に近かった。
「これにしようか」
ルアンが言うと、三人とも異論はなかった。
ゴードから新しい注意札と固定用の鉄具を受け取り、四人で迷宮大門をくぐった。札は薄い板だったが、三枚重ねるとそれなりに重い。セインとルアンが分けて持ち、ミレーナとフィナは交換用の鉄具や工具を持つことになった。
朝の迷宮は人が多かった。浅層では探索者の一団と何度もすれ違い、回収物を積んだ小型の手押し車も行き交っている。導灯の青白い光が一定の間隔で続き、その下を歩いているうちは、フィナも周囲を見ながら話せるくらい余裕があった。
一つ目の注意札は、分岐の手前にあった。古い札は下半分が擦れて文字が読みにくくなっている。ルアンが鉄具を外し、セインが新しい札を支える横で、ミレーナは支柱そのものが傾いていないかを確認した。
「右、少し上げて」
「このくらい?」
「もうちょっと」
「細かいな」
「斜めに付けたら見づらいでしょ」
「読めればよくね?」
「よくない」
セインが渋々持ち上げる。少し離れたところから見ていたフィナも、位置を確かめるように首を傾けた。
「そこなら、曲がってきても見えます」
「ほら」
「なんでお前が勝った顔してんだよ」
固定を終えてから四人で少し離れて確認すると、確かに前より見やすくなっていた。
二つ目も大きな問題はなかった。古い札を外したところで固定具の一つが錆びていたため、ミレーナが持ってきた予備へ交換する。フィナは札の裏に小さな虫が何匹も集まっているのを見つけ、何気なく指を伸ばしたセインを止めた。
「噛むかもしれません」
「こんな小さいのが?」
「小さいから噛まないとは限らないです」
「フィナまで俺に厳しくなってない?」
「普通のことを言ってるだけだと思います」
「ミレーナと同じこと言い始めた」
「誰が厳しいって?」
セインは答えず、何も見なかったように札を持ち上げた。ルアンは笑いそうになったが、ミレーナがこちらを見たので黙って鉄具を片づけた。
三つ目は、そこから少し奥へ入った場所にある。人通りが減るにつれて通路の幅も狭くなり、湿った石の匂いが強くなった。天井から落ちる水滴の音が一定の間隔で響き、さっきまで聞こえていた探索者たちの声も、いつの間にか遠くなっている。
ルアンは先頭を歩くセインの後ろで、新しい札を抱え直した。少し先に次の導灯が見えたところで、何となく目が引っかかる。
「待って」
セインがすぐに足を止めた。
「どうした?」
「灯りが変」
三人も導灯を見る。灯りそのものは点いていて、魔石の光量も遠目には普段と変わらない。それなのに正面の床や右側の壁へは青白い光が届いているのに、左側の石壁だけが途中から妙に暗く見えた。
以前にも、似た灯りを見たことがある。
第十五導灯で感じた、あの暗さだった。
胸の奥が少しざわついたが、ルアンは急いで近づかなかった。数歩だけ進み、導灯と左側の壁を見比べる。
「壊れてるんですか?」
フィナが聞いた。
「分からない。でも、普通じゃない」
点検口へ手を伸ばしかけ、ルアンは途中で止めた。今日は管理院の仕事ではないし、原因も分からないまま自分で触る理由はない。以前なら、開ければ何か分かるかもしれないと思っただろうが、今はそれより先に確認できることがある。
「セイン、何か聞こえる?」
「音?」
セインは槍を持ったまま目を閉じ、しばらく耳を澄ませた。他の三人も話すのをやめると、水滴が落ちる音と、自分たちの呼吸だけが通路に残った。
「……水の音はする。でも左だけ、なんか変だな」
「どう変?」
「響き方が違う。壁の向こうが詰まってるっていうより、逆に空いてる感じがする」
ルアンは左側の石壁へ目を戻した。
「ミレーナは?」
呼ばれた時には、ミレーナはすでに壁際へしゃがみ込んでいた。床に指を滑らせ、薄く積もった石粉をつまんで色を見る。
「これ、新しい」
「何が?」
「石の粉。周りより色が明るいでしょ」
言われて見ると、壁の根元に沿って細い筋のように灰色の粉が積もっている。
「前から割れてたんじゃないの?」
「古い割れ目なら、こんなふうには残らないわ。人が歩けば散るし、水が落ちれば固まるから」
ミレーナは立ち上がり、壁から一歩離れた。
「最近、どこかが動いたんだと思う」
ルアンは次にフィナを見る。フィナは石粉ではなく、導灯の光の中をじっと見つめていた。
「どうしたの?」
「埃が……」
フィナが指を上げる。
青白い光の中に、細かな埃が浮いている。最初はただ漂っているだけに見えたが、しばらく見ていると、どれも少しずつ同じ方向へ流れていた。
左の壁へ向かっている。
「風?」
ルアンが手を伸ばしてみる。通路の中央ではほとんど何も感じなかったが、壁へ近づくと、指先にごく弱い冷たさが触れた。
「隙間があるんだ」
ミレーナが言う。
四人はそれ以上近づかず、壁から少し距離を取った。ルアンは導灯、石粉、壁際を流れる埃を順番に見てから、今まで聞いた三人の言葉を頭の中で並べた。
導灯の光が片側だけ届きにくい。新しい石粉があり、壁の向こうには空間らしいものがある。そこから、ごく弱い空気も流れている。
どれも一つだけなら、大したことではないのかもしれなかった。けれど四人が別々に見つけたものを重ねると、わざわざ近づいて確かめる理由より、戻る理由の方が多い。
「札は?」
セインが聞いた。
三つ目の交換場所は、この少し先だった。
「やめよう」
ルアンは答えた。
「ここで戻る?」
「うん」
「見に行くだけなら行けそうだけど」
セインはそう言ったが、先へ進もうとはしなかった。
「何が起きてるか分からないまま進む必要ないよ。札一枚より、先に報告した方がいい」
「私もそう思う」
ミレーナが頷く。
「フィナは?」
「戻った方がいいと思います」
三人の返事を聞いて、ルアンも頷いた。
「じゃあ戻ろう」
全員が向きを変えたところで、背後から細かな音が聞こえた。ぱらぱらと石粒が落ちる音に四人が振り返ると、左の壁の根元から新しい石粉がこぼれ、その上へ小さな欠片が一つ転がった。大きな崩落ではなかったが、さっき見た亀裂がほんの少し長くなっているように見えた。
「……早く戻った方がよさそうだな」
セインが言った。
「うん。でも走らないで行こう」
足場の悪い場所で慌てれば、何でもないところで転ぶかもしれない。セインが先頭に立って少し広い場所までの安全を確かめ、ミレーナは通り過ぎる壁や床に変化がないかを見ながら進む。フィナを二人の間に置き、ルアンは最後尾から全体を見て歩いた。
途中で一度振り返ると、導灯はまだ点いていた。青白い光そのものには何の変化もないのに、左側の壁だけは相変わらず暗い。気にはなったが、今度は確かめに戻ろうとは思わなかった。
人通りのある場所まで戻ってから、四人はようやく歩調を緩めた。フィナが大きく息を吐き、肩に入っていた力を少し抜く。
「さっきの、何だったんでしょう」
「分からない」
「ルアンでも?」
「うん、分からないな……」
答えてから、ルアンは少しだけ考えた。以前なら、分からないことがあると、もっと近くで見たいと思っていた。触れば分かるかもしれない、開ければ原因が見えるかもしれないと考えて、分からないまま戻ることをどこか負けたように感じていた。
今も知りたい気持ちはある。けれど、分からないまま戻って誰かに伝えることも、何もしないのとは違う。自分で全部確かめなくても、次に確かめられる人へ渡せばいいのだと、少しずつ分かるようになっていた。
迷宮大門を出ると、四人はそのまま探索者組合へ向かった。ゴードは報告を聞くなり、途中まで書いていた紙を脇へ置き、ルアンたちを受付の前へ集めた。
「場所は?」
「東側、中層手前。三つ目の注意札へ行く途中です」
「導灯の番号は分かるか?」
「二十二号の少し先」
「導灯はどうだった?」
「点いてました。でも、左側だけ光が届きにくくなってました」
ルアンが覚えている範囲で説明すると、ゴードはすぐに奥の職員へ声を掛けた。管理院へ連絡を回すよう伝えたあと、もう一度こちらへ向き直る。
「開けたか?」
「開けてません」
ゴードは一度だけルアンを見た。
「それでいい」
ほどなくして、連絡を受けたダグも組合へやってきた。ルアンたちを見るなり、まず場所を確かめ、それから導灯の状態を聞く。
「灯りがおかしかったんだな?」
「はい」
「何した」
「何もしてません」
「本当に?」
「本当です」
ダグは少し黙ってルアンを見る。
「……よし」
それだけだったが、なぜか少し嬉しかった。
ダグは受付台の上へ紙を広げ、筆記具を手に取った。
「順番に聞く。ルアンは灯り。ミレーナは床と壁。セインは音。フィナは空気の流れだな」
ルアンは一瞬、全部自分から説明しようとした。けれど石粉のことならミレーナの方が詳しく、壁の向こうの響きを聞いたのはセインで、埃の流れを最初に見つけたのはフィナだった。
自分が見たものだけなら、自分で話せる。
「僕は灯りだけ話す」
ルアンが言うと、ダグは何も言わず頷いた。
四人はそれぞれ、自分が見つけたものを順番に説明した。ミレーナは石粉の色と散り方を話し、セインは壁の向こうから返ってくる音の違いを説明する。フィナが空中の埃が一方向へ流れていたことを伝える間も、ダグは余計な口を挟まず、聞いたことを紙へ書き込んでいった。
全員の話が終わると、ダグは一度紙を読み返した。
「よし。今日はそこまでだ」
「見に行くんですか?」
「管理院で確認する。お前らは行くな」
「はい」
「返事早いな」
「行きませんよ」
「ならいい」
ダグは紙を持ち、奥にいる職員のところへ向かった。
ゴードはその背中を見送ってから、受けていた依頼札を手元へ戻した。
「三つ目は交換できてないな」
「はい」
ミレーナが答える。
「報酬は満額でいい」
「でも、仕事は一か所残ってる」
「危険箇所を見つけて戻っただろ。札一枚より、そっちの方が価値がある」
「報告分込み?」
「そういうことだ」
「なら、もらう」
ミレーナは理由を聞いて納得すると、それ以上遠慮しなかった。銀貨十六枚を受け取り、いつものように四等分して一人四枚ずつ渡していく。
フィナも、もう自分の銀貨を受け取ることに戸惑わなかった。掌の上で枚数を確かめてから、小さな財布へしまう。その様子を見ながら、ルアンは前回より少し自然になったと思った。
組合を出て歩き始めてから、フィナがふいに口を開いた。
「今日は治療してないですね」
「うん」
「前の仕事も、ほとんど治療はしてないですけど」
ルアンは隣を歩くフィナを見た。
「でも今日は、フィナが埃見つけたでしょ」
「それだけです」
「それがなかったら、壁の方へ空気が流れてるって分からなかった」
フィナはすぐには答えず、足元を見ながらしばらく歩いた。通りには夕方の人通りが増え始め、大門市場の方から食べ物を焼く匂いが流れてくる。
「……そういうのも仕事なんですね」
「たぶん。少なくとも今日は、必要だったと思う」
自信を持って仕事というものを説明できるほど、ルアンも多くを知っているわけではない。ただ、あの場所で見つけたものは、一人分の目では足りなかった。
自分は灯りを見た。ミレーナは地面と壁を見て、セインは音を聞き、フィナは光の中を流れる埃に気づいた。四人で同じ場所に立っていたのに、それぞれ違うものを見ていたからこそ、あそこで戻るという判断ができたのだと思う。
七番倉庫へ寄ると、セインはいつもの場所へ槍を立て掛け、ミレーナは鞄を木箱の上へ置いた。フィナは少し迷うように壁際を見てから、空けてあった場所へ自分の小さな鞄を置く。
ルアンはその様子を何となく見ていた。
「何ですか?」
視線に気づいたフィナが聞いた。
「いや。そこ使ったんだなと思って」
「駄目でした?」
「空けてたからいいよ」
「私のために?」
「うん」
フィナは自分の鞄とルアンを交互に見てから、少しだけ表情を緩めた。
「……ありがとうございます」
その横では、セインがもう木箱へ座り込んでいた。
「で、次どうする?」
「まだ今回の仕事終わってないでしょ。三つ目の札は、管理院の確認が終わってからよ」
ミレーナが答えると、セインは少しも気にしていない様子で肩をすくめる。
「じゃあ、その次」
「早い」
「暇になるだろ」
二人のやり取りを聞いていたフィナが、小さく笑った。それから何かを考えるように一度口を閉じ、最後にルアンへ目を向けて、少しだけ姿勢を正した。
「次も、私も一緒でいいですか?」
「いいに決まってるだろ」
セインが即座に答えると、ミレーナが横から睨んだ。
「ルアンに聞いてるでしょ」
「別にいいだろ」
「よくない。聞かれた人が答えるの」
フィナは二人のやり取りにもう一度笑い、それからルアンを見る。
ルアンはすぐには答えず、今日一日を思い返した。一人だったら、あの異変を見つけても灯りばかり気にしていたかもしれない。ミレーナがいなければ石粉を見落とし、セインがいなければ壁の向こうを考えず、フィナがいなければ埃の流れにも気づかなかった。
誰かがいるから、自分ですべてを見る必要はない。任せた相手が見つけたものを持ち寄れば、一人では見えないものまで一緒に考えられる。
「うん。次も四人で行こう」
フィナが嬉しそうに頷く。
言ってから、ルアンは壁際に並んだ荷物へ目を向けた。次も四人。その言葉は自然に出てきたのに、なぜかそれだけでは少し足りないような気がした。
今日だけでも、次だけでもない。
そろそろ、ちゃんと言った方がいいのかもしれない。




