第34話 備え箱
フィナの次の休みは、二日後だった。
その朝、ルアンが月兎亭を出ると、何日も続いていた雨はすっかり上がっていた。濡れていた石畳もところどころ白く乾き始め、大門市場では久しぶりの日差しに合わせるように、店先へ荷物や布を広げる商人の姿が目立った。
待ち合わせは探索者組合の前だった。
ルアンが着いた時には、すでにミレーナとフィナがいる。フィナは前回と同じ灰色の外套を着ていたが、足元だけは違っていた。柔らかな普段履きではなく、踝まで覆う革靴を履き、靴紐もきつめに結ばれている。
「それ、新しいの?」
ルアンが聞くと、フィナは自分の足元を見た。
「療院に、外へ行く人用の靴が何足かあるんです。サイズが合うものを借りました」
「歩いた?」
「昨日、少しだけ」
「どのくらい?」
「家まで履いて帰りました」
「近い?」
「十五分くらいです」
横で聞いていたミレーナが、すぐにしゃがんだ。
「踵、当たらなかった?」
「少しだけ」
「見せて」
フィナが戸惑いながら片足を上げる。ミレーナは靴そのものではなく、足首の後ろへ指を入れて擦れ方を確認した。
「まだ硬いわね。予備の布ある?」
「あります」
「痛くなる前に巻いて。痛くなってからだと遅いから」
「はい」
フィナは素直に頷いた。
ルアンは二人を見ながら、自分の靴へ目を落とした。昨日もう一度底を見たところ、確かに右の外側がかなり薄くなっていた。今日は履いてきたが、帰りに靴屋へ寄ろうとは思っている。
「ルアン」
ミレーナがこちらを見た。
「何?」
「その顔、絶対いま自分の靴のこと考えてたでしょ」
「……帰りに靴屋へ寄ろうと思ってる」
「寄るだけ?」
「買うかもしれない」
「進歩したわね」
なぜ靴を買うだけで褒められるのか分からなかった。
その時、通りの向こうからセインが歩いてきた。今日は槍を背負い、両手には何も持っていない。珍しく食べながら来なかったらしい。
「お、全員いるな」
「今日は何も食べてないの?」
ルアンが聞くと、セインは怪訝そうな顔をした。
「食ったよ」
「そうじゃなくて」
「歩きながら?」
「なんで俺が毎回なんか食いながら来る前提なんだよ」
ミレーナが小さく鼻で笑った。
「実績があるからでしょ」
「嫌な実績だな」
「自覚あるなら直しなさいよ」
四人で組合へ入り、残してもらっていた依頼を正式に受けた。
仕事は、中層へ入る少し手前までの経路に置かれた三つの備え箱を回り、消耗品を補充することだった。包帯、乾燥食、水袋、火口、簡単な止血材などを運び、古くなった物や傷んだ物があれば持ち帰る。
受付のゴードが、四つに分けられた荷物を順番に台へ載せた。
「重いものは水と乾燥食だ。こっち二つ」
「俺持つ」
セインが一つを取る。
「じゃあ、もう一つは僕が」
「待って」
ミレーナが止めた。
それぞれの荷を一度開き、中身と重さを確かめる。水袋の入った二つをセインとルアンへ、乾燥食と交換用の火口を自分へ、包帯や止血材などの軽い医療品をフィナへ渡した。
「重さだけで分けるんじゃないの?」
ルアンが聞く。
「途中で中身を見るでしょ。フィナなら医療品の状態が分かるし、私は食料と容器を見る。水は漏れてなきゃ分かる」
「俺とルアン、雑じゃね?」
「水をこぼさず運ぶ大事な仕事よ」
「急に言い方が優しくなったな」
セインは不満そうだったが、水袋の入った鞄を背負った。
フィナは自分の荷物を開き、包帯の束を一つずつ指で確かめている。白樹療院でいつも扱っている物らしく、ゴードから説明を受けなくても包みの違いが分かるようだった。
「これ、油紙が少し浮いてます」
フィナが一つを持ち上げた。
ゴードが受け取り、包みを押してみる。
「本当だな。替える」
「使えないんですか?」
「中が濡れてるとは限りません。でも、開けるまで分からない物を備え箱には入れたくないです」
フィナが答えると、ゴードは新しい包帯と交換した。
ルアンはそれを見ていた。
前回は、フィナを連れて行くことばかり考えていた。けれど今日は、出発する前からもう一人分の目が増えている。自分では気づかなかった包みの小さな違いを、フィナはすぐに見つけた。
四人は迷宮大門をくぐった。
今回の経路は、白鈴草を採りに行った時より少し手前までだ。導灯が途切れる場所もほとんどなく、通る探索者も多い。危険度そのものは高くないが、補充物資を運んでいるため、転んだり荷物を濡らしたりする方が仕事としては問題だった。
最初のうちはセインが先頭を歩き、その後ろにミレーナ、フィナ、ルアンと続いた。前回より荷物は多いが、採取道具を持っていない分、歩きやすい。
「靴、大丈夫?」
しばらくしてルアンが聞くと、フィナは歩きながら一度足元を見た。
「まだ大丈夫です」
「痛くなったら言って」
「はい」
返事はしたものの、その少し後でフィナの歩幅がわずかに変わった。
止まるほどではない。足を引きずってもいない。ただ、左足を出した後だけ、右の踵が地面へ着くまでがほんの少し遅い。
ルアンはしばらくその歩き方を見た。
「一回休まない?」
「え?」
フィナがこちらを見る。
「まだ痛くないです」
「うん。でも、さっきより右だけ歩き方違うから」
「……分かりますか?」
フィナが自分の足を見た。
ミレーナも振り返り、少し先の壁際を指した。
「じゃあ、そこで五分。靴脱いで見ましょ」
四人で通路の端へ寄る。フィナが靴を脱ぐと、踵の上が少し赤くなっていた。皮が剥けるほどではないが、このまま歩けば擦れそうだった。
「布」
ミレーナが手を出す。
フィナは鞄から細長い布を取り出した。
「自分で巻ける?」
「はい」
フィナは靴下を少し下げ、慣れた手つきで踵へ布を当てた。治療をする時とは違って自分の足なので、何度か位置を確かめながら結んでいる。
「ごめんなさい。まだ大丈夫だと思ってました」
履き直しながらフィナが言った。
「まだ大丈夫だから止まったんだよ」
ルアンが答えると、フィナが顔を上げた。
「痛くなってから止まったら遅いでしょ」
「……それ、ルアンが言う?」
ミレーナが横から言った。
セインも頷く。
「説得力ねえな」
「最近は止まるよ」
「最近は、って自分で言うところが怖いのよ」
三人に言われ、ルアンは黙った。
最初の備え箱は、そこから十分ほど歩いた分岐の脇にあった。
石壁へ半分埋め込むように設置された木製の箱で、上には管理院と探索者組合の印が焼かれている。セインが周囲を見ている間に、ルアンが留め金を外した。
中には水袋、包帯、乾燥食などが決められた位置に収められている。
「水、一つ減ってる」
ルアンが言った。
「使われたんでしょ。補充して」
ミレーナは自分の紙と中身を見比べながら答えた。
ルアンが新しい水袋を入れている横で、フィナは包帯を手に取った。一つずつ包みを確かめたあと、そのうちの一つへ顔を近づける。
「これ、替えた方がいいです」
「何かある?」
ルアンも覗き込んだ。
「少し匂います」
「匂い?」
渡されて嗅いでみたが、ルアンには紙と布の匂いしか分からなかった。
フィナは包みの端を指で押した。
「たぶん、中に湿気が入ってます。療院でも、こういう匂いになったものは使いません」
「見た目は平気だけど」
「だから怖いんです」
ミレーナがそのやり取りを聞いて、紙へ一本印を付けた。
「交換。持ち帰ろう」
「うん」
ルアンは古い包帯を回収用の袋へ移した。
フィナがいなければ、そのまま残していたかもしれない。少なくとも自分には、見分けられなかった。
「フィナ」
呼ぶと、彼女が振り向く。
「来てもらってよかった」
「え?」
ルアンは箱の中を指した。
「僕だったら、それ気づかなかったから」
「あ……」
フィナは一瞬だけ何も言わず、それから小さく頷いた。
「はい」
二つ目の備え箱までは、緩い下りが続いていた。
途中で昼を挟むことにし、四人は人通りの邪魔にならない広い場所へ腰を下ろした。セインは座るなりパンを取り出し、ミレーナに「朝ちゃんと食べたんじゃなかったの」と言われている。
「朝飯と昼飯は別だろ」
「まだ昼にはちょっと早いけど」
「腹減った時が昼だよ」
「一日に何回昼が来るのよ」
ルアンは自分の包みを開いた。黒パンに薄い肉と葉野菜が挟んであり、朝マーサに持たされたものだ。
隣では、フィナが小さなパンと茹でた豆を出していた。
「それだけ?」
思わず聞くと、フィナが手を止めた。
「これと、干した果物があります」
「足りる?」
「普段はこれくらいです」
「今日は普段より歩くよ」
フィナは少し考え、鞄から干した果物も出した。
「じゃあ、これも食べます」
「うん」
それ以上は言わなかった。
以前のルアンなら、足りないと思った時点で、自分の分を少し渡していたかもしれない。けれどフィナは自分で考えて、干した果物を追加した。それならもう、自分が横から食べる量まで決める必要はない。
ルアンはそれ以上何も言わず、自分のパンを食べ始めた。
食事を終え、二つ目の備え箱へ向かう。
そこまでの道は問題なかった。二つ目でも乾燥食が二つ減っており、火口の一つが古くなっていたため交換した。今度はミレーナが容器の小さな割れを見つけ、セインが箱の蝶番が緩んでいることに気づいた。
「これ、閉めても少し浮くぞ」
セインが蓋を押さえる。
ルアンも留め金を確認した。
「本当だ。ネジが緩んでる」
「工具ある?」
「ある」
革鞄から工具を出し、締め直す。導灯の仕事とは違うが、構造自体は単純だった。
「こういうのも点検するんですね」
フィナが箱を見ながら言った。
「物が入ってても、箱が壊れてたら駄目だから」
「確かに」
「雨は降らないけど、水が落ちるところもあるし」
ルアンは蝶番をもう一度動かした。今度はきちんと閉じる。
四人とも、同じ箱を見ているのに見ているところが違う。
そのことが少し面白かった。
三つ目へ向かう途中で、道が二つに分かれた。
右は普段使われている近道で、浅い水路を跨いで進む。左へ回れば距離は増えるが、水路を通らずに同じ場所へ出られる。
セインが先に右へ入り、水路の前で止まった。
「ちょっと深いな」
ルアンたちも追いつく。
水そのものは膝よりずっと低い。普段なら石の出っ張りを二つ踏めば簡単に渡れる場所だったが、今日は水面から出ている部分が小さく、石も濡れていた。
「行けるとは思う」
セインが向こう側を見る。
ミレーナは足元を見たあと、フィナの靴へ視線を移した。
「滑ったら荷物ごと濡れるわね」
「私は大丈夫です」
フィナがすぐに言った。
ルアンは水路と、フィナの靴と、自分たちの鞄を順番に見た。
フィナなら渡れるかもしれない。自分もセインもたぶん大丈夫だ。けれど、今日は水袋だけではなく、濡らしたくない包帯や乾燥食を持っている。
「左から行こう」
ルアンが言った。
セインが振り返る。
「遠回りだぞ」
「うん。でも、誰か一人でも滑ったら面倒だから」
「俺、荷物持って先に渡そうか?」
「それでも渡る人は渡らないといけないでしょ」
セインは水路をもう一度見た。
「まあ、そうか」
ミレーナも頷いた。
「急ぐ仕事じゃないしね」
フィナだけが少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「私の靴がなじんでないからですか?」
「それもあるけど、それだけじゃないよ」
ルアンは自分の鞄を軽く持ち上げた。
「今日は荷物をちゃんと届ける仕事だから。近道するより、濡らさない方が大事でしょ」
「……はい」
フィナはそれ以上謝らなかった。
左の道は、右より二十分ほど長かった。
途中に細い上りがあり、セインが「やっぱ近道でよかったんじゃねえ?」と一度だけ言ったが、ミレーナに「今さら戻る方が長い」と返されて黙った。フィナの歩き方は、布を巻いてからは崩れていない。
三つ目の備え箱へ着いた時には、全員の額に薄く汗が浮いていた。
箱を開ける。
「水、二つ減ってる」
「乾燥食、一つ」
「包帯は……大丈夫です」
「火口も平気」
「蓋も閉まる」
四人で順番に確認し、持ってきた物を補充する。
最後にルアンが留め金を下ろした。
ぱちん、と小さな音がした。
「終わり?」
フィナが聞いた。
「三つとも終わり」
「じゃあ、帰るだけだな」
セインが肩を回した。
帰りは空になった水袋や交換した古い物があるため、荷物の重さは行きとそこまで変わらなかった。それでも仕事を終えたというだけで、足取りは少し軽く感じる。
途中で休憩を取った時、フィナは自分から靴を脱いだ。
「どう?」
ミレーナが聞く。
「少し赤いですけど、痛くないです」
「じゃあ帰るまでそのままね」
「はい」
フィナは布を巻き直し、自分で靴紐の締め方も少し変えた。
ルアンはその様子を見ていた。
前回のフィナは、三人についてくるだけで精一杯だった。休む場所も荷物も、周りが決めていた。今日は自分で包帯の傷みを見つけ、自分で足を確かめ、同じ仕事の中で何をすればいいのかを少しずつ見つけている。
そして、それはフィナだけではなかった。
セインは前を見ながら箱の壊れ方まで見ていた。ミレーナは物の数だけではなく状態を見ている。自分はその全部を一人でやる必要はない。
誰かに任せた方が、自分一人で見るより多くのものが見える。
ルアンは立ち上がり、荷物を背負った。
「そろそろ行こうか」
「うん」
「はい」
「帰ったら飯な」
セインだけ目的が少し違う気もしたが、四人で歩き出した。
迷宮大門へ戻った頃には、日が少し傾き始めていた。
探索者組合で回収物と記録を渡すと、ゴードが一つずつ確認していく。湿気の入った包帯を見たところで、フィナへ目を向けた。
「これ、お前が気づいたのか?」
「はい」
「助かる。次からこの辺の箱は包みも気をつけて見るように言っとく」
フィナは少し驚いたように瞬きをしてから、「はい」と答えた。
報酬は予定通り銀貨二十枚だった。
ミレーナが四つに分け、一人五枚ずつ渡していく。フィナは掌に載った銀貨をしばらく見ていた。
「どうしたの?」
ルアンが聞く。
「いえ……自分の分があるんだなと思って」
「働いたからでしょ」
ミレーナが当然のように言う。
「今日は療院の仕事じゃないんだから、これはフィナの分」
「はい」
フィナは銀貨を小さな財布へしまった。
外へ出ると、朝より人の多い大門市場から夕食の匂いが流れてきた。セインがさっそくそちらへ顔を向け、ミレーナが呆れたように息を吐く。
「食って帰ろうぜ」
「私はいいけど」
「ルアンは?」
「行く」
「フィナも」
「私もですか?」
「四人で仕事したんだから四人でいいだろ」
セインが何でもないことのように言った。
フィナは一度ルアンとミレーナを見てから、小さく笑った。
「じゃあ、行きます」
四人で市場の方へ歩き出す。
ルアンは少し遅れて、その背中を見た。
七番倉庫に空けた一人分の場所は、たぶんもう使っていい。




