第32話 また行きたいです
白鈴草の仕事から三日経っても、アルネスでは雨が続いていた。降り方そのものは強くないが、朝から晩まで細い雨が途切れず、月兎亭の廊下には乾ききらない洗濯物の匂いが漂っている。
ルアンも二日前に洗った仕事着がまだ少し湿っていて、結局その日は別のシャツを着ることにした。予備を使う日が続くと、今度は洗う方が追いつかなくなる。朝食を食べながらその話をすると、マーサに「坊や、服もう一組くらい買いな」と言われたが、値段を考えるとすぐには頷けなかった。
「乾かないだけで、着られないわけじゃないです」
「湿ったの着て風邪ひいたら、治療代の方が高いよ」
「それはそうだけど」
「そういう計算はできるのに、なんで買わないんだい」
「……そのうち買います」
マーサは呆れた顔をしたが、それ以上は言わなかった。代わりに、焼いたパンを一枚余分に皿へ乗せた。
その日の仕事は浅層の導灯交換だった。雨とは無関係に迷宮内はいつもの湿った空気で、地上の天気を知っていると、かえって別の場所へ来たような感覚が強くなる。午前中いっぱい古い灯具を外して新しいものへ替え、昼には管理院へ戻った。
「明日、休みだったな」
工具を片づけていると、ダグが作業台の向こうから声をかけた。
「はい」
「七番倉庫行くなよ」
「なんでですか」
「休みだから」
「休みの日に行ったら駄目なんですか?」
「休みの日くらい休めって言ってんだよ」
ルアンは返事をせず、布で工具についた汚れを拭いた。
「その顔は行く顔だな」
「まだ何も言ってません」
「何年見てると思ってんだ」
年数で言えばそれほど長くないはずだが、ダグには妙に見抜かれる。
その日の仕事を終えたあと、ルアンは七番倉庫へ立ち寄った。今日は荷物を整理するだけのつもりで、訓練はしない。明日は休みなので、そこで自脈を少し試すつもりだった。再開してから数日経っても右腕に違和感はなく、そろそろ右脚にも少しずつ通してみたいと思っていた。
荷物を整理しているうち、別のことを思い出した。
採取の日に使った鞄を、まだきちんと乾かしていない。
部屋の隅から取り出すと、底には乾いた泥が薄く残っていた。ルアンは外で泥を払い、中身を全部出して風を通すことにした。予備の布、短剣、空になった保存食の包み、使わなかった縄を並べていくと、底の方から見覚えのない小さな水筒が出てきた。
革張りの細身のもので、自分の物ではない。
しばらく考えて、フィナの荷物を持ったことを思い出した。帰り道で負傷者の荷物まで引き受けた時、鞄をまとめて背負いやすいよう入れ替えた。その時に紛れ込んだのだろう。蓋の脇には細い白糸が結ばれていて、療院でフィナが持っていたものにも同じ印があった気がする。
「これ、探してるかな」
七番倉庫の窓から外を見ると、相変わらず細い雨が降っている。明日でもいい気はしたが、自分なら水筒がなくなれば困る。
ルアンは乾かしていた鞄をそのまま置き、外套を羽織って白樹療院へ向かった。
雨の日のアルネスは、晴れた日より市場の声が少ない。店先には濡れないよう布が張られ、客も軒の下を選びながら歩くので、狭い場所だけ妙に人が集まっている。ルアンも何度か他人の外套と肩をぶつけながら、濡れた石畳を歩いた。
白樹療院へ着く頃には、外套の肩や裾がしっとりと濡れていた。
受付でフィナを呼んでもらうと、しばらくして廊下の奥から姿を見せた。今日は髪をいつもより少し高い位置でまとめていて、袖を肘まで捲っている。両手が濡れていた。
「どうしたんですか?」
「これ」
水筒を差し出す。
フィナは目を見開いた。
「どこにあったんですか?」
「僕の鞄の中。たぶんこの前、荷物入れ替えた時に入ったんだと思う」
「……なくしたと思ってました」
両手で受け取ると、蓋や底を確かめるように何度か回して見る。
「ずっと探してた?」
「昨日まで」
「昨日で諦めたんだ」
「新しいのを買おうかと思ってました」
「じゃあ間に合った」
「はい。ありがとうございます」
いつもより少し嬉しそうだった。高価な物には見えないが、使い慣れているのだろう。
「それ、長く使ってるの?」
「三年くらいです。療院に入った時に母が買ってくれました」
「じゃあ見つかってよかった」
「本当に」
フィナはそう言って、白糸の結び目を親指でなぞった。
その様子を見ていると、持ってきてよかったと思えた。もし明日まで倉庫に置いたままにしていたら、たぶん何となく気になっていただろう。
「何してたの?」
ルアンが尋ねると、フィナは袖を戻しながら答えた。
「さっきまで器具を洗ってました」
「だから手濡れてるんだ」
「乾かす前に呼ばれたので」
フィナは濡れた指先を見て、少しだけ袖を捲り直した。療院の廊下には煮出した薬草の匂いが漂い、奥からは時折、患者と治療師の話し声が聞こえてくる。
「ルアンは?」
「今日はもう仕事終わり。明日は休み」
「休みなんですね」
「うん。でもセインとミレーナが仕事見つけたら、行くかもしれない」
フィナの手が少し止まった。
「迷宮へ?」
「たぶん。まだ決まってないけど、セインが昨日『次も探そう』って言ってたから」
返事がないので見ると、フィナは水筒を持ったまま廊下の床へ目を落としていた。
「どうしたの?」
「いえ」
一度そう答えたものの、何か言いたそうな顔をしている。ルアンは急かさずに待った。
「また、三人で行くんですか?」
「たぶん」
「そうですか」
それだけ言って、フィナは水筒を胸元へ寄せた。
その時、奥から治療師に呼ばれた。
「フィナ、五番に薬お願い」
「はい」
返事をしてから、フィナはルアンへ軽く頭を下げる。
「すみません。戻らないと」
「うん。またね」
「はい」
フィナが廊下の奥へ歩いていく。ルアンも受付へ一礼して療院を出た。
外へ出ると雨は少し強くなっていた。軒下で外套のフードを被り直し、通りへ出ようとしたところで、背後から扉が開く音がする。
振り返ると、フィナが立っていた。
「ルアン」
さっきより少し息が上がっている。
「どうしたの? 五番は?」
「薬を渡すだけだったので、もう終わりました」
フィナはそう言ってから、一度後ろの扉を気にするように振り返った。急いで出てきたらしく、袖も片方だけまだ捲れたままだ。
「あの」
そこで言葉が止まる。
雨の音が軒を細かく叩いていた。通りでは荷車が水を跳ね上げながら通り過ぎ、その音が遠ざかってからも、フィナはなかなか続きを言わなかった。
「この前の迷宮のことなんですけど」
「うん」
「私、足も遅かったですし、途中で休んでもらいましたし、帰りは荷物まで持ってもらって……」
言いながら、自分でもうまくまとまらないと思ったのか、眉を少し寄せる。
「でも治療してくれた」
「それは治療師なので」
「白鈴草も見てくれた」
「それも療院の仕事でした」
どちらも自分の手柄には数えないらしい。
「じゃあ、何が気になってるの?」
フィナはしばらく黙っていた。水筒を持つ手に少し力が入る。
「迷惑じゃなかったですか?」
「前も聞いてたね」
「ちゃんと聞いてなかったので」
「迷惑なわけないよ。フィナがいてくれて助かった」
フィナはすぐには返事をせず、水筒を持ったままルアンを見る。
「セインもミレーナも、そう思ってますか?」
「うん。二人とも普通にフィナを頼ってたでしょ」
「……そうなのかな」
フィナはすぐには顔を上げなかった。それでも、水筒を握っていた指からは少し力が抜けている。
雨脚が少し強くなり、通りを歩いていた人たちが次々に軒下へ入ってくる。二人も入口を塞がないよう壁際へ寄った。軒先から落ちる水が石畳を細かく叩き、その向こうに迷宮大門へ続く道がぼんやり霞んでいる。
「迷宮、怖かった?」
ルアンが聞くと、フィナは少し考えてから頷いた。
「怖くなかったわけじゃないです。穴鼠も近かったし、怪我した人もいました。歩くのも思っていたより大変でした」
そこまで言って、フィナは雨の向こうへ視線を移した。
「でも、療院にいる時とは違いました。怪我をした人が来るのを待っているんじゃなくて、その人たちが怪我をする前から一緒に歩いていて……。うまく言えないですけど、それが少し不思議でした」
ルアンは黙って聞いた。
「白鈴草も、療院で見る時はただの薬草だったのに、あそこでは水のそばに生えていて、根もあんなふうに広がっていて。知ってるつもりだったことも、実際に見たら全然違いました」
フィナは水筒についた白糸を指先でなぞった。言葉にしながら、自分でも少しずつ気持ちを確かめているように見える。
「疲れましたし、怖かったです。でも……嫌じゃなかったです」
それを口にしたあと、フィナは一度だけ目を伏せた。しばらく迷ってから、今度はきちんとルアンを見る。
「だから、もし迷惑じゃなければ……また行きたいです」




