第30話 帰るまでが仕事
白鈴草の採取は、思っていたよりずっと時間がかかった。
根は一本ずつ同じ形をしているわけではなく、真下へ伸びているものもあれば、隣の株と絡むように横へ広がっているものもある。ミレーナが木べらで湿った土を崩し、フィナが根の位置を確かめ、ルアンが反対側から土を支える。三人が膝をついて作業している間、セインは槍を手に周囲を見張っていた。
五株目を掘り終えた頃には、ルアンの膝から下はすっかり泥だらけになっていた。天井から落ちる水で湿った地面は見た目以上に冷たく、しゃがんだままでいると靴の中までじわじわ冷えてくる。
「これ、帰ったら洗わないとな」
「今気づいたの?」
「こんなに汚れると思わなかった」
「薬草採取で綺麗に帰れると思ってた方がおかしいでしょ」
ミレーナはそう言いながら、自分の膝には最初から古い布を巻いていた。ルアンがそれに気づいて黙ると、彼女は少し得意そうな顔をする。
「次から持ってくれば?」
「そうする」
「銅貨三枚で売ってあげる」
「それ、ただの古い布だよね」
「使い方を教えた分が二枚」
「高くない?」
「じゃあ自分で考えなさい」
少し離れたところで、セインが笑っていた。
「お前ら楽しそうだな」
「暇なら交代する?」
「何すんの?」
「そこで立って周り見る」
「今やってるだろ」
結局、セインだけは一株も触らせてもらえなかった。
十株を越えたところで一度休憩することになった。白鈴草は湿らせた布を敷いた採取籠へ並べ、根についた土も完全には落とさない。フィナによれば乾かしすぎると根が傷むため、療院へ持ち帰るまでは採った時の状態に近い方がいいらしい。
ルアンは岩壁に背を預け、朝マーサに持たされたパンを取り出した。卵まで食べたのに、昼になると普通に腹は減る。隣ではセインが自分の保存肉をもう半分食べ終えていた。
「それ、昼の分全部?」
「まだある」
「どれだけ持ってきたのよ」
ミレーナが呆れながら自分の包みを開く。硬いパンに薄く切った燻製肉、それに小さな林檎が一つ入っていた。
「林檎いいな」
「昨日買ったの」
「いくら?」
「なんで値段聞くのよ」
「ミレーナが買うものって、いいやつなのかなと思って」
「銅貨四枚。昨日の残りで少し安くなってたけど、傷はなかったから」
「やっぱり値段覚えてんじゃん」
「買ったものの値段くらい覚えてるでしょ」
セインは覚えていないらしく、黙って保存肉を噛んだ。
フィナは少し離れたところで、小さなパンをゆっくり食べていた。朝から歩いたせいか頬にまだわずかな赤みが残っているが、最初に休憩した時より呼吸は落ち着いている。
「それだけ?」
ルアンが聞くと、フィナが自分の手元を見る。
「十分です」
「小さくない?」
「いつもこれくらいなので」
「それ、朝飯も少ない人が言うやつじゃない?」
セインが口を挟むと、フィナが目を向けた。
「どうして知ってるんですか」
「知らねえけど、なんとなく」
「適当なんですね」
「当たってた?」
「……少しだけ」
ミレーナが自分の林檎を半分に切り、その片方をフィナへ差し出した。
「食べる?」
「でも」
「半分多いのよ。捨てる方がもったいないから」
「今、自分で買ったって言ってなかった?」
「セインは黙ってて」
フィナは少し迷ってから受け取り、小さく頭を下げた。ミレーナは何でも金に細かいのに、こういう時は妙にあっさりしている。ルアンはそのことを口にしようとして、たぶん言えば怒られる気がしたのでやめた。
休憩後も採取は順調に進み、十八株目まで来たところでフィナが一株を止めた。見た目はほかと変わらないが、根元の土を除けると細い根の一部が黒く変色している。
「これは使わない方がいいです」
「病気?」
「たぶん。葉はまだ大丈夫そうですけど、根の状態がよくないので、療院では薬にしません」
「じゃあ数に入らない?」
「入りません」
ミレーナは迷わずその株を避け、少し離れた場所から別のものを選んだ。報酬のためなら多少状態が悪くても持ち帰るのではないかと、ルアンは一瞬だけ考えていた自分が少し恥ずかしくなる。
二十株目を採り終えた時には、予定よりかなり時間が経っていた。フィナが一つずつ根を確認し、ミレーナが籠の中で動かないよう布を詰め直す。セインは「ようやく帰れる」と伸びをしたが、ミレーナに籠を持たされると途端に真顔になった。
「俺が持つの?」
「一番揺らさずに持てそうだから」
「褒めてる?」
「落としたら銀貨十八枚だから」
「急に重くなったんだけど」
「大事に持って」
槍と採取籠を両方抱えることになり、セインは歩き出す前から扱いに困っていた。結局、槍はルアンがしばらく預かり、セインが籠を両手で持つことになった。
帰り道は来た時より静かだった。慣れない姿勢で作業したせいかルアンは腰のあたりが重く、ミレーナも時々指を曲げ伸ばししている。フィナは疲れているはずなのに何も言わず、足元を見ながら一定の速度で歩いていた。
中層の大きな分岐まで戻ったところで、人の声が聞こえた。
最初は誰かが話しているだけかと思ったが、すぐに短い叫びが混じった。四人が足を止めると、セインの表情が変わる。
「右だな」
「たぶん」
ルアンにも聞こえた。導灯の番号を確認すると、その先は管理院の地図に載っている採掘路へつながっている。
セインが籠をミレーナへ渡そうとする。
「持ってて」
「ちょっと待って。この中身忘れないでよ」
「分かってる」
ミレーナは籠を受け取り、地面へ置かずに両腕で抱えた。ルアンが槍を返すと、セインは一度だけ握りを確かめてから通路の先を覗く。
「行く?」
「声したんだから見るでしょ」
ミレーナが答える。
四人で角を曲がると、二人の探索者がいた。一人は壁際に座り込み、もう一人がその前で膝をついている。床には荷物が散らばり、その少し先に折れた木箱と血の跡が見えた。
「どうした!」
セインが声をかけると、膝をついていた男が振り返った。
「灰角鹿にやられた! もう逃げたけど、脚が……」
座り込んでいる方の男は、右の腿を両手で押さえていた。厚い革の上着の裾が裂け、その下から血が滲んでいる。
フィナがすぐに前へ出た。
「見せてください」
さっきまで少し疲れた顔をしていたのに、声だけは迷わなかった。
男が手をどけると、腿の外側に深い傷があった。灰角鹿の角が掠めたらしく、肉が抉れるように裂けている。フィナは傷へ触れる前に一度呼吸を整え、鞄から清潔な布を取り出した。
「いつ怪我しました?」
「さっきだ。十分も経ってない」
「立てますか?」
「無理だと思う」
「分かりました。無理に動かさないでください」
傷の周囲へ指を当てた瞬間、フィナの眉がわずかに寄った。
ルアンには、その理由が分かった。
「フィナ」
名前を呼ぶと、彼女はこちらを見ずに小さく首を振った。大丈夫だと言いたいらしい。
「血を止めます。少し触りますね」
淡い光がフィナの両手から広がった。傷を負った男は最初こそ歯を食いしばっていたが、治癒が進むにつれて肩から力が抜けていく。その一方で、フィナの指は少しずつ強張り、呼吸も浅くなっていた。
セインとミレーナは治療の邪魔をしないよう少し離れている。二人ともフィナの様子がおかしいことには気づいているらしく、何度か視線を向けていたが、ルアンは何も説明しなかった。
やがて出血がほとんど止まり、傷口もある程度塞がったところで、フィナは手を離した。
「これ以上は、ここではやめます」
「治ってないのか?」
「歩ける程度にはしています。でも深い傷なので、療院でもう一度診てもらってください」
負傷した男が恐る恐る脚を動かす。痛みはまだあるようだが、さっきのように顔を歪めることはなかった。
フィナは立ち上がろうとして、一度だけ膝へ手をついた。
ルアンが腕を出す。
「大丈夫?」
「……少し休めば」
「座った方がいいよ」
「でも、この人を帰さないと」
「だから一緒に帰るんでしょ」
ミレーナが言いながら、白鈴草の籠を地面の乾いた場所へ置いた。中身を確認してから布をもう一枚上へかけ、今度は負傷者の散らばった荷物を集め始める。
「セイン、その人支えられる?」
「余裕」
「余裕って言う人ほど落とすから気をつけて」
「俺を何だと思ってんだよ」
セインは槍を背へ回し、負傷した男の片腕を自分の肩へ掛けた。もう一人の探索者も反対側から支える。
「ルアンはこの人の荷物持って。私は白鈴草」
「分かった。フィナの分も僕が持つ」
「でも、自分の荷物くらい……」
「治療したでしょ。十分働いてる」
フィナは一度何かを言いかけたが、結局何も言わずに頷いた。
帰り道は、予定していたよりずっと遅くなった。負傷者に合わせて歩くので速度は上がらず、中層待機所へ着く頃には、導灯の明かりが朝より少し眩しく感じられるほど目が疲れていた。
途中、セインは何度か負傷者を背負おうとしたが、本人が歩けると言い張ったため肩を貸すだけにした。ミレーナは白鈴草の籠を揺らさないよう両腕で抱え、ルアンは二人分の荷物を背負った。フィナは手ぶらだったが、負傷者と同じ右脚をかばうような歩き方になっている。ルアンはそれに気づいても、何も言わなかった。
待機所へ着くと、負傷者はそのまま簡易治療室へ運ばれた。フィナも一緒に入ろうとしたが、常駐の治療師に顔を見るなり止められる。
「あなたは休んで」
「でも、さっき私が治療したので」
「だから休むの。引き継ぎだけ説明して」
フィナは少し不満そうだったが、傷の位置と治癒した範囲を説明すると、ようやく椅子へ座った。座った途端、肩が少し落ちた。
「疲れた?」
ルアンが隣へ座る。
「少しだけです」
「それ、フィナの『かなり』じゃない?」
「違います」
「じゃあ半分くらい?」
「どうして数字にするんですか」
いつもの調子が戻ってきたので、ルアンは少し安心した。
ミレーナはその間にも籠を確認していた。泥のついた布を外し、葉が折れていないか、根が乾いていないかを一株ずつ見ている。
「大丈夫そう?」
「今のところは。セイン、途中で傾けてないわよね?」
「一回も」
「本当に?」
「俺今日、ずっと緊張して持ってたぞ」
「槍より?」
「槍は多少ぶつけても平気だろ」
「白鈴草は?」
「銀貨十八枚」
ミレーナが満足そうに頷いた。
アルネスへ戻った時には、予定より一時間以上遅くなっていた。朝に濡れていた石畳はすっかり乾いていたが、四人の靴と裾には迷宮の泥がこびりついている。
白樹療院へ白鈴草を届けると、担当の治療師がその場で状態を確認した。根の長さ、葉の傷み、乾燥の具合まで一つずつ見ていくので、ミレーナは横から黙って結果を待っていた。
最後の一株まで確認し終えると、治療師が顔を上げる。
「二十株、全部使えます。ありがとう」
ミレーナの肩から目に見えて力が抜けた。
「よかった」
「そんなに心配だった?」
「だって帰りに人一人増えたのよ。籠ぶつけられないし、転べないし、途中からずっと気が気じゃなかった」
「人より薬草の心配してない?」
「両方してたわよ!」
セインが笑い、フィナも声を立てない程度に笑った。
報酬の手続きは翌日になるというので、その日はそこで解散することになった。フィナは療院に残り、セインは腹が減ったと言って食堂へ向かい、ミレーナは泥だらけになった採取道具を早く洗いたいらしい。
ルアンも月兎亭へ戻ろうとして、玄関の前で一度振り返った。
朝は四人で迷宮へ入り、薬草を二十株採って帰るだけの仕事だと思っていた。実際、依頼そのものはきちんと終わった。それでも帰る頃には、誰が何をできるのか、誰が何を見ているのかを、昨日より少しだけ知っていた。
フィナは治せる。けれど、治すたびに平気なわけではない。
それでも、あの場で最初に前へ出たのはフィナだった。




