第29話 四人目
白鈴草の採取当日、ルアンはいつもより少し早く目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、夜のうちに雨が降ったらしい通りの石畳が鈍く光っている。月兎亭の二階は静かで、階下からもまだ食器の音は聞こえてこなかった。
起き上がると、昨夜洗った仕事着が椅子の背に掛かっている。袖を触ってみると肘のあたりだけまだ少し湿っていた。迷った末に一度は着てみたものの、冷たい布が腕へ張りついて思った以上に気持ちが悪く、すぐに脱いで予備のシャツへ替えた。以前ならそのまま着ていた気もするが、最近は周囲から身体のことを言われすぎて、少しだけ慎重になったのかもしれない。
顔を洗い、歯を磨き、寝癖を水で押さえる。鏡代わりの磨いた金属板を見ると、後頭部の髪が一束だけ跳ねたままだった。何度撫でても戻ってくるので、そのうち諦めた。
階下へ降りると、ちょうどマーサが厨房の火を起こしていた。
「早いね、坊や」
「今日は迷宮です」
「いつも迷宮じゃないか」
「今日は管理院の仕事じゃない方です」
「じゃあ余計に食べな」
何か言い返す前に、パンと豆のスープが目の前へ置かれた。さらに焼いた卵が一つ乗る。
「あ、卵……」
「見れば分かるよ」
「頼んでないです」
「今日はサービス」
「なんで?」
「坊やが頼んでないから」
意味はよく分からなかったが、卵は食べたかったのでありがたく受け取った。食事を終える頃には外も明るくなり始めていた。雨は止んでいるものの厚い雲が残り、窓の隙間から入り込む風は少し冷たい。
ルアンは水筒、予備の布、細い縄、短剣、それから管理院で使っている小さな携帯灯を鞄へ入れた。導灯の点検仕事ではないので、工具箱までは持っていかない。玄関を出ようとしたところでマーサに呼び止められ、後ろから髪を手で押さえつけられた。
「これでよし」
「そんなに変でした?」
「鳥が止まりそうだったね」
外へ出てから頭を触ってみたが、もうどこが跳ねていたのか分からなかった。
探索者組合前の集合時間には、まだ少し余裕があった。ルアンが着くと、ミレーナはすでに来ていて、足元には二つの採取籠と、小さな移植用の匙、布袋が並んでいる。雨上がりの石畳へ直接置かないよう、籠の下には古い布まで敷かれていた。
「早いね」
「あんたもね」
「それ全部持ってくの?」
「全部じゃない。半分は選別中」
ミレーナは細い木べらを一本持ち上げて眺め、少し考えてから鞄へ戻した。
「それ何?」
「根を傷つけずに土を崩すやつ。金属だと細い根を切るかもしれないから」
「昨日準備したの?」
「昨日のうちに大体ね。朝になってから足りないって気づくの嫌でしょ」
「セインにも聞かせたい」
「どうせ聞かないわよ」
そのセインは、集合時間の少し前になって現れた。走ってはいないし遅刻もしていない。ただし、口にはまだパンをくわえている。
「おはよ」
「食べてから喋って」
「もう食べ終わる」
「朝ご飯、今?」
「起きるのちょっと遅くて」
ミレーナが無言で時計を見る。
「間に合ってるだろ」
「間に合ってるけど、褒めるほどじゃない」
「誰も褒めてくれなんて言ってねえよ」
セインは最後の一口を飲み込み、水筒の水を勢いよく飲んだ。槍はきちんと手入れされ、革紐も新しく締め直されているのに、シャツの襟が片方だけ折れていることには本人だけが気づいていない。
「フィナは?」
ルアンが周囲を見回す。まだ来ていなかった。
集合時間までは少しあったので、三人はそのまま待つことにした。通りを行く人の数が増え、組合前には朝一番の依頼を探す探索者が集まり始める。濡れた石畳を荷車が通るたび、車輪の脇から細かい水が跳ねた。
やがて集合時間を少し過ぎても、フィナは姿を見せなかった。
「遅刻?」
「珍しそうだけど」
「知ってんの?」
「二回しか会ってないけど」
「二回なら結構知ってる方だろ」
セインがまた同じことを言う。ミレーナは通りの向こうへ目を細めた。
「白樹療院からここまでなら、そんなにかからないでしょ」
「迎えに行く?」
「入れ違うかもしれないから、もう少し待ちましょ」
五分ほど経った頃、通りの向こうに灰色の外套が見えた。フィナだった。走ってはいないがかなり急いで歩いていて、近くまで来ると頬が少し赤くなっている。
「すみません。遅れました」
「大丈夫。まだ五分くらい」
「五分遅刻だな」
「セイン」
ミレーナが睨む。
「俺は今日間に合った」
「だから何よ」
「いや、こういう日は言っていいかなって」
「言わなくていいです」
フィナが静かに返し、セインはなぜか少し嬉しそうに笑った。
「何かあったの?」
ルアンが尋ねると、フィナは外套の襟元を整えながら小さく息を吐いた。
「出る直前に患者さんが来てしまって。別の人に引き継いだんですけど、説明に少し時間がかかりました」
「仕事だったんだ」
「はい。早く出るつもりだったんですが」
申し訳なさそうにしているので、ルアンはそれ以上聞かなかった。
四人で組合へ入り、依頼の正式な受領を済ませる。ゴードはフィナの同行を確認すると、緊急時の帰還経路を改めて説明し、最後にルアンだけを見た。
「今回は勝手に先へ行くなよ」
「なんで僕にだけ言うんですか」
「実績がある」
「嫌な実績だな」
「自覚あるなら直しなさいよ」
ミレーナが即座に言い、ゴードは喉の奥で笑った。
迷宮大門へ向かう途中、四人の歩く速度には少しずつ違いがあった。セインは放っておくと半歩ずつ前へ出ていき、ミレーナは一定の速さを崩さない。ルアンはその中間くらいだったが、フィナだけは歩幅が少し小さい。浅層へ入った頃は問題なかったものの、中層へ続く長い下り坂へ差しかかったところで、ルアンはフィナの呼吸が少し変わっていることに気づいた。
「休む?」
「え?」
「少し速かったかなと思って」
「大丈夫です」
返事はすぐに返ってきたが、額にはうっすら汗が浮いている。
「別に急いでないよ」
「でも、皆さん普通に歩いてるので」
「セインが速いだけ」
「俺?」
前を歩いていたセインが振り返る。
「そう」
「普通だろ」
「脚の長さが違うの」
ミレーナも足を止めた。
「白鈴草は逃げないんだから、少し休みましょ」
フィナはまだ何か言いたそうだったが、結局頷いた。
壁際の乾いた場所へ移動し、水を飲む。セインは休憩するほどでもないと思ったのか最初は立っていたが、ミレーナに「座れば?」と言われると素直に腰を下ろした。
「中層って、もっと怖い場所だと思ってました」
フィナが導灯の並ぶ通路を見ながら言う。
「怖くない?」
「今のところは」
「場所によるよ。ここは管理院の人もよく通るし、導灯も多いから。でも一本曲がるだけで、急に誰もいなくなるところもある」
「安心させる気ある?」
「聞かれたから」
ミレーナに言われ、ルアンは少し考える。
「でも、今日は四人だし」
「それは安心材料なの?」
「たぶん」
「またたぶんですか」
フィナの口元が少し緩んだ。
休憩を終えて中層へ入ると、空気は浅層より湿り気を増した。壁には細い水滴が筋になって流れ、靴底が滑りやすい場所も増えていく。ミレーナが足元を確かめる場面も多くなり、三人は自然と彼女の後ろを歩くようになった。
「そこ、真ん中踏まないで。端の方が固い」
「見た目同じだけど」
「踏めば分かるわよ」
「踏んでからじゃ遅くない?」
「だから言ってるの」
セインが右端へ寄り、フィナもその足跡を追うように進んだ。少し先では、小さな鼠型の魔物が二匹、通路脇の穴から姿を見せる。
フィナの身体がわずかに強張った。
セインは槍を構えたが、相手もこちらを見たまま動かない。
「穴鼠だね」
「襲ってきますか?」
「腹減ってたら」
「今は?」
「知らない」
「ルアン」
少し責めるような目を向けられ、ミレーナが横から口を挟む。
「こいつら、荷物の匂い嗅ぎに来ただけ。食べ物出さなければ大体平気」
「大体なんですね」
「迷宮で絶対って言う人は信用しない方がいいわよ」
フィナはその言葉を聞いて少しだけ肩の力を抜いた。穴鼠はしばらく鼻を動かしていたが、やがて興味を失ったように穴へ戻っていく。
「戦わなくていいんだ」
「そりゃそうだろ。全部倒してたら疲れるし」
「セインでもそう考えるんだ」
「お前ら俺を何だと思ってんの?」
三人ともすぐには答えなかった。少し先でミレーナが笑い、セインが「おい」と不満そうな声を上げる。そのやり取りを見て、フィナもまた小さく笑った。
目的地に近づくにつれ、岩肌の色が灰色から薄い緑へ変わっていった。天井から落ちる水が床へ小さな溝を作り、その周辺だけ苔が厚く生えている。やがてミレーナが足を止め、依頼書の地図と周囲を見比べた。
「たぶん、この辺」
「白鈴草は?」
「水の近くに生えるって」
フィナが周囲を見回す。ルアンも見覚えのある導灯を確認した。番号は五十二。普段の点検ではここからさらに東へ向かうため、この脇道へ入ったことはない。
四人でゆっくり進むと、岩陰に小さな白いものが見えた。鈴のような花だった。一つ見つけると、その周囲にもいくつかある。湿った土の中から細い茎を伸ばし、白い花が俯くように咲いていた。
「これ」
フィナの声が少し明るくなった。すぐ近くへ行こうとしたところで、ミレーナが腕を出して止める。
「待って」
「何?」
「地面」
白鈴草の周囲だけ、土の色が少し濃い。ミレーナはしゃがみ込み、木べらで表面を軽く押した。柔らかい。さらに横へ動かしてみると、土の下から小さな気泡が浮き上がる。
「水が溜まってる。見た目より深いかも」
「沈む?」
「たぶん膝くらい。でも、荷物持ったまま踏んだら転ぶ」
「迂回できる?」
「左から行けそう」
ミレーナが先に進み、硬い地面を探しながら道を作る。セインはその後ろを黙ってついていき、フィナも指示された場所だけを踏んだ。ルアンは最後尾から三人の動きを見ながら続く。
数日前なら、自分が先に行って確かめようとしたかもしれない。けれど今はミレーナが地面を見て、セインが周囲を見て、フィナは採取する白鈴草を見ている。自分一人で全部を見る必要はなかった。
目的の群生地へ着くと、ミレーナが採取籠を下ろした。
「じゃあ、まず一株。失敗したら数に入らないからね」
「誰がやる?」
「私がやる。フィナ、根の長さ見て」
「はい」
「ルアンは土押さえて。セインは周り」
「俺だけ採らないの?」
「抜いたら駄目って昨日言われたでしょ」
「まだ覚えてんのかよ」
「忘れると思ってたの?」
「ちょっと」
フィナが小さく笑い、セインは不満そうに槍を持って周囲へ向き直った。
ミレーナが木べらで土を少しずつ崩し、フィナが細い根の位置を指で示す。ルアンは反対側から土を支え、根が途中で切れないよう慎重に持ち上げていった。四人とも手を動かしているわけではないのに、誰か一人でも役割を外せばやりにくくなる。セインは時々振り返りながら周囲を見張り、ミレーナは根の向きを確かめ、フィナは薬草として使える状態かを見極めている。
一株目が土から離れるまでには、思ったより時間がかかった。白い花の下から伸びた細い根は泥をまといながらも、ほとんど切れていない。
フィナが両手で受け取り、しばらく確かめる。
「大丈夫です。これなら使えます」
「よし。あと十九株」
「結構あるな」
「誰かさんが抜かなければね」
「抜かねえって」
いつもの調子で言い合う二人の横で、フィナがまた笑った。ルアンも次の株のそばへ膝をつき、湿った土へ手を添える。
四人でやる最初の仕事は、派手なものではなかった。土に膝をつき、根を切らないよう気をつけながら、薬草を一株ずつ掘っていく。それだけの仕事なのに、ルアンには今までとは少し違う時間に感じられた。
自分以外の三人が、それぞれ違うものを見ている。
そのことが、妙に心強かった。




