第26話 才能があるのに
白樹療院で治療を受けてから二日後、ルアンは通常勤務へ戻っていた。右腕にも右脚にも痛みは残っていない。朝から何度かダグに具合を聞かれたことを除けば、いつもと変わらない一日のはずだった。
ただし、自脈の訓練は禁止されたままだ。
「今日までは使うな」
「もう治ってますよ」
「治ったから使っていい、って言われたのか?」
「そこまでは」
「じゃあ使うな」
「はい」
療院でも管理院でも似たようなことを言われる。最近は、自分より周囲の方が自分の身体を心配しているような気がしてきた。ありがたいとは思うが、少しだけ窮屈でもある。
その日は中層南側の点検だった。地下湖から少し離れた古い搬送路をダグと歩き、導灯の出力と壁際の標識を順番に確認していく。特別な異常はなく、久しぶりに「何も起きない仕事」で終わりそうだった。
昼を少し過ぎた頃、前方から人の叫び声が聞こえた。二人が駆けつけると、荷運び用の小さな台車が通路の端で傾き、外れた車輪の周りに鉱石袋が崩れている。その横では若い作業員が床に座り込み、右足首を押さえていた。
「動くな」
ダグが先に声をかける。男は歯を食いしばりながら頷いた。大きな鉱石袋が足の上へ落ちたらしく、革靴の縁から見える皮膚はすでに赤く腫れ始めている。
「骨いってますかね」
「触るな。担架呼ぶぞ」
ダグは近くにいた別の作業員へ、中層待機所まで人を呼びに行くよう頼んだ。ルアンは崩れた荷を通路の端へ寄せ、後から来る者が足を取られないようにする。
負傷した男は、痛みを紛らわせたいのか、やけによく喋った。
「今日これ運んだら終わりだったんすよ」
「帰って酒飲む予定でした?」
「なんで分かるんだよ」
「顔に書いてあります」
「そんな顔あるか?」
男が笑った拍子に足がわずかに動く。次の瞬間には笑みが消え、喉の奥から押し殺した声が漏れた。
ルアンはそれを見ながら、以前の自分なら慌てて何かしようとしていただろうと思う。今も治療はできないが、余計に動かさないことや、むやみに傷へ触れないことくらいは分かるようになった。
しばらくして、担架を持った二人と白い治療衣の少女が通路の向こうから現れた。見覚えのある淡い金色の髪に気づき、ルアンは思わず声を上げる。
「フィナ」
フィナもこちらに気づいた。一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに負傷者へ視線を移す。
「足を見せてください」
「はい」
挨拶より先に仕事だった。フィナは男の横へしゃがみ込み、靴を脱がせて患部を確かめる。足首の外側には紫色の痣が広がり始めていた。
「指、動かせますか」
「動きます」
「ここは?」
「痛っ……そこ、かなり」
「分かりました。もう触りません」
落ち着いた声だった。けれどルアンには、二日前にも見たものが目についた。フィナが患部へ触れるたび、反対の手の指がわずかに強く握られている。
「骨は折れていないと思います。ただ、このまま歩かせない方がいいです。ここで痛みだけ少し取ります」
両手を足首へ添えると、淡い白光が生まれた。負傷した男の眉間から少しずつ皺が消えていく。
「おお……すげえ。楽になってきた」
楽になっていく男とは反対に、フィナの呼吸は浅くなっていた。肩に力が入り、結ばれた唇から色が薄れている。療院でルアンを治した時と同じだった。
治癒を終えると、フィナはすぐに手を離した。
「立たないでください。そのまま担架で運びます」
「もう歩けそうだけど」
「歩けそうなのと、歩いていいのは別です」
「それ、今日二回目だな」
ルアンが口を挟むと、フィナがこちらを向いた。
「何がですか?」
「似たことをダグさんにも言われた」
「正しいと思います」
「やっぱりそっち側なんだ」
「何側ですか」
眉を少し寄せる。その顔が二日前より分かりやすく見えて、ルアンは口元を緩めた。
作業員を担架へ乗せると、ダグはルアンに待機所まで付き添うよう言った。自分は壊れた台車と散らばった鉱石を片づけてから戻るという。
中層待機所までは十五分ほどかかる。担架の横を歩くフィナはほとんど喋らず、負傷した男に何か聞かれた時だけ短く答えていた。ルアンも無理に話しかけなかったが、歩いているうちに一つ気づく。
フィナは時折、右足首をかばうように歩いていた。
怪我をしたのは、担架に乗っている男のはずなのに。
待機所へ着くと、奥の簡易治療室へ男を運び、常駐の治療師へ引き継いだ。必要な説明を終えたフィナは建物の外へ出ていく。ルアンも詰所へ戻る前に水を飲もうと後を追うと、彼女は壁際に立ち、右足を少し浮かせてゆっくり足首を回していた。
「やっぱり痛いんだ」
フィナの動きが止まる。
「何がですか」
「右足」
「痛くないです」
「でも、さっきからかばってる」
「気のせいです」
「療院でもそう言ってたね」
フィナは少し嫌そうな顔でこちらを見た。
「よく見てますね」
「最近そういう癖がついてるんだと思う」
「やめた方がいいです」
「なんで?」
「人のことばかり見てると、嫌われます」
「もう嫌われた?」
「……まだ分かりません」
即答ではなかったので、ルアンは少し安心した。
壁際の水差しから木杯へ水を注ぎ、一つをフィナへ差し出す。彼女は受け取るかどうか迷ったようだったが、やがて小さく礼を言って杯を取った。迷宮の中は季節に関係なく肌寒い。それでも歩き続けて火照った身体には冷たい水が気持ちよく、喉を通るたびに熱が引いていく。
待機所の前では、壁の導灯が白っぽい光を落としていた。仕事を終えた作業員や探索者たちがその下を通り過ぎ、靴音や荷車の軋む音が絶えず行き交っている。
「フィナ」
「はい」
「治癒すると、痛いの?」
木杯を持つ指が止まった。
「誰に聞きました?」
「誰にも。見てたらそう見えたから」
「……違います」
「じゃあ、なんで足が痛そうなの」
「痛そうに見えるだけです」
「僕を治した時は、腕と脚だったよね」
フィナは答えなかった。
ルアンも、それ以上は追わなかった。話したくないことまで聞き出したいわけではない。杯に残った水を飲んでいると、しばらくしてフィナの方から小さな声が聞こえた。
「同じ痛みじゃありません」
ルアンは横を見る。
「治癒している時、その人が感じている痛みが……少しだけ分かります」
「分かる?」
「身体に来るんです。傷ができるわけじゃありません。でも、痛い場所も、どういうふうに痛むのかも分かるんです」
フィナは自分の右足首へ目を落とした。
「さっきの人は、ここが痛かったので」
「僕の時も?」
「はい」
「腕も?」
「はい」
「脚も?」
「……はい」
ルアンは思わず自分の右腕を見る。あの日、自分は治癒を受けるほど楽になっていった。その間、目の前の少女は、自分の腕や脚に走っていた痛みを感じていたことになる。
「それ、治すたびに?」
「全部ではありません。軽い傷ならほとんど平気な時もあります。深い傷とか、骨とか、神経に近いところは強く来ます」
「治癒師はみんなそうなの?」
「違います。私だけです」
その返事だけが妙に早かった。怒っているようにも、疲れ切っているようにも聞こえる。
「昔から?」
「最初に治癒魔法を使った時からです。普通より傷の場所が細かく分かるから、治すのも早いんだそうです」
フィナは目を伏せ、木杯の縁を親指でなぞった。
「治癒が上手いって言われました。すごい才能だって。才能があるのに、どうして治癒師になりたくないのって、何度も言われました。これだけ治せるのに、使わないなんてもったいないって」
杯を包む指先がわずかに震えている。
「でも、痛いものは痛いです」
最後の一言だけ、少し幼く聞こえた。
ルアンは何か返そうとしたが、すぐには言葉が出なかった。「大変だね」では軽すぎる気がするし、「せっかく才能があるのに」と言えば、今までフィナが嫌というほど聞かされてきた言葉になる。
「嫌なら、やらなくてもいいんじゃない?」
フィナが顔を上げた。
「……簡単に言いますね」
「簡単だった?」
「治せる人が目の前にいて、痛がってる人がいたら、どうするんですか」
「うーん……」
さっき担架で運ばれていった男が頭に浮かんだ。もし自分に治せる力があれば、おそらく治そうとする。けれど、そのたびに自分も同じ痛みを受けるのなら――そこまで考えると、簡単には答えを出せなかった。
「分かんない」
フィナが少し意外そうな顔をした。
「分からないんですか」
「だって僕、その痛み知らないから。知らないのに、こうした方がいいって言えないよ」
しばらくフィナの視線がこちらに留まった。何かを確かめるように見えたが、やがて彼女の方から目を逸らす。
「ルアンは、どうしてそこまで魔力を使いたいんですか」
「そこまで?」
「紋脈がないんですよね。それなのに自分で通り道をつくって、身体が動かなくなるまで使ってる」
ルアンは少し考えた。前にも似たことを聞かれたが、答えは今も変わらない。
「できないままなのが嫌だからかな」
「どうして?」
「できることが増えた方が楽しいし、行ける場所も増えるから」
「それだけですか?」
「たぶん」
本当に、それだけだった。五秒しか使えなかったものが十秒になり、十三秒になった。以前なら任されなかった中層の仕事にも出られるようになった。できないことが一つ減るたび、自分の前にある場所が少しだけ広がっていく。それが嬉しかった。
フィナはしばらく黙っていた。
「ルアンはいいですよね」
「え?」
「才能がなくて」
意味を飲み込むまで、少し時間がかかった。フィナはこちらを見ず、木杯を両手で包んだまま続ける。
「何もないなら、自分で欲しいものを選べるじゃないですか。できないなら、やらなくても誰も責めない。私みたいに、できるんだからやれって言われない」
声を荒らげているわけではない。むしろ淡々としていた。それでも、長い間飲み込んできたものが、ほんの少しだけこぼれたように聞こえた。
「……そうだね」
ルアンはそれだけ答えた。
フィナが顔を上げる。怒ると思われていたのかもしれない。才能がないと言われることには慣れているし、普段なら多少は腹も立っただろう。けれど今は、目の前の少女が本気で自分を羨ましがっていることの方が気になった。
遠くで鐘が鳴った。待機所の交代を知らせる音に気づき、フィナは木杯に残っていた水を飲み干す。
「戻ります」
「うん」
「さっきのことは……忘れてください」
「どのへん?」
「全部です」
「無理かも」
「……そうですか」
困ったように眉を下げたフィナが歩き出す。二歩ほど進んだところで、治療室の方から男の声が飛んできた。
「フィナ! 悪い、もう一人頼めるか!?」
彼女の足が止まった。
ほんの少し肩が落ちる。さっきまでかばっていた右足はまだ完全には戻っていないらしく、立ち止まった身体の重心もわずかに左へ寄っていた。
ルアンは、先ほど自分が口にした言葉を思い出す。
“嫌なら、やらなくてもいいんじゃない?”
今になって、その言葉がずいぶん簡単なものに思えた。
フィナは数秒だけ治療室の入口を見つめ、それから木杯を置くと、ゆっくり身体の向きを変えた。
「今行きます」
軽い足取りではなかった。それでも、呼ばれた方へ戻っていく。
治癒魔法そのものが嫌いなのか。治癒師になりたくないのか。それとも、痛みを受け続けることが怖いのか。ルアンにはまだ分からなかった。
ただ、嫌そうな顔をしながらも、フィナは戻った。
その背中を、ルアンはしばらく見送っていた。




