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第25話 白樹療院

翌朝、ルアンは迷宮管理院へ出勤して十分もしないうちに、ダグから白樹療院(はくじゅりょういん)へ行くよう命じられた。


「もう大丈夫です」

「昨日も聞いた」

「今日は昨日より大丈夫です」

「だから診てもらってこい」


右腕を曲げてみせても、軽く屈伸してみせても、ダグの表情は変わらなかった。自分でも痛みが完全に消えていないことは分かっていたので、それ以上は抵抗せず、ルアンは持ってきた工具袋を机の脇へ戻した。


「診てもらったら戻ってきていいですか?」

「向こうがいいって言ったらな」

「仕事ありますよね」

「お前一人休んだくらいで回らなくなる職場なら、とっくに潰れてる」

「それはそうですけど」

「あと、昨日の報告書は逃げねえから安心しろ」

「安心できる要素がないです」


机の上には、書きかけの報告書が三枚置かれていた。どうやら療院から戻れたとしても、今日一日の仕事がなくなるわけではなさそうだった。


管理院を出たルアンは、大門から少し離れた東区画へ向かった。白樹療院は探索者や迷宮関係者が多く利用する治療院で、骨折や裂傷だけでなく、魔力の過剰使用による体調不良も診てくれる。


名前は以前から知っていたが、中へ入るのは初めてだった。白い石造りの建物は迷宮の近くにある施設にしては妙に静かで、受付の奥からは薬草の匂いが漂っている。廊下を行き交う人の声も自然と小さくなり、壁際の長椅子には腕を吊った探索者や、額に包帯を巻いた作業員が何人も座っていた。


受付で管理院から渡された紙を出すと、年配の女性が内容を確認した。途中で少し眉を寄せ、紙を持ち直す。


「『紋脈(もんみゃく)を介さない魔力操作による右腕、右脚への負荷』……?」

「はい」

「紋脈を介さないって、どういうこと?」

「僕、紋脈がないので。自分で魔力を通してるんです」

「自分で?」

「はい」

「それを十三秒続けて、そのあと歩けなくなった、と」

「少し休んだら歩けました」

「そういうのを確認するところだから、座って待ってて」


受付の女性はもう一度診療票を見てから、少し不思議そうな顔のまま次の書類へ手を伸ばした。


ルアンは空いている長椅子へ腰を下ろした。向かいでは若い探索者が足首の治療を受けており、その前に小柄な少女がしゃがんでいる。


歳はルアンより少し下に見えた。淡い金色に近い髪を後ろでまとめ、白い治療衣の袖を肘まで上げている。まだ大人の治療師ほど慣れた雰囲気ではないのに、患者の足を確かめる手にはほとんど迷いがなかった。


「少し熱く感じます」

「分かった」


少女が両手を足首へ添えると、柔らかな白い光が傷口を包んだ。腫れていた部分がゆっくりと引いていき、しばらくすると探索者が恐る恐る足を動かした。


「おお、すげえ。もう痛くねえ」

「今日は走らないでください」

「いけそうだけど」

「いけそうなのと、走っていいのは違います」


ルアンは思わず少し笑った。どこかで何度も聞いたような言い方だった。


探索者が礼を言って立ち去ると、少女はすぐには次の患者を呼ばなかった。膝の上に置いた両手をぎゅっと握り、一度だけ小さく息を吐く。それはほんの数秒のことで、顔を上げた時にはもう元の静かな表情へ戻っていた。


「ルアンさん」


名前を呼ばれ、ルアンは少し驚いた。少女がこちらを見ている。


「はい」

「こちらへどうぞ」


案内された診察室は小さく、机と椅子、それに簡素な寝台が一つ置かれていた。壁には人体の魔力循環を示した図が掛けられている。


少女はルアンを椅子へ座らせ、受付で渡した紙へ目を通した。


「右腕と右脚ですね」

「はい。でも今は普通に動きます」

「動くことと、傷んでいないことは別です」

「さっきも似たようなこと聞きました」

「そうですか?」


真顔だった。冗談で言ったわけではなさそうだった。


「私はフィナです。今日は補助で診ます」

「ルアンです」

「知ってます。紙に書いてあるので」

「ですね」


少しだけ気まずくなったが、フィナは気にした様子もなく診察を始めた。肩、肘、手首と順番に動かしながら、痛みの出る場所を確かめていく。


「ここは?」

「少し」

「これは?」

「大丈夫」

「こっちは?」

「ちょっと痛いです」


ルアンが答えるたびに、フィナは短く頷いた。


「この『紋脈を介さない魔力操作』というのは?」

「ああ、それ」


ルアンは自分の右手を見た。


「僕、紋脈がないんです」

「……ないんですか?」


フィナの手が止まった。今度は明らかに驚いている。


「うん。だから、普通みたいに魔力を流せなくて」

「それで、どうやって腕や脚へ?」

「自分で通る道をつくってます。まだちゃんとしたものじゃないけど」

「道……」

「僕は自脈(じみゃく)って呼んでます」


フィナは少しの間、何も言わなかった。珍しいものを見るように右腕へ視線を落とし、それからもう一度ルアンを見る。


「それを、自分でつくったんですか?」

「まだ途中だけどね。最初は指先だけだったし、今も長くは使えない」

「どうして、そこまでして……」


そこまで言って、フィナは言葉を止めた。


ルアンは首を傾げる。


「使えないままより、使えた方がいいからかな」


それはルアンにとって、特別な答えではなかった。できないなら練習する。失敗したら、またやる。それを繰り返してきただけだった。


フィナはしばらくルアンを見ていたが、やがて視線を戻した。


「……そうですか」


それ以上は聞かなかった。ただ、先ほどまでとは少し違う表情をしていた。


右腕の確認が終わると、今度は右脚を診た。筋肉そのものに大きな損傷はなかったが、魔力を無理に通した場所には細かな負担が残っているらしい。


「治癒をかけます」

「お願いします」


フィナが右腕へ両手を添えると、白い光が生まれた。傷口があるわけではないので見た目の変化はほとんどないが、腕の奥に残っていた重さがゆっくりと薄れていく。


温かかった。


ルアンは感心しながら光を見ていたが、その途中でフィナの指がわずかに震えたことに気づいた。


ほんの一瞬だった。


「大丈夫?」


思わず聞くと、フィナが顔を上げる。


「何がですか?」

「いや、今……」

「動かさないでください」

「はい」


気のせいだったのかもしれないと思い、ルアンは黙った。治癒が続くにつれて腕の違和感はほとんど消え、フィナはそのまま右脚へ移った。


同じように白い光が膝から腿(もも)へ広がっていく。


その途中で、また指が震えた。


今度は見間違いではなかった。額にはうっすら汗が浮かび、治療を受けているのは自分なのに、なぜかフィナの方がつらそうに見える。


「フィナ」

「動かないでください」

「僕、そんなに悪い?」

「悪くはないです」

「じゃあ、どうして……」


言い終わる前に扉が開き、奥から年配の治療師が顔を出した。


「フィナ、一度休みなさい」

「大丈夫です」

「三人続けてるでしょう」

「このくらいなら」

「休みなさい」


声は穏やかだったが、断る余地はなさそうだった。フィナは少しだけ唇を結び、ルアンから手を離した。


「すみません。少し待っていてください」

「うん」


少女が診察室を出ていくと、ルアンは一人で右腕を曲げてみた。痛みはなく、さっきまであった重さもかなり消えている。


すごい治癒魔法だった。


それなのに、治していた本人は少しも楽そうではなかった。


しばらくすると、先ほどの年配の治療師が入ってきた。


「悪いね。続きは私が見るよ」

「フィナは?」

「少し休憩」

「具合悪いんですか?」

「まあ、あの子は少し無理をするからね」


それ以上の説明はなかった。


残りの診察を終えると、今日一日は身体へ魔力を流さないよう改めて念を押された。明日になって痛みが戻らなければ、通常勤務へ戻って構わないらしい。


受付で診療票を受け取り、管理院へ戻ろうと出口へ向かったところで、中庭の長椅子にフィナが座っているのが見えた。白い治療衣のまま、両手を膝の上に置いている。


ルアンは少し迷ったあと、そちらへ歩いた。


「もう大丈夫?」

「はい」


返事はすぐだったが、顔色は治療を始める前より少し白い。


「ありがとう。腕、かなり楽になった」

「よかったです」

「治癒魔法、すごいんだね」

「普通です」

「普通じゃないと思うけど」


フィナは何も答えなかった。


ルアンは隣には座らず、少し離れたところに立ったまま話を続けた。


「治すのって、疲れる?」

「魔力を使いますから」

「僕が自脈を使った後みたいな感じ?」

「違います」


少しだけ強い返事だった。


ルアンが黙ると、フィナも何も言わなくなった。中庭の木から一枚の葉が落ち、石畳の上を風に押されて転がっていく。


やがてフィナが小さく息を吐いた。


「すみません」

「何が?」

「言い方が」

「別に気にしてないよ」


また少し沈黙が続いた。


ルアンはそろそろ帰ろうかと思ったが、一つだけ気になっていることがあった。


「さっき、治療してる時、手が震えてたよね」


フィナの表情が止まった。


「見間違いです」

「二回あった」

「……よく見てますね」

「最近、見る練習してるから」


何の練習なのか説明すると長くなるので、そこまでは言わなかった。


フィナは自分の両手を見下ろし、ゆっくりと指を握った。


「治療は終わりました」

「うん」

「もう戻って大丈夫です」

「分かった」


明らかに、それ以上は話したくなさそうだった。ルアンも聞かなかった。


「じゃあ、ありがとう。またね」

「……また?」


フィナが顔を上げる。


「ここ、迷宮の怪我多いんでしょ。僕もたぶんまた来ると思う」

「来ない方がいいです」

「確かに」


ルアンが笑うと、フィナはほんの少しだけ困ったような顔をした。それが、この少女が初めて見せた年相応の表情だった。


管理院へ戻る途中、ルアンは治った右腕を何度か動かしてみた。痛みはなく、身体も少し軽くなっている。


白樹療院には、すごい治癒師がいた。


たぶん自分より年下で、静かで、少し話しにくい。


それから、治療をしている時だけ、なぜか治されている人よりつらそうな顔をする。


ルアンには、その理由がまだ分からなかった。

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